コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■天下を治めた絵師 狩野元信:元信に学ぶビジネス戦略

美術を見る効用として、最近は仕事にも生かせるという着眼点があるようです。歴史ブームなどもそんな影響があるのでしょうか? サントリー美術館「天下を治めた絵師 狩野元信」が行われていますが、この展示はまさに、絵画をビジネスの戦略で主流派に仕立てあげた元信の手腕を知ることができます。

 

 

■始祖「狩野正信」について

狩野派の二代目、元信の前に父であり狩野派を立ち上げた始祖と言われる狩野正信につい調べてみました。狩野派を経営的な才覚でスターダムに押し上げたと言われる元信ですが、その前の父の時代はどの程度、足固めをしていたのでしょうか?

 

〇御用絵師になったのは50歳

狩野派のスタートは、室町幕府の8代将軍 足利義正(1436-1490)の御用絵師となったことから始まります。足利義正は応仁の乱(1467年)などで将軍の権力が落ちるのを、文化の力で権威を示そうとしました。芸術を保護し、北山文化から東山文化へと変遷をもたらし銀閣を建てた将軍です。

 

その元で、正信は50歳ごろに《潚湘八景図》を描きました。(この時、元信は8歳)正信が最初に絵を描いた記録は、1463年(29歳)です。

 

〇生没年 1434~1530年(98歳)

正信の生没は1434年~1530年(98歳)でとても長寿でした。(正信の没年、元信は54歳)室町時代の平均年齢は、15歳だったそうです。(参考:縄文時代15歳、鎌倉時代24歳。日本人が知っておきたい「寿命」のお話 | TABI LABO)それから考えるとかなりの長寿。

 

〇正信の画風

当時の水墨画は、中国の画家の作風(漢画)に倣いつつ、日本風にアレンジするという方法が主流でした。正信は中国の名作に倣い、卓越した筆致を身につけ漢画を主体とする絵師として認識されていました。しかし、これは正信個人の様式、傍流にすぎませんでした。仏画神道画も手がけていたようです。

 

〇時代背景

足利義正の東山文化は唐様の中国文化と、その一方で「やまと絵」も盛んで、主流の「土佐派」が確立されました。足利義正の銀閣には、和と漢、あいまみれた状態で取り入れられていました。

 

正信が土佐派に属したという記録もあると言います。しかし土佐派については傍観していただけで、技術を具体的な表現として取り入れたわけでなかったようです。 (参考:狩野正信《周茂叔愛蓮図》悠遠の涼風──「山本英男」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscape

 

正信は将軍の御用絵師としての地位を得てはいましたが、流派を確立するには至っていませんでした。個人の様式として取り立てられたようです。

  

〇正信の年譜 

1434年(0際)  誕生
1463年(28歳) 相国寺雲頂院の昭堂に十六羅漢を描いたという記事
          以後20年間記録は途絶える

1483年(49際) 足利義政の造営した東山山荘の障壁画を担当。
1496年(57歳) 日野富子の肖像を描く(実隆公記
1530年(98歳) 没

 

  

■天下を治めた絵師 狩野元信(1477?-1599)

〇元信の誕生

そこに、息子「元信」が誕生します。42歳の時の子供です。室町時代の平均年齢、15歳。その時代に42歳まで生きたのもすごいですが、そこで子供を設けていたとは! いろんな意味でも精力的!

 

父が50歳で、幕府の絵師として登用されました。元信が生まれて8歳の時のことです。それまで父の姿をどのように見ていたのでしょうか? どんな手ほどきを受けていたのでしょう? 

 

〇幼少期から漢画に親しむ元信

おそらく、元信の回りには、父「正信」が参考にしたと思われる漢画が、生まれた時からあったのではないかと思われます。あるいは父が描いたものを通して、そのテクニックがしみ込んでいたのではないでしょうか? 今の時代、生まれた時からスマホがあって、子守はスマホの動画を見せられて育つのと同じ状態といえるかもしれません。育った環境は知らず知らずのうちに人の考えやモノの見方を育てます。

 

父の卓越した筆致と、回りにあるお手本をもとに習得しながら技術を積み、父のあとを継ぎます。(引継ぎというのはあったのでしょうか? よくわかりませんでした)しかし元信は継承しただけではありませんでした。

