6月2日は開港記念日で、横浜美術館は無料観覧でき大勢の人が鑑賞していました。その中で、コレクション展で見た松井冬子さんの作品。昨年も見ていたのですが、全く違うものが見えてきました。その衝撃的な発見! 人は見ているようで何にも見ていないことを実感。
- ■作品は遠目にも何かを発している
- ■松井冬子さんとの出会い
- ■【追記】(2016.12.18)日本画の松井冬子さんの対談より
- ■新美術館開館記念特別展 速水御舟 日本画への挑戦
- ■林先生リスペクト 御舟論の中で
- ■じっとみつめて気になるところを撮影
- ■まとめ 感想
- ■参考
■作品は遠目にも何かを発している
この会場は「自然を探す」を開催されているコレクション展です。何か、奥の方にらに気になる絵が・・・
絵の鑑賞というのは、これくらいの距離感の段階から始まっているのだということを認識しました。「遠くにあるあの絵、なんだろう・・・」 無意識の中に紛れ込んでくるのです。
最近、広い会場で行われる展示をいくつか見てきました。このような大きな空間に作品を展示することによってもたらされるもの。遠い距離感の中でも、あれ、なんだろう・・・と、気を引く力を持っている絵があることに気づきました。何か魅力を持つ絵は、遠くまでその気配を発していているようです。
気になった絵は正面のこちらの絵だったのですが・・・・
その横には、同じ作者の松井冬子さんによる《世界中の子と友達になれる》
▲ 《世界中の子供と友達になれる》松井冬子
この作品、昨年の横浜美術館のコレクション展でもで出展されていました。メアリーカサット展と同時に行われていた常設展で展示されていました。カサット展を見たあと、あらためて常設展だけを見に行きました。「しなやかさとたくましさ 横浜見術館コレクションに見る女性の眼差し」という展示の中で、比較的メインに位置づけられていた作品だったように記憶しています。
ここの画像を見てそう感じていたのかもしれません。
⇒横浜美術館の2016年夏のテーマは、画業を貫き通した「女性たち」。
ところが・・・
この絵を前にした時、スルーしていました。松井冬子さんという方を存じ上げていなかったことと、どうも人が描かれた絵に苦手意識を持っていました。もしこの絵に人が描かれていなければ、じっくり見ていたような気がします。しかし人がいることで、解釈がむずかしくなり、よくわからなくなってしまいます。何を描こうとしているのか、なかなか理解ができないジレンマが伴い、避けてしまいがちです。
わずかな記憶をたどると、絵から受けた印象は、初めて院展に出展した新人さんのような作品・・・ そんな印象を持ちました。そのころ、定期的に院展の作品を見るようになっていて、そこで出会う人物が描かれた作品を前にしたときに感じさせられるものと同じ印象を受けたのでした。
この絵をどんな風に受け止めていたのか撮影した写真から探ってみようと思いました。ところが、一枚も撮影はしていませんでした。本当にスルー状態だったようです。
写真に記録するというのは、その絵に対してどういう視点を加えて見ていたかをあとになって理解する一助になります。どこをどのように撮影したかを見ると、その瞬間、この絵をどう受け止めていたのかをあとで読み解くことができます。しかし、残そうという気持ちにもなっていなかったことがわかりました。
■松井冬子さんとの出会い
その後の松井冬子さんと出会ったのは、速水御舟のことを調べていた時でした。《炎舞》はちまたの評判ほどの作品なのだろうか・・・という疑問を持ち、あれやこれや、いろんな人がどのようにとらえているのかを探っていました。その時、松井冬子さんという女性日本画家が、御舟の《炎舞》の秘密を探るという番組が放送されており、軽井沢で実際に薪をして、日本画家の目を通してた御舟の《炎舞》の分析がされていました。
それは「極上美の饗宴 111017 日本画を突き抜けた炎 ~速水御舟」という番組で、NHKのBSプレミアム「極上 美の饗宴」で、御舟の『炎舞』が取り上げられました。炎を物理学的にとらえ、実験データをもとに検証するという番組でとても興味深い内容でした。御舟の目は、炎を物理学の法則までもとらえて絵に描いていたと語られていました。そのヒントとなる炎の動きを松井冬子さんが火をみつめることでとらえ、それをもとに検証していました。
