大盛況のうちに終えた「顔真卿展」 顔真卿を軸にした中国の書の流れを把握したあとは、第2会場に展示されていた、日本への影響や、中国の宋時代以降へのつながりについて心に浮かんでいたことを忘れないようメモ。
第2会場は、顔真卿の活躍を年代を追って紹介。そして日本へどのように影響を与えたかが紹介されています。
■第4章 日本における唐時代の書の受容
〇三筆の紹介
このコーナーでは、三筆と三跡が紹介されるとあって、光悦が登場? と期待したのですが、三筆は平安時代の三筆でした。光悦は寛政の三筆。(⇒*1)
三筆:「空海」「嵯峨天皇」「橘逸勢」(平安時代の三筆)
→唐時代の書を通して、王羲之の書法を学ぶ
三跡:「小野道風」「藤原佐理」「藤原行成」
→唐時代の書を学びながらも、日本独自の書風を開花
■空海といえば…
「弘法も筆の誤り」
「弘法筆を選ばず」
の諺があるように、字がうまいことで有名です。
ところが・・・・
2018年、東博で行われた「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-」で、空海の書を初めてみました。その感想は、これが、あの達筆で有名な弘法大師の字なのか・・・・ でした。
〇「仁和寺と御室派のみほとけ」の空海《三十帖冊子》
この展覧会の目玉が、《三十帖冊子》。修復を終えた国宝を全帖公開するということで注目を集めていました。あまり目にすることない空海の文字。それがどんな文字なのか… 《三十帖冊子》の画像を紹介しているブログを下記にリンクします。
そして東博のツイートから…
2月16日にツイートした、仁和寺展のグッズに使われている「空」と「海」の文字…今まさに展示している三十帖冊子のページのどの文字かというと…正解は20帖のここでした!2月25日までの展示場面です!! pic.twitter.com/fviTVYLiG0
— 特別展 仁和寺と御室派のみほとけ (@ninnaji2018) February 20, 2018
仁和寺展グッズ紹介①「三十帖冊子 お手本帖」
— 特別展 仁和寺と御室派のみほとけ (@ninnaji2018) February 10, 2018
国宝「三十帖冊子」から、書家・永守蒼穹(そうきゅう)さんが選んだ48文字を、書のお手本用カード(はがき大)にしました。このお手本帖のために新撮された画像から、空海の書のすごさが伝わります。4,536円(税込) pic.twitter.com/cLnk6r3VDY
空海真筆の国宝「三十帖冊子」!展示替えをして、2月27日から最後の新しいページを公開中です!22帖と27帖!27帖の空海が書いたとされる梵字は必見です!! pic.twitter.com/5QwWGzL415
— 特別展 仁和寺と御室派のみほとけ (@ninnaji2018) February 28, 2018
これらのどの書を見て、「あれ?」と感じたのか、記憶を手繰り寄せてみるのですが、それらしいものがみつかりません。印象では、文字の中心線がずれていて、余白がうまくとれていないように感じさせられました。
↓ こちらで紹介されている空海の書だったような気もするのですが‥‥
あの時の印象と、今回見る空海は変わるのかしら?と思いながら見ると・・・・
■顔真卿展でみた空海
今回、展示されている空海の作品は、次のとおりです。
138 崔子玉座右銘 空海筆 東京・大師会
139 崔子玉座右銘 空海筆
140 金剛般若経開題残巻 空海筆 京都国立博物館蔵(⇒*2)
141 金剛般若経開題残巻 空海筆 東京・根津美術館
私が見た記憶では、空海の書は3点だったのですが4点、あったようです。
最初の2点は、以前、見た空海の印象とは違っていて、これなら、空海と言われて違和感もなく受け入れられると思いました。
が! 最後の1点は、やはり最初の印象と同じく、文字が曲がってる! 私が最初に見た空海のイメージと同じでした。
〇同じ人が書いても違う
同じ空海でも、印象が違うものなんだなぁ‥‥というのが今回の感想。個人的に、好き、上手だなと最近、感じるようになった本阿弥光悦の文字。
今回の顔真卿全体の展示を見て理解できたことは、空海と光悦の文字は、そもそも書いている書体が全く違うということがわかりました。それを同列で見ていた…ということでした。
そして、美しい書と思っていた本阿弥光悦も、TPOでいろいろな文字を書いていたことを、最近、東博の本館の展示で知りました。(⇒〇本阿弥光悦はTPOで書体を書き分けていた)
書も絵と同じ。終生、同じ文字を書いているわけではない。書く年代で変化もするし、いろいろな書風も書き分けている。その時々に合わせて、いろいろな文字を書いているということがわかってきました。
〇空海の文字が美しいと思わない人もいる
私が最初、空海って字がうまいのかなぁ‥‥と感じたのと同じようなことを感じている方がいらっしゃいました。
〇下書きとして書く文字もある
そして、次のようなツイートを目にしました。
友達のお父さんが見つけてくれました、読売新聞に小さな文章寄せました。「仁和寺と御室派のみほとけ展」今週末までです。わかりやすく圧倒される展覧会ですので是非。この機会を逃すと今後一堂に見られる機会はない秘仏と仏像揃いです。 pic.twitter.com/KdBIovWr2Y
— おかざき真里 (@cafemari) March 10, 2018
最澄・空海の漫画を描かれている方が、空海の 「三十帖冊子」は、本描き前の構想アイデアや、設計図のようなもの。漫画でいうネームのようなものなのではないか…と。
つまり、「三十帖冊子」は、他人に見せたり、後世に残すことを意識して書いたものではなく、覚書、下書き、ネタ帳のようなものだった!