 

〇独占販売事業  

元信が絵師としてお目見えしたのは1513年(37歳) 大仙院の方丈(檀那の間)の《四季花鳥図》を描いています。その時、父正信は79歳でご存命です。絵師として現役だったのでしょうか? (1496年(57歳)の時に、日野富子の肖像を描く という記録があるのですがその後はみあたらずご隠居状態?)そして1539年(63歳)に石山本願寺の障壁画、1543年頃(67歳)に妙心寺障壁画を描くなどして僧の位(法眼)を与えられ、権力者の需要にこたえていきました。

 

しかし、それだけにとどまらず、町衆に向けて絵付けした扇を制作して販売しました。というのも、当時、扇は、祝い事や慶事で使われ扇を、季節のあいさつなどの度に贈る習慣があったからです。目の付け所が元信です。元信の選別のセンスが光ります。さらには、この制作を独占販売するために幕府に申し出ました。結果、他は制作することができなくなり、独占販売契約を結んだのでした。

 

 

〇マーケットの拡大

元信は父と同様、漢画の水墨画を基礎にしていました。が、当時もう一つの主流派、やまと絵の土佐派の様式も取り入れました。東山文化をけん引した足利義正が銀閣で書院造を取り入れたことに合わせ、それにふさわしい障壁画を確立したのです。

 

唐様の水墨画が好まれる一方で、将軍家は従来のやまと絵のような金を使った豪華絢爛なものも好みました。だったら、両方のいいとこどりをしてしまえ! とやまと絵の手法を取り込んだ水墨画で障壁画を描いたのです。それがあの有名な大徳寺の塔頭、大仙院の方丈(檀那の間)の《四季花鳥図》です。

大仙院方丈障壁画のうち 四季花鳥図(だいせんいんほうじょうしょうへきが しきかちょうず) 狩野元信(かのうもとのぶ)筆 | - Japaaan

 

これで、将軍の心をがっちりとらえました。そして民衆には扇で心をつかみ、その制作販売は、将軍に「ねぇ、お願い…」とばかり、独占事業にしてしまいます。この手腕を回りはほってはおきません。元信のもとに注文が殺到します。ここで粗悪なものを制作してしまっては、せっかく確立した事業も水の泡です。

 

また、顧客の裾野がどんどん広がるということは、求められるものも多様化していきます。いつまでも同じものを作っていてはそのうち飽きられてしまうでしょう。あらたなスタイルの模索を兼ねつつ、これまで参考にしてきた中国の画人の作風=「筆様」を整理・統合することにしました。

 

〇筆様 整理統合

それまで好まれた中国の画人は、牧谿や夏珪などでした。注文される時は、牧谿風によろしく! 私は夏珪みたいに描いてね。弟子に指示するのも同様で、「〇〇様」と言われていました。しかし中国の画人を手本に「〇〇様」と言われても実際には、個人差が大きかったと言います。それぞれの解釈や技術もあるので、かなりの幅が出ていました。

イメージでとらえていては、たくさんの注文をこなすと、品質を保つことができません。また注文の増加は、工房で絵を描ける人も増やさなくては追いつけません。そこで、中国の漢画の絵師たちの筆様を整理し発展させて、三種類の画体に分け、誰にでも(と言ったら語弊がありますが)描けるようなシステムを作ろうと思ったのでした。

 

〇「真」「行」「草」の三種の画体 

元信は、漢画を「書体」と同様に、3種類に分けました。 

ここで、「書体」になぞらえて分けたことも、早く習得するためのポイントであったと思われます。注文の殺到に対し、短期間に工房の弟子を一人前にしなくてはいけません。入門時の技量にも差があるはずです。

新たな概念で分類すると、まずはそれらを理解することから始めなくてはいけません。なじみのある「書体」の分け方と同じ。そんなふうに解説されるととてもわかりやすかったと思われます。

 

〇400年続く流派の基礎作り

これらのシステム作りが、 狩野派400年の栄華の基礎となったのでした。

 

   手本の画家   画風             建物の部屋の格式
真体:馬遠と夏珪・・綿密な構図と描線(最もかっちり) 公式な接客間
行体:牧谿‥・・・・・・その中間             日常の私的空間
草体:玉潤・・‥・・・・最もくずした描写         日常の私的空間

 

 

 

〇画風の多様性 《四季花鳥図》

もともとは、中国の水墨画に端を発し、将軍家が好む大和絵のスタイルもちゃっかり取り入れ、斬新なものにしてしまいました。《四季花鳥図》にそのエッセンスが現われています。

 

基本は水墨画です。そこに部分的に色を加え、おちつきのある中にインパクトを加えています。やまと絵の絢爛豪華さとは違う、抑えた中の華やかさ。モノクロームに中にあるからこそ映える色彩。それとあいまって、水墨画で表現された直線的な水の勢い。そこからはじけるしぶき。松のくねりの力強さ。かと思えば反対側の右方向の静けさ。

 

 

●マンネリと思っていた狩野派なのに気になった《四季花鳥図》

この障壁画は2016年に行われた東博の「禅−心をかたちに−」(図録p280p417)で見ていました。その時は、まだ狩野派がよくわかっていませんでした。しかしながら、なんか、この絵、すごいかも… マンネリって聞いてたけど、それなり…(笑)って思いながら見ていました。図録の解説を後から見て、そうなんだ・・・・と思いながら、狩野派ってやっぱり名が轟くだけのことはあるんだと思った記憶が鮮明に残っています。今回、この絵と再会できるのを見るのを楽しみにしています。. 展示期間が10/18~11/5なので、再訪の予定です。

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これが1513年 37歳の絵というから驚きです。父正信(79歳)は、息子、元信のこの絵を見て、どう思っていたのでしょうか? 心中を想像すると… 

 

水に潜る水鳥や木の陰から顔出す鳥。3羽が並ぶ姿もユーモラスです。一方、その背後に、大胆で直線的な勢いを感じさせる滝の流れ。それと繊細に描かれた松の葉や幹の表現がお互いを引き立てあってます。左手の近景から右手方向に目をやるとどこまで続くもやの中の遠景との対比。狩野派がよくわからないと思っていた私にも、この絵はすごい! と思わされその表現に足を止めさせてられていました。

 

今回は、予習もして元信が狩野派にもたらした貢献もおおよそ理解できたように思います。その上で見るこの絵は、何を語ってくれるのでしょうか? 37歳でこれを描いていた! そんなことも改めて意識しながら見るのが楽しみです。 

  

〇レパートリーの拡大とオリジナル性

ターゲットを広げるとともに、画風も様々なものをこなしていきました。そして本来はやまと絵が扱っていた、絵巻、風俗画にも進出しました。

 

その一例が、2015年 重要文化財指定された美術館、一押しの《酒伝童子絵巻》です。

 

《四季花鳥図》とはうって変わり、色鮮やかな絵巻物です。力強い構成や線描は漢画の構図に由来し、色彩はやまと絵そのもの・・・

 

やまと絵、パクっちゃたの? と思いきや、元信はそんな野暮ではありません。上記の障壁画からもわかるように、全く違うテイストを確立したのです。

大胆な中に可憐さを併せ持ち、力強さで押してくる。そして和漢融合したスタイルで、不動のポジションを得ていったのでした。

それが顕著に表れたのが扇絵。贈答による需要は、工房の稼ぎ頭。そんな扇をちりばめた屏風にも注目《月次風俗図扇面流し屛風》(展示:10/11~11/5) 扇に描かれている人物描写は、やまと絵の風俗画のエッセンスも取り込んでいると言います。

 

人物描写の豊かさは、《富士曼荼羅図》などにも見られます。やまと絵を取り入れながらも、元信独自が模索した風俗表現。日本の製品は海外の模倣から始まり、独自の価値やスタイルを確立してきた歴史の源泉が、こんなところにも見られます。模倣を模倣では終わらせない・・・・ そんな志を感じさせられます。

 

さらに、専門性の強い「仏画」にまで手を出します。そこでも元信カラーを打ち出します。仏画に華やかさを加え、仏画であって仏画ではない人間みたいな表情豊かな仏様… はるばるボストン美術館からおでましになりました。そして元信と正信の仏画静嘉堂文庫美術館ボストン美術館の作品を展示。途中展示替えがあります。

 

このようなバリエーションに富む題材をこなすことで、寺社や武家の要請にもこたえ、公家の好みもとらえました。さらに町衆の依頼にもこたえられるオールマイティーな集団を形成し、その後、長きに渡り君臨することになったのでした。

