サントリー美術館の「左脳と右脳でたのしむ日本の美」 会場で見ている人の会話が耳に入り、ハッとさせられた作品。なるほど~ そういう見方もあるのか・・・ そして、この展示について、見る前に思っていたこと。見てからの変化。
*ネタばれあり
■これは何? 無印良品が美術館に?!
このコーナーは、触ることができます。白い四角い容器で、無印良品のようなスモークカラー。PPのような素材で、 スタッキングができます。無印良品を彷彿とさせます。こんなシリーズ、無印にありましたっけ?まさか、美術館に無印良品を展示はしないか・・・・
何を目的とした展示なのかわかりません。左の立方体に近い箱の中に仕切りがあります。ここにカセット式に収めるということでしょうか? それもまた、なんだか無印っぽい発想です。
一見、素材がスモークガラスにも見えます。ガラスの重箱と何か関連しているのでしょうか?
この作品の前に来たら、外国の方がなにやら話しています。「MUJI」「MUJI」と言っているのが聞こえました。無印のこと? 無印みたいな展示は、さっきあったけど・・・・ これが無印? と思ったところで、前出の展示との関連がわかりました。
この道具は、昔、行楽の時に使った手提げ弁当箱であることは見てわかりました。
この図を見て、お察し・・・・
先ほど見た白い箱、立方体みたいな箱の中の下部に、仕切りがあるのが気になっていました。中途半端な位置に1つだけ‥‥ 何の意味があるんだろう・・・ それがここに描かれており、どう使われていたのかがわかります。
そういうことだったのね。あの白い無印みたいな箱は、手提げ弁当箱(提重)の構造と機能を示したものだったのでした。
それにしても、無印良品のPP素材や形状、仕組み。それが世界でも認識されていて、その機能を見抜き、堤重(さげじゅう)の共通点として外国の方が見抜かれていたことに驚きました。外国の方が、無印良品を介して日本の美術工芸品を理解されているのです。
そして、無印っぽいなぁ・・・・と感じていた私にもヒントを与えてくれたのでした。
イラストから、提重の外枠の蓋は、スライド式であることがわかります。蓋の構造はどうなっているのでしょう?
▼(左)ぱっと見は、一体化した箱にしか見えません。
(右)もっと近くに寄ってみると、やっとスライドの切込みが確認でき▲ 蓋構造であることがわかります。やはり構造が気になるようです。このあたりの技術も必見です。
これは提重の内部にあった仕切りの下に入れる部分です。描かれているのは、迦陵頻伽ではないでしょうか? そして側面には「五三の桐」に「菊」 由緒ある方の持ち物だったことが伺われます。
■これは何の影?
(右)ガラスを通した光による影が映し出されています▼
(左)▲斜め上に、作品があります。
光をガラス作品の斜め上からあて、投影する位置は作品の先、斜め下。通常、見ることのできない新しいアングルで見せています。
反対側の情報(infomation)コーナーから見ると・・・・
底面が透明ガラスで透過させていました。
会場全体を見てから、再度、印象(impression)のコーナーを撮影をしながら見ていました。女性2人づれの会話が聞こえてきました。
「ほら、これ蝙蝠(こうもり)の影になってる」「ほんとだ・・・・」
えっ、そうだったの? この展示は、ガラスを通した光の見せ方を変えているだけかと思ってました。またこれまでは、繊細なカットの作品でしたが、大胆カットで違いを見せているのだと理解していました。蝙蝠を表現していたなんて、理解していませんでした。
改めて確認したのですが、これのどこが蝙蝠なのか、さっぱりわかりません。
もう一度、情報(infomation)コーナーに行ってみました。
(左)▼確かに蝙蝠です!