〇諺の意味は、違うのかもとさえ思ってましたが
それを聞いて、妙に納得できました。弘法大師って本当に字がうまかったんだろうかと思っていました。諺の意味が、実は違っていて、書のうまさについての言葉ではなく、僧としての人格の部分のすばらしさを言ってるのかも。それがいつの間にか、書がうまい弘法大師でも・・・・という意味に変化したとか?
弘法大師=達筆 というイメージが独り歩きしてしまっているのではないかとさえ思っていたのでした。
書の達人と言われた弘法大師。一つ一つの書は、いろいろ目的があって、TPOによって書体も変わる。書には、人に見せるための正式なものもあるし、下書きのようなものもある。そんなことを、今回の顔真卿展で理解することができました。
■自叙帖
引用:自叙帖 - Wikipedia 台北・故宮所蔵の懐素《自叙帖》(唐時代・8世紀)の狂草
書かれている内容は、懐素(僧)の自分自身の経歴。いわば自己宣伝文のようなもの。日本初公開。
〇酒を飲みながら書いた書
お酒を飲みながら書を書いたという逸話があります。飲むことで自己解放し、草書で心の内を吐露しています。流れるような筆運びは、恍惚とした美を感じさせるといいます。(⇒*3)
顔真卿と同時代を生きた懐素。顔真卿によって、自らの情感を率直に発露する機運が高まったという時代背景もあって、このような独特に見えるスタイルが登場し受け入れられたものと思われます。
〇解説の「的を得る」から
ところで、長い解説をゆっくり読みながら鑑賞をしていったのですが、本筋とは違う部分に目がとまりました。それは、後半部分に書かれていた「的を得る」という解説。
「的は射る」もので「得る」ものではないというのが通説だと記憶しています。ところがここでは「的を得る」いう言葉を選んでいます。それは何か理由があるのでしょうか?
調べてみると、現在「的を得る」は正しい用法となっているようです。言葉はゆれると言われますが、一度は、三省堂の辞書の中で、誤用と否定されました。今は、撤回されているとのこと。数年前には、「的を得る」は間違いという情報が広がっていました。
言葉、解釈は、不動のものではなくゆれているとされています。
懐素が自身が学びについて書いたという自由奔放な書。解説を読みましたが、何が書かれていたのか、記憶にはとどまりませんでした。しかし、解説の最後の言葉で、言葉をどう使うか。どう理解するか。また情報をどう受け止めていくかについて考えさせられました。
■草書五言律誌軸
顔真卿展を見ていて、《祭姪文稿》《紀泰山銘》など、見どころと言われる書がありましたが、個人的に印象に残った書は、《草書五言律誌軸》傅山筆 清時代・17世紀の作品です。
見た瞬間、感じたのは「これは、達筆といえるのだろうか・・・・」ということでした。
私たちは、草書で書かれた文字を見ると、その文字は上手だと思ってしまいがち。崩し字が書けるということは、ある程度、文字を書きつけてきた人で、次のステップに進んでいる人。崩し字が書けるということは、字が上手と理解する傾向があります。たとえうまくなかったとしても、上手に見えてしまうマジックが崩し字にはあるような・・・・
しかしながら、この文字は、どう見ても、うまくは見えません(笑) 妙に癖のある文字で、自分のオリジナルの文字として書いているのでしょうか? あるいは、新たな書体を創出したのかもしれません。それでも、お世辞にも上手とは思えないのです。
空海の書を初めてみた時と同じような印象を受けています。これを書の世界では、美しい文字ととらえているのでしょうか・・・・ 解説を見ると・・・・
筆者の人品を重んじ、技法的巧みさや美しさより、拙くても醜くても奔放に書くことを尊んだ連綿を駆使した鋭い筆致
やっぱり! そうよねぇ・・・・ それにしても、解説で「拙い」「醜い」と公言しているところに、親しみを感じました。技巧がもつ作意や虚飾を排除し、ありのまま書くことを主張したそうです。いろいろな表現があります。
〇うまいだけではない?
書はうまい下手ではない。ということが伝わってきた気がします。心? 人柄? 顔真卿が作り上げた人格が加わることで評価が高まるという世界感。お酒を飲みながら書をかく、懐素のような人も登場します。さらに時代がさらに下り、清王朝になると、うまへたのような個性的な字を書く書家の登場。書を書く人のキャラクター性が重視される世界へ、引き継がれていったということでしょうか?