  

〇クライアントに合わせた分業

町衆から依頼される扇は、そんなに高い価格にではできません。しかも大量生産。薄利多売に対応するには、いかに大勢の人員確保ができるかがカギです。画体を確立することで、多くの人材を即戦力に仕立て上げる体制を作り上げることができたからこそ、独占販売をもちかけることもできたのでしょう。いかに人材を確保し、教育するか。そして町衆の仕事は弟子に・・・・ 弟子にもランクがあって、それに見合う仕事をさせていたということのようです。

 

そんな様子を、日本絵画史の基礎資料ともいえる『本朝画伝』の中で狩野派は是れ漢にして倭を兼ねるものなり」と記されたのでした。

 

〇フレキシブルな対応力

和と漢の両方を使いこなし、描くものも大物である襖や屛風、小さな扇や絵巻などなんでもござれ。お手本にしていた中国画は、大型の襖には適していなかったのを、画体という視点で編纂することで、大物も描けるようにしました。しかも迅速な仕上げは、今の口コミ、SNSのように人が人を呼んでパトロンを次々、増やしていったのでしょう。

いいものを作っていれば、自然に広がっていく・・・・ という受け身の体制でなく積極的に攻めの戦略を打つことで、パトロンを増やし裾野も広げて、長きにわたり画壇を席巻する土台を作ったのでした。

 

 

狩野派の系譜(追記:2017.10.08)

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簡略にすると上記のようになり、隔世遺伝しているようです。

 

狩野派と言えば「永徳」が有名。永徳の祖父が「元信」です。「元信」と「永徳」はどれくらいの時間を一緒に過ごし、影響を受けていたのでしょうか?

1543~1559年の16年間、共に過ごしています。

一方、探幽は、永徳の没後に生まれていて直接の手ほどきはされいないようです。

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2017.10.08放送 日曜美術館の「天下一の絵師集団~狩野元信の戦略~」で、元信は孫の永徳を連れて、将軍に正月の挨拶をしていたという記録があったそうです。孫の永徳の才能を見抜き、早くからお目通しをさせて、今後の狩野派を託したのかもしれません。

 

■まとめ・感想

〇初めての「元信展」

元信の作品は、もともと少なく「元信展」としての開催は難しいと思われていたようです。作品が少ないところに、誰もが同じように描けるシステムを作ったということは、逆に元信の真筆をわかりにくくすることにもなります。

 

画力がある元信ですが、経営、プロデュースの仕事の方が好きだったのかもしれません。描くよりも、マネージメントの方が性にあっていたのでしょう。指示する側に回り、自分では作品を作らなくなったのかもしれません。

 

そのため、狩野派展がいろいろな形でこれまで開催されてきていますが、「狩野元信展」として独立した展示は、作品が少なく、今回が初めてなんだそうです。

 

担当の学芸員さんの実現したいという思いもあって、現在わかっている真筆作品の、ほとんどを借りることができたそうです。工房作品とともに、50件の展示がされています。さらに父・正信の作品や、参考にした中国絵画を合わせて90件の作品が集められました。

それらが一同に集まることによって、元信が狩野派という土台をいかに築いたかという周辺情報とともに理解を深められます。そして、元信が作り上げた仕組みが、室町、桃山、江戸、明治初期と400年にわたる流派として君臨するまでになった理由がわかってきました。これは世界でも類をみないと言います。

 

〇展覧会の実現に向けて

また、「元信展を実現したい!」ということを思い続けて本当に実現させる。ここにもビジネスとして学ぶ姿があるように思います。最近は個人の成果主義で、評価されることが多くなりました。しかしサントリー美術館の総意として、思いを共有し実現する。時間をかけて取り組める環境が整っていること。

そんな中で、静かに、そして熱く思い続け、実現するための準備をコツコツと重ねていく。その結果、ボストン美術館からも貴重な作品が取り寄せられています。こうした努力はどこの美術館でも行われていると思うのですが、美術館全体、ひいては会社をあげて一丸となって取り組むという、最近は失われつつある協力体制というものも考えてみてもよいのではないかと思いました。

 

ところで、これらの元信の業績は、私は初めて知ったのですが、日本美術を愛好する人の間では常識的なことだったのでしょうか? 