(右)投影された蝙蝠は逆さまだったのでした。▲
情報(infomation)コーナーの解説は読まずイラストで理解していました。これだけボリュームある解説を、最初から読んでいたら、見終わりません。解説は写真に納め、あとでゆっくり見ることに・・・・ 気になったところは拾い読み。そのため、これが蝙蝠であることは、認識していなかったのです。
もし、会話を耳にしなかったら、ずっと、蝙蝠であることに気づかなかったかもしれません。
■感想・雑感
「右脳、左脳」「直観的、論理的」「情報あり・なし」と便宜的に分けて展示するという初の試み。この見方は自分でも、実践してきたことなので、正直なことをいうと、新鮮さはありません。
ただ、これをテーマにして、どんな見せ方をするのかとても興味を持っていました。そして、あえてそれを柱にした展示を見た時、どう感じるのだろう?自分でもそのような見方をしていたけども、新たな発見などはあるのでしょうか。
〇感動は単純なものではない
結局、人の感動って「右脳か左脳か」「直観的か、論理的か」と2分できるような、単純なものではないはず。両方を行き来しながら見ているのだと思うし、その中間的なところもあるはずです。
それについては、nendoの佐藤オオキ氏も織り込み済みでした。
一度両者を意識的に切り離すことで、そこから抜け落ちた価値や、重複
した要素、そして浮かび上がる多くの矛盾に気づくことを狙いとしており、この左右脳の間に横たわる膨大なグレーゾーンの存在とその魅力を再認識してもらえることを期待しています。
引用:サントリー芸術財団50周年 nendo × Suntory Museum of Art information or inspiration? 左脳と右脳でたのしむ日本の美 展示構成 サントリー美術館
それでも、あえて切り離してとらえて見て、何が見えてくるのか。そこに着目されていました。
〇浮かび上がった矛盾
それは、見て早々に起こっていました。「右脳、直観」で見ているはずなのに、結局、論理で見てしまうのです。また逆に「左脳、論理」で見ているのに直観的なものをそこから感じていたり・・・・ 両方を行き来しているバイパスのようなものを感じました。
右脳から見て、左脳から見て、もう一度、撮影しながら右脳から見ていました。すると、一つの作品に絞って、「右脳側から、左脳側から両方を行き来しながら」見たくなりました。
スタッフさんに、白と黒を行ったり来たりしてもいいか伺ったところ、「あまりお勧めしませんが、いいですよ」とのことでした。両側面から見たあと、それを統合していくというステップだってあると思うのです。
今回掲げられた「右脳・左脳」というテーマ設定に乗って、私はやっぱり「左脳派、論理派」なんだと自覚しながら見ることになったわけですが‥‥
〇右脳・左脳は似非科学
最初にこのテーマを見た時に思ったこと。
「右脳・左脳」をテーマにした展示? 「右脳・左脳」って似非科学なんだけどな・・・・ それを美術館のメインテーマに据えてしまうのかぁ。大丈夫なのかしら? でした。
脳科学ブームで「右脳・左脳」「男脳・女脳」という話題が、メディアを騒がせています。しかし、それらに対して冷ややかな視線があるのも事実。
お茶の間の話題、世間話でそれを話題にするのはいいとして、美術館という場所で、それを取り上げるという戸惑いを感じていました。
この界隈には、似非科学バトルがあります。ブームに乗じて「右脳・左脳」「男脳・女脳」など語る学者は、冷笑されています。否定派から見たら魂を売った学者。電波芸者とみられることも・・・ そういう学者は信じてはいけない。
一方で、似非科学をあえて正そうとすることに対しても批判がおきるという混沌とした状況に。
しかし、似非科学と言われる言説を主張する人たちにも立場や見解があるわけで、お互いが自分は正しいと思い込んでいる状況なのだと思います。
個人的には、似非科学だと思っていて、私自身の考えは正しいと確信を持っています。右脳・左脳と言ってる学者は信じません。しかし、あちらでは、自分たちは正しい。こちらが間違っていると思っているはず。(あるいは、ポジショニングとしてそういう立場を選択している)
こうした状況を表していると思ったのが、この作品でした。
立ち位置によって、いかようにも変わるということです。誰もが自分の考えることが正しいと思ってしまいます。しかし、どこのポジションに立っているかで、正しかったり、正しくなかったりするのではないか・・・・と。
血液型別性格診断がいい例です。血液型とは赤血球の糖鎖の違いで、そこに性格的な要因はなく、疑似科学であることを知っています。しかし、血液型別性格の話題は大好きです。
それと同じように、心の奥底では「右脳・左脳」は似非科学と否定しています。ところが、今回の展示を見ながら「やっぱり私は、左脳タイプだったのね・・・」と確認して楽しんでいるという矛盾が起きているのです。
前提条件を全否定しているのに、それに乗って楽しむという、グレゾーンのような状態を感じていました。
このテーマを美術館で扱う上で、世間では「右脳・左脳」という言説は、否定的にとらえられているのが一般的です。そこをどう消化されて実現されたのか?というところに、一番の興味がありました。