さらには、現代のパフォーマンスなども含む現代美術のような書に、つながっているのかもしれません。と思ったら、平成館のガイダンスルーム横の企画展示室で行われていた作品展ともつながっているのかな?と思われました。
タイトルを見たらまさにそのとおりでした。
「古典を受け継ぐ現代の書-世代をつなぐ筆墨の美-」
さらに、この展覧会と顔真卿にもつながりがありました。
シンボルマークの「毎」の文字は、顔真卿の祭文「祭姪文稿」から借用したものなのだそうです。
■歴史はくりかえされる
ところで、これまで美術作品を見てきて、その背景にある歴史というのはくりかえされているもの。そして、他の地域・国でも同じような歴史がおきているということを感じてきました。
とすると、日本で王羲之にあたる人は誰なのでしょう。そして顔真卿に匹敵する人は?と考えているのですが、まだ書の世界のことがわかっていないので、みつかりません。
そして顔真卿を超えるような書家が今後、現れるのでしょうか? 言葉は時代とともに変わり、文字も変わります。今の時代でいうとギャル文字が登場してそのフォントが開発されたりします。
今後、もっと長い目でみたとしたら、今からは想像もできない文字が登場し、顔真卿を凌駕するような人物が現れるのでしょうか?
前回のデュシャン展では「すべてデュシャンがやっている」と言われてしまい、デュシャンを超えるのは難しいとされています。顔真卿もそのような存在なのでしょうか?
もう一つの疑問は、古典に学ぶということで、顔真卿の《祭姪文稿》の臨書をしているのを見かけました。これは、文字の形態だけを学ぶだけなく、顔真卿が書いた背景の心にも感じ入って学ぶのだと思うのですが、親族が殺された気持ちを、自分の心に投影しながら、模写をするということなのかと思うと、ちょっと複雑な気がします。
お酒を飲みながら、天真爛漫に描いた自叙帖の懐素を臨書するのはわかりますが、《祭姪文稿》を臨書するのは、精神衛生上、よろしくないのでは?なんてことを考えてしました。顔真卿は、古人を模倣せず、個性的な書を尊ぶと言います。ここから自分の個性を作り出すということなのでしょうか?
■感想・雑感
今回の展覧会のメイン作品《祭姪文稿》の文字の乱れと、最後に印象に残った《草書五言律誌軸》の乱れ。それぞれの書にどんな心情が乗せられているかという付加情報を抜きにして、文字だけから何が伝わるか・・・・と考えた時。
文字だけから発するオーラやインパクトという点では、《草書五言律誌軸》が印象深い作品となりました。
背景を知らずに見て、文字だけからどれだけのオーラを受け止められるか。《祭姪文稿》は30秒の鑑賞では足りないと思っていました。心打たれているのは、書ではなく、背景のストーリなのでは?という部分で、ひっかかりがありました。
絵画の鑑賞法で、対話式鑑賞が注目を浴びていますが、書にも同様の鑑賞法があることを知りました。
これを見て思ったのは、作品に関するストーリーを知らずに、「書」だけから、どれだけのことを感じとることができるかという視点で見ていたのだということでした。
《祭姪文稿》は、書を見て感じているのか、背景のストーリーで感じさせられているのか、自分でもよくわからなくなっていたのでした。
次のような主催者からのメッセージが開催前にありました
書はわからない、読めないから、作品に興味が涌かないという方もいらっしゃるかもしれません。ですが、「祭姪文稿」をはじめ、作品には筆者の魂、形を超えたオーラが込められています。書が読めなくても、真剣に見れば何かを感じ取れるはずでしょう。
このように、本展は書を知っている人にはもちろん、書を知らない人でも、書の美しさやそこに込められた思いを感じ取れる貴重な機会となります。
よくわからないけど、なんとなく気になっていた「書」でした。でかけてみてよかったと思いました。その大きなきっかけは、中国の人たちがいっぱい来ていると聞き、そこにどういうメンタリティーがあるのかという興味の方が実は大きかったとも言えます。
子どもが音声ガイドをつけながら親子でほほえましく見ている様子がそこかしこに見られました。大きな声が気になることもなく、想像していたような状況はありませんでした。書というものが深く浸透している文化を感じられました。
わからない、読めない。それでも、そこから何か読み取る。象形文字から始まった漢字は絵画的。同じ文字を使ってきた文化の中に、いろいろな意味で、伝わるものがあり、何か相通じるものがあるのかもしれません。
*1:「三筆ってどんな三筆があるの?」wikipedhiaより
- 世尊寺流の三筆(藤原行成・世尊寺行能・世尊寺行尹)[2]
- 寛永の三筆(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)[2]
- 黄檗の三筆(隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一)[2]
- 幕末の三筆(市河米庵・貫名菘翁・巻菱湖)[2]
- 明治の三筆(日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六)
*2:画像:「【画像】『顔真卿 王羲之を超えた名筆』報道発表会レポート 悠久の時代を超えて輝き続ける書の魅力、「かたちを超えたオーラ」に出会う」の画像16/18 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
*3:「酒は本当に飲んでいたのか?」
「お酒を飲みながら書いた」という記載もあれば、そのように「言われている」という伝聞表現も見ました。この手の話って、そうだったら面白い、興味を引くとうこともあり、盛られている可能性があるかも・・・と思いながら。