炎の燃え方を物理学的にとらえて、それを御舟は表している・・・というアプローチは面白いと思ったのですが、私は御舟は、その原理・法則を表しきれていないと感じていました。ところが注目の日本画画家、松井冬子さんは、御舟の《炎舞》を大絶賛されていました。この方と私の受け止め方の感性が違う・・・と思いました(笑) 御舟について語る言葉が、どうも腑に落ちず、ほんとにそうなの? そんな消化不良状態でなんとも言えない感覚、自分が受け止めたものを否定されたようなジレンマを持った記憶がよみがえってきます。
その後、また、ご本人を目の前にする機会がありました。それは山下先生との講演会でした。参加をするときには、テレビ番組に出られていた方だとは、一致しいませんでした。
■【追記】(2016.12.18)日本画の松井冬子さんの対談より
山下裕二(明治学院大学教授)× 松井冬子(日本画家)特別対談
テーマ:日本画の未来に向けて」六本木アカデミーヒルズ タワーホールにて
松井冬子さんと山下先生の対談が行われました。テレビ番組の撮影で実際にたき火をした話をされて、あのテレビの人だったんだ・・・と一致しました。御舟は動態視力がすばらしい。炎の動きはとても速いのに、その動きを捕らえている。写実であり、装飾的と語られました。
山下先生談:リアルな蛾の羽の後ろをぼかして飛んでいるように見せながら、ありえない正面の配置などの解説があり、松井冬子さんの作品紹介もされました。
その時に、《世界中の子と友達になれる》の絵を山下先生が紹介され、あれこれ解説をされていてあの横浜美術館で見た人だったんだ・・・とすべてがつながったのでした。
この講演会を聞きながら、お二人とも、御舟大絶賛状態。山下先生は歯に衣着せず、本音をおっしゃる方なので、御舟については、何か思うことがおありなのでは? と思っていたのですが、評価されていらっしゃるんだ・・・・と心の奥底でそんなことを思いながら、お話を聞いていました。
その後、また山下先生の講演会が他でもあり、そこでも御舟について語られていて、その業績について評価をされていらしたので、本当に御舟を認めていらっしゃるんだな・・・ 御舟は、山種美術館のメイン作品でもあるわけだし・・・と思っていたのでした。
ところが、山種美術館が新美術館を開館した特別展の冊子を見る機会があり、その冒頭に次のような文言を見たのでした。
■新美術館開館記念特別展 速水御舟 日本画への挑戦
p11 山下裕二先生の寄稿より
御舟の夭折(ようせつ=若くして死ぬこと)により老大家、あるいはのちの老大家によって称えられたことで以後の院展、日本画全般のありようにとてつもない影響を与えてしまった。また山種による一括購入による御舟のブランド化が加速。御舟は特別という風潮が・・・・
全能の神のごとくあらゆる技法に習熟しその技法を画面に余すことなく定着したタイプの画家ではなかった。線画を排除した塗る日本画に傾倒。日本画壇が御舟に冠をいだくことでつまらない美術史作った。大観、天心の評価とともに見直すことが必要。
やっぱり! 先生もそう思われていたわけじゃない! 私が感じた通りの評価だわ・・・ さすが、山下先生・・・・ しかし、これまでの発言はどうして? いろいろ立場的なこともあって、本音をおっしゃることができない事情があるということをお察ししたのでした。
ちょっとというか、かなり横道にそれてしまいました。山下先生の速水御舟評価・・・という内容になっておりますが、このあと、松井冬子さんにつながります。
■林先生リスペクト 御舟論の中で
そんな折、「林先生の痛快!生きざま大辞典 日本画家・速水御舟の人生」という動画を見ました。今は、削除されてしまっているのですが、林先生は速水御舟を、リスペクトされており、番組の中で紹介されていました。
いかに速水御舟が素晴らしいかを語られていたのですが、その中で「太陽別冊」の速水御舟を取り出し、次のように語られました。この本の中で、「山下裕二先生と、日本画家の松井冬子さんは、速水御舟は決して、才能ある画家ではない・・・」とおっしゃっていますと。
なんだ・・・松井冬子さんも御舟のことをそんなふうに思っていたんだ・・・(まだ原本を見ていないのでどう、語られているのか確認はしていません。ここでもちゃんと確認をする習慣は大事です。林先生を通したフィルターと自分が感じるフィルターが違うこともあります)
■追記(2017.12.11)別冊「太陽」速水御舟 日本画を「破壊」する
「いま、御舟の絵に向き合う」より(p116~125)
天才か努力の人か
山下:御舟について思うことは、この人はうまれつき絵描きとしての天才的な資質を持った人ではないと。見たものをさっと再現できてしまって、素描もすごく達者という人では全然ない。(中略)《炎舞》といった有名なものを見ても、すくなくとも線が達者な人では全然ないね。だから面的な色彩の効果というものを、とことん突き詰めようとした極めつけの努力家なんだろうね。
松井:私もそう思います。中略 努力する才能を持っているというか…
9ページの特集の中で、否定的(?)にとらえていたのは上記の部分だけ。たったこれだけの部分を、林先生は拾い上げていることの方に驚きました。
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ここで、林先生がすごいと思ったのは、ただ好きをおしつけていないということでした。評価する人もいれば、それを否定する人もいる。その意見もちゃんと調べていてしっかり把握し、そういう意見もある。ということを提示した上で、ご自身の発言をされていたことでした。得てして、自分がいいと思うとその視点からだけ見てしまい、その逆の立場の視点に立つことがなかなかできなくなりがちです。そこを網羅的に把握していらっしゃるのだなと感じたのでした。
結局、こうして、時と場合によって発言内容が変わるということがおきているということなのです。どの言葉を信じたらいいのか・・・ たとえ、本人の口から発せられたり、著書で語られたりしていても、本音ではないことはいくらでもあるという視点も持つ必要があるということなんです。「〇〇に本人が書いていたから・・・」「〇〇で言ってから・・・・」しかしその発言の背後には、いろいろなしがらみがあることもあります。講演会には主催者がいてスポンサーがいます。著書には編集者というフィルターがかかっています。売れるためには・・・・という力学も働きます。そのため、本人が発していたとしても、本意でないこともあるということなのです。そこをいかに読み解いていくかということが、見る側の精査であり、リテラシーと言われるものにつながっていくわけです。何でも疑ってかかる習慣。たとえ本人が言っていたとしても、おかしいと思った時は、それは本心からの発言なのかどうか・・・ そんなふうに見てしまう習慣がついてしまったのでした。
ということで、松井冬子さんに対して、当初速水御舟をリスペクトしている画家。という認識だったので、私とは感性が違う方だと思い、失礼ながら興味を抱けませんでした。しかし、山下先生とともに、御舟の「本質」(私はこういうことが画家の本質だと思っています)を見抜いていた人・・・・と私の中の認識が変わったので、1年ぶりに触れる作品も何か、感じるものがあるかもしれないと思ったのでした。現に、こんなに遠くにありながら、私の気を引いてきたのですから・・・・ 何様的発言ですが(笑)
■じっとみつめて気になるところを撮影
藤の色重ねによる表現に深みがありそうです。
藤の奥へ奥へつながっているような・・・・
すると子供がじっと立ち止まってみつめていました。何を見ているのでしょう・・・
↑ この足でした。足先が赤くなっています どうしたのでしょう?
母親に向けて、「この子、はだしだよ・・・」って言ってました。
子供の目は、そっちに行くんだ・・・・
私が気になったのは、この赤味なんだけど、これは何? 血?
まさかねぇ・・・ そんなはずはないよね。赤からんじゃったのかな?
人が苦手・・・ でもちょっと寄ってみようかな?