実は、その答えも、最初に掲げられています。
鑑賞者が美術作品を前にしたときに、その作品の背景にある製作過程や作者の意図や想いなどを知ることで生まれる感動と、ただただ理由もなく心が揺さぶられる感動という、2種類の感動があると仮定して、
2つの感動は「仮定」にすぎないのです。仮定にもとづく、「左脳的感動」右脳的感動」という設定だったのでした。
前者を「information(左脳的感動)」、後者を「inspiration(右脳的感動)」と位置づけ、同一の作品に対して2つの異なる鑑賞の仕方を提案することを考えました。
これらのことを含め、理解した上で、この展示を、私はどのように受け止めるのか・・・・ そんなことを思いながら鑑賞するという今までにない体験でした。
「右脳・左脳」という概念は、論理では否定しています。しかし、感覚としては受け入れているというねじれ現象がおきているのです。
そして、美術作品は、そうした自分の心を写していました。私の考えていることが、そのまま作品に投影されたことを感じた展覧会でした。
■美術の鑑賞方法
今回の展示を通して、美術の鑑賞法について感じたことや、これまで考えていたことをまとめてみました。
美術鑑賞に「知識や情報」は必要なのかということが語られます。「知識や情報」は必要なく「感覚」で見ればいいという意見もあれば、理解するためには、「知識や情報」が必要という意見も。
どちらか一方で考えるのではなく、両方の見方を合わせて鑑賞すればいいと兼ねてから思っていました。今回の展示はそれを具現化してくれた展覧会でした。
〇美術鑑賞の変化
これまで美術鑑賞をしながら、自分の鑑賞レベルによって、変遷がありました。
本当に何も知らずに見ていた時は、とにかく何も感じることができませんでした。どうしたら感じることができるのかを模索しました。
それは知識を得ることだと知りました。すると確かに理解できること、感じることが多くなってきました。
ところがある程度、鑑賞経験が増えると、今度は、知識を持たずに見ることの面白さを感じるようになります。知らない故の想像力や、そのギャップが面白くなってきたのです。
〇「知識か、感覚か」はどちらでもいい
感覚で見るか、知識を元に見るか・・・・ 予習するか、しないかなんて、どっちだっていい。その時の気分に任せば・・・と思うようになりました。
見る前に知りたい、調べたいという気持ちの欲求があれば調べればいいし、そんなのめんどくさい、忙しくて時間がない時は、予習なんてしなくていい。
〇どんな知識で変化するか、意識的になる
ただ、何も、知らずに見た時には、どんな情報によって、見方が変化したのかを、意識的に見ていくことが、ポイントだと思っています。⇒どんな知識を得ると受け止め方が変わるのか
〇鑑賞に欠けているものを意識する
それによって、自分に、どんな知識が欠けているかがわかります。展覧会ごと、作品ごとに確認していると、鑑賞における「無知の知」が次第に見えてきます。自分は何を知らないのか・・・・ 逆に、何を補えば、理解できるようになったのかがわかります。これを意識するようになってから、飛躍的に歴史や美術史が面白くなってきました。バックグランドを知る必要性を感じ、これが鑑賞を攻略する道筋になってくれました。
〇西洋美術は知識が不可欠であることに気づく
「西洋美術は、見るのではなく読むもの」と言われます。理解するために必要な知識が、あまりに欠けているため、見てもわからないのです。自分は何を理解できていていないのか、何を理解しなければいけないのか。それすらも最初は見えていませんでた。
やっと、西洋美術を見るためには、知識が不可欠であることがわかりました。今、一つ一つの展覧会や作品を通して、それを積み重ねて、知識を蓄えているところです。
知識の蓄え方もいろいろで、最初から体系立て俯瞰的にまとめて学んでしまうという方法もありますし、個々の展覧会を通して積み上げていく方法も。どちらがよいかは、向き不向きがあるように感じています。
〇何もわからなくてもいい そのあと一つ知識をつかむ
情報を入れず、予習をせずに見て、何も感じない。何もわからない。(特に西洋美術の宗教画などは・・・・)最初は、それでいいんです。でも、何か知識を得て見方が変化したら、それはどういう知識なのかについて考えるようにします。
それが何かわかったら、少しずつ補う作業を、次からは、事前にしてもいいし、後から復習してもいいい。いずれにせよ、自分の欲求に合う方法で、絵を理解するための知識を持てばいいということに気づきました。もちろん両建てで進めてもいいです。
今回、情報を入れずに見るというシチュエーションが設定されています。その裏には膨大な情報が控えています。その中からどんな情報によって、感じとることができるようになったのか。それを意識して探しながら鑑賞しみてみてはていかがでしょうか? このあとの世界を広げる一つのコツではないかと思います。
■関連
■参考書籍
脳科学、脳科学者の捉え方もいろいろ
○脳科学の真実
○盲信しないために知っておきたい「脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼」