狩野派の系譜、初代正信がお手本にした水墨画の流れ、2代目元信が取り入れた土佐派、そして琳派や桃山画壇の画家に関する資料。
■狩野派系譜
〇簡略図
親子、孫の関係を簡略に示したもの
〇狩野派の略図と流れ
出典:続 西洋・日本美術史の基本(美術出版社)(p97)
狩野派を重用した幕府
狩野正信・・・・室町幕府 8 代 足利義政
狩野元信・・・・室町幕府 8代 足利義政
狩野永徳・・・・信長・秀吉に重用
狩野探幽・・・・江戸幕府
〇狩野派の系譜
出典:詳説日本史図録 第7版(p150)
〇狩野派の形成
〇狩野派 系譜 wikipedhia
正信から探幽
海北友松は、狩野派で学んだとありましたが、wiki pedhiaの系譜図の中には狩野派の系譜の中に存在しています。
■室町水墨画の相関図
足柄将軍家は、唐物蒐集を通して文化的覇権の確立を図りました。
狩野正信は、中国の画家の作風(漢画)に倣いつつ、日本風にアレンジしました。
〇室町水墨画の相関図
出典:続 西洋・日本美術史の基本(美術出版社)(p94)
◆同朋衆(どうぼうしゅう)
室町時代、将軍の近くで芸能を担当した技能者のこと。漢字1字に「阿弥」をつけることから、「阿弥衆」(御坊主衆)(阿弥号)と言われていました。美術の価値体系を構築するのに重要な役割を果たす。1886年廃止。
〇三阿弥
・能阿弥・芸阿弥・・・・水墨画
・相阿弥・・・絵師、鑑定家、連歌師
■土佐派の成立と流れ
狩野派の創始者、正信が幕府に取り上げられていた頃、従来の「やまと絵」の中から、土佐光信が「土佐派」を確立し、御用絵師として登用されました。
出典:続 西洋・日本美術史の基本(美術出版社)(p93)
狩野元信を調べている中で、下記のような記載がありました。
父・正信の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理(後述)しつつ大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる[2])
(wiki phediaより)
【追記】2017.10.08 日曜美術館「目指せ!天下一の絵師集団~狩野元信」より
番組の中で、土佐派の粉本(お手本)を手に入れるための政略結婚だったといった紹介がありました。
水墨画が得意でしたが、やまと絵の伝統の技法、鮮やかな彩色や図案など、自分に欠けていたテクニックに近づくため、そして絵師としての飛躍を目指していたというのは、
土佐光信の娘を嫁にとるのです。名門である土佐家と姻戚筋ということになれば、新参者の狩野家にも箔がつくことになります。それは、いわば政略結婚でした。また、絵の上で元信は革新的な挑戦を始めます。鮮やかな金彩を始め多彩な色使いへと画風を転換させていくのです。金彩や鮮やかな色使い、それはまさにライバルである大和絵の手法そのもの。そこには、元信のある狙いがありました。果たして、その狙いとは?
『美術研究』246,249,270~272号(山下裕二) より
以後約400年にわたって画壇に君臨する狩野派の基礎を固めた功績では父正信をしのぎ,のちに「古法眼」と呼ばれて神格化される。なお,元信は宮廷絵所預土佐光信の娘を妻にしたという伝承があり,やまと絵を代表する土佐派との交流が推測される。
NHKの日美で結婚していたと言われると、そうなんだと思ってしまいますが、伝承という説もあり、確認がとれていないのかもしれません。
■室町時代の文化背景
〇北山文化
3代将軍 足利義光は自らを頂点とする文化システムを構築しました。
将軍周辺の絵師が創出した新たなやまと絵の様式、土佐派によって絵巻物を制作したり、王朝ではぐくまれた伝統の和を、将軍本意に再編されました。それと同時に、高価な「漢」文化を文化の中心に据えられるようになりました。
北山殿が文化の舞台となり、庭池に建てられた金閣は、1階、2階で和漢の様式が並立していました。表の寝殿には日本古来の蒔絵、奥の会所には唐物が陳列。
〇東山文化
室町幕府8代将軍 足利義正(在職:1449年 - 1473年)の東山文化は唐様の中国文化を東山山荘に飾る。(1483年 移り住む)その一方で「やまと絵」も盛んで、主流の「土佐派」が確立。足利義正の銀閣には、和と漢、あいまみれた状態で取り入れられていました。
〇和漢義政の周辺では、下記の流派が活躍
〇阿弥派(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)
〇やまと絵(土佐派)・・・・常御殿の対面 金所には名所や花鳥を主題
■北山文化 東山文化比較
北山文化と東山文化の特徴と違い・比較表 / 日本史 by 早稲男 |マナペディア| より
- | 北山文化 | 東山文化 |
特徴 | 武家文化と公家文化・禅宗様のコラボレーション | 庶民文化の台頭 |
将軍 | 足利義満(※1) |
足利義政(※2) |
建物 | 鹿苑寺金閣 | 慈照寺銀閣 |
様式 | 寝殿造と禅宗様 | 書院造 |
絵画 | 瓢鮎図(如拙)(※3) | 四季山水図(雪舟)(※3) |
文芸 | 能(風姿花伝※4)・狂言 | 連歌(新撰菟玖波集・水無瀬三吟百韻)・御伽草子 |
その他 | 五山文学(義堂周信・絶海中心) | 狩野派(※5)の登場・枯山水の庭・池坊流の華道 |
■室町時代から江戸経た絵画の系譜
室町時代後半から台頭した狩野派を中心に、やまと絵、琳派、浮世絵、そして写生画の円山派、四条派、さらに文人画、洋風画への流れ。
出典:詳説日本史図録 第7版(p193)
■室町・桃山・江戸の絵画系図
室町時代から始まった御用絵師の狩野派を中心に、狩野派の前の時代や、狩野派と相対しした絵師、そして江戸時代の琳派の一覧。これまで見てきた絵師を順番にまとめてみました。
【追記】2017.10.09 たらし込みと琳派 中国画の関係
琳派の特徴とされ、俵屋宗達によって考えられたものかと思っていた「たらし込み」の技法・・・
◆たらしこみ (goo辞書より)
日本画の技法の一。色を塗って乾かないうちに他の色を垂らし、にじみの効果を生かすもの。の創案と考えられ、が多く用いた。
その源泉が中国絵画にあるらしい・・・ ⇒SEASON2-7より
水墨画の技法室町時代に中国から招来し、もう一つの日本画の様式を形成しました。墨の濃淡のみで表現されます。片ぼかし、破墨、たらし込み、潤筆、渇筆の技法が用いられます。
cがたらし込み
宗達が考えたとされていたようですが、実は中国絵画を参考にしていた?!
「たらし込み」を調べてみても、しかるべき情報が出てきません。そういえば、東博で行われた《風神雷神図屏風》のセミナーで、「たらし込み」の技法に定義はないと語られていたことを思い出しました。
■狩野派を学んだ絵師
wiki phedhiaより
〇海北友松(1533~1615)
〇伊藤若冲(1716~1800)
〇河鍋暁斎(1831~1889)
反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。