なんだか、顔の回りがぼんやり。まだ描きかけで完成していない感じがしてしまいました。ミュシャの未完成の絵を思いだしました。この絵のタイトルは《世界中の子と友達になれる》 意味がよくわかりません。このうすぼんやりとした空間が、世界に向けた窓口で「お~い、みんなぁ・・・友達になろうよ~」って声かけてるのかなぁ。
そうか、空間の歪、四次元の世界を表していて、見えない世界の子供を表現しているのか・・・ だからあえて顔の回りをぼんやりと描いていたとか???? なんだか目の表情が描かれていないけど、なぜ? みんなと友達になりたいにしては表情が暗い・・・・
そして視線は、背中の方へ・・・
なんだか丸まってる。この背中の丸まりはなんだろう・・・ 秘めやかさを感じます。友達になりたいのに、こっそりささやいているような。あまり聞かれたくないような・・・
視線は、今度、フジの下部に移りました。黒で表現してるんだ・・・ フジの房の長さの違いで画面に奥行き感を加えてる? この前後の関係で上部のフジとは違う奥行きを感じさせます。
フジのモチーフで思い出すのは鈴木其一です。其一もいくつかのフジを描いています。大きな房の回りに広がる空間表現が特徴的でした。ひとふさのフジの回りに蔓などを配して空間を広げる。螺旋によるトルネード。こちらは密集させたフジ。その重なりの中に広がる奥行き。フジを群落で描いたこれに似た表現方法を、院展の作品でもいくつか目にしてきました。だから、初めて見た時、この作品は院展に出展する初心者・・・って思ったのかもしれません。
そして今、写真を整理していて気づきました。ずっと、このフジを紫色だと思っていました。房の下部は墨で、上部は紫に着色していて・・・・ と思って改めてみると、このフジ、紫じゃななかった!
この下部の黒による空間の広がりについて、海北友松の墨の表現と対比的に見ていました。疎の墨表現。密な墨表現・・・ ちょっとこの部分、拡大しながら撮影してみよう。
背後にうっすらと墨のベースがしかれてる・・・・
そしてまた、対比するように上部のフジの部分を拡大撮影していました。
すると、あっ!
こんなところに虫が・・・・
これ、其一もよく描いた手法。大きな画面に虫を一匹、まぎれこます。日本画ってそういう遊び心を加えるんだ・・・
この虫に気づいた人、そんなに多くはないはず。うふふふ・・・・ 私、また見つけちゃったわ・・・・と思ったとたん。
↑ ↑ ↑
こんなところにも、ここにも、あそこにも・・・・ やだ~
するとぎょえ~!!!!!
フジの房の先端と思っていたのは、ハチの大群だったのです!
画面いっぱいに広がるそのおびただしい数といったら・・・・
さっきまで、フジの下部は、墨絵状態で空間のひろがりを持たせていると思いながら、寄りぎみの撮影していたのに、そこの部分はハチでうめつくされていたのです。
みんなこのことに気づいているのかしら?
若い男女の2人連れがやってきました。この人たちは気づくのだろうか・・・と思っていたら、気づかない様子・・・・
ところが、女性が「これって結局、フジのところがハチだだってことでしょ。それ以上の何があるのかわからない」と・・・・ そうか、知ってるんだ。「まあ、いろいろ、捉え方があっていんじゃない?」と言って通り過ぎていきました。
しばし、様子を見ていたのですが、このからくり(?)に気づいている人はいませんでした。ただ、一組、ご年配のご夫妻がこの絵の前でひそひそ。あっちに行ってひそひそ。こっちを見てひそひそ。ああ、ご存じなんだ・・・と思いながら、何を語られているのかとても興味がありました。
■まとめ 感想
昨年、同じ美術館で同じ作品を見た時には、気づかなかったどころか、何の気にも留めることのなかった絵。その後、いろいろな形で松井冬子さんという方に触れる機会があって、その作品が向こうから近づいてきた感じです。
おびただしいハチの大群に気づいた時の衝撃。こんなインパクトを受けたのは初めてです。タイトル《世界中の子と友達になれる》との関係は? そうか・・・虫も花もみんな同じ。みんな友達。手のひらを太陽に・・・・の世界観? ”とんぼだって、ミミズだって・・・ みんなみんな生きているんだ友達なんだ・・・”
子供時代というのは、動物も植物も同列で友達。ということを言いたかったのか・・・