 

狩野派はマンネリズム? 琳派との違い

その一方で、狩野派の弊害のようなことも耳していました。

私は狩野派の概要を知る前に、弊害の方が先に耳に入ってきていました。そのため、究極のマンネリズム、権威におもねた流派。そんなイメージで狩野派をとらえていました。

しかし狩野派二代目、元信にスポットを当てると、組織や仕組みのベースを作るとはどういうことなのか。そして時代、時代の変化をとらえ、それに対応しながら、維持し発展させていくという実践例として、とても興味深い展示でした。

 

2年前、琳派に触れた時、「琳派狩野派と違って血縁で結ばれているわけではなく・・・・」 という解説があり、言葉上の意味はなんとなくわかるのだけど、その真の意味はいつになったら理解できるのかなぁと思っていました。⇒【*1】2年の月日を経て、今回、やっとその真の理解にたどりつけたと思いました。

 

つかみどころのなかった狩野派でしたが、「画体」というものを知り、こうしたものを自分で見つけ出していくことが、これからの社会において必要なんだと思わされました。

 

 

■付記:現代版画体の確立と仕事や趣味に生かす美術鑑賞 

トールペイントの技法

トールペインティングの描き方と元信の考えた「画体」に共通するものを感じました。

絵が苦手… 何でこんな風に描くことができるのだろうかと思っていました。どうやら基本のストロークがあるらしいのです。それをマスターすれば、ある程度の作品がだれでも(?)作ることができる。私にもできそう… そんなことを感じさせられました。それと同じかな?

 

$山崎裕子のトールペイント・カラーセオリークラス 狭山教室-通信講座ストローク教材作り

ストロークいっぱい描いてます~♪|山崎裕子のトールペイント・カラーセオリークラス 狭山教室 銀座教室

 

 

〇イラストの練習

イラストの訓練(独学編)のカリキュラムを考えてみたw - 子猫チビ太と手描きイラストの成長ブログ♪yより

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一つの線、一つの星を何回も描き続ける中で、何か違いの着眼点がみつかって、描き方のヒントが見つかっていくのかなぁ…と 「筆圧」「手の角度」そんなキーワードを自分の力でみつけながら、描き方の基本や、自分のセオリーを確立していく・・・・みたいな。よくわかってませんが…

 

建築士も、昔は直線を何度も引いて練習したと聞きましたが、今はデジタルになって、そういうトレーニングってされなくなってしまったのでしょうか?

 

 

〇顕微鏡スケッチ

第7回Webフォトサーベイ問題

 

検査ができるようになるまでにこんな細胞のスケッチを、スケッチブック1冊描きました。顆粒部分をランダムにドットで点・点・点・点で描いていたところ、顆粒の一粒、一粒をちゃんと見て、正確に写し取って描くようにと注意を受けました。

え~、そんなのめんどくさい…とその時は思っていましたが、それによって細胞内の核などの微妙な変化をとらえられるように、訓練されていたのだなと思いました。観察眼を鍛えるための手法だったと理解できたのは、若冲の鶏のドッドを見た時のことでした。若冲は鶏を描くのに、1年ぐらい観察したと聞きました。じっくり見て観察することが大事だと思ったのでした。

ところが、この検査も機械化の波が押し寄せていると聞きます。

 

振り返ると、このトレーニングによって自分の物の見方のべ―スが作られたのかもと最近になって思うようになりました。絵画を見る時も、スコープで見る時は、顕微鏡の視野を見るように見ているし、絵を見て最初に目にとまる部分は、あっ! ここなんだか変! と異常をみつけるみたいに、おかしな部分に目が向きます。

 

今回の元信展では、最初に展示されていた作品に対し、この絵の和紙の升目が変! これまで見てきたものよりも大きくて、ツギハギのサイズがおかしい・・・ と最初にそんなことが飛び込んできていました。↓ この作品のツギハギサイズが変…

 

〇植物の形状分類

植物を植栽するときに、葉っぱの形を「点」「線」「面」に分けて考えたことがありました。「真」「行」「草」・・・・ なんか似てると思いました。

まとめの基本は3つのポイントで・・・・ とはよく言われます。そこにリズム感のある音でまとめる。サイト名