なんて考えていたところで、記憶が呼び戻されました。そういえば、山下先生、松井さんのこと紹介しながら、こんな絵を描いた人だって、グロテスクな絵を何枚も見せられたんだっけ・・・ そういえば、この絵を見せながらハチのことも話していた気がする。「なんであんな絵、描いたの? あんなにいっぱいのハチで埋め尽くして・・・」 そんな会話が突如、蘇りました。
松井冬子さんについて調べてみると・・・・ うわ~、なんだかこじらせ系のような人だったんだ・・・ 横浜美術館で、個展も開いていました。
松井冬子展 ―世界中の子と友達になれる― | 取材レポート | ミュージアム(博物館・美術館)情報ならインターネットミュージアムより
小さな町の小学校では次々に友達が増え「いずれ世界中の子どもと友達になれる」と強く確信していました。 もちろん、成長してからはそれが不可能であると気づきますが、「世界中の子と友達になれる」という言葉は、妄想と狂気が入り混じったキーワードとして、松井さんの中に強く残ったのです。
「世界の子供と友達になれる」というのは「人類皆兄弟」のようなスローガンみたいなものと解釈しました。それにしては人の表情が無表情・・・ ちょっと怖さも感じると思ったのですが、「妄想と狂気」としてのキーワードだったとは! 全く違う方向のとらえ方をしていたみたいです。
結局、絵の解釈というのは、自分の理解が及ぶ範疇で解釈する以上のことは難しいということなのでした。もののとらえ方は共通している。落としどころが次第に同じになってきている・・・・・ この絵で自分が持った感想と、どんなことを考えながら描いたかという本人の言葉を聞いて感じさせられたことでした。
もう一つ、目に飛び込んできた作品
これを見た時、なぜか草間彌生が思い浮かびました。本人の頭の中の様子を描いたのではないか。タイトルを見てからそう思ったのか見る前にそれを感じたのかわからなくなってしまいましたが・・・・
《 この疾患を治癒させるために破壊する》
■参考
〇「技術を伴ったパッションの記号化」の軌跡と今後──松井冬子「世界中の子と友達になれる」展レビュー:フォーカス|美術館・アート情報 artscape
〇松井冬子展 @横浜美術館 : Art & Bell by Tora
〇 松井冬子さんの画集を購入し、後悔したことについて - 紙の家の記録
全く何も知らないで見る。作者のこと、作品のことを知ってから見る。そしてその周辺の業界事情的なことが見えかくれしてくると・・・・
本人の語ったことは真実ではないことがある。戦略や演出として語られることもある。こういうテーマを選べば受けがいいかも・・・というとらえ方。そういうことも確かにあるかもしれない。真実は本人のみぞ知る? こちらからは想像でしかありません。
腑分けも描いていた・・・ 解剖という視点の絵を描いていた人。美術解剖について一時期探っていたことがありました。美術界における解剖とはいかなる位置づけで捉えられているのか。 Art & Bell by Tora氏がそこのところに言及されていました。美術解剖学会の役員を調べると、松井冬子が含まれていると言います。
解剖を経験した立場から、美術界における解剖教育、実習について、どのように行われているのか。どのような規定が儲けられているのか。解剖実習を義務付けられているのは? 逆に解剖実習を行える条件というのはあるのかなど、美術に興味を持つようになってから調べたことがあります。また、献体を前にした時、美大生はどういう感情を抱くのか・・・・
美術教育において解剖の実習を行うとしたら、どんな実習が組まれているのか。解剖実習が行われているのは、ある特定の大学に限られていました。献体はどうやって? その場における命の尊厳のような教育は、誰がしているのだろう? 生命という基礎知識ができているからこそ、解剖の意味、意義が見いだせるのだと思っていたので。医学界においても献体が足りないといわれています。「解剖」を戦略の道具として使って欲しくはない。という強い気持ちがあります。
私がこの絵を見て感じた《世界中の子と友達になれる》から読み取ったこと。それは命は全て平等・・・・を表していたんだ。
しかし、その後に調べてでてくる周辺の様々な情報と、最初に受けた印象との矛盾。
基本、最初に感じたことを大事にしたいと思っています。意外にもその感覚が真実をとらえているということが、これまでも何度となくあったと思うから・・・ 今後の変化がちょっと面白い作家であり絵だと思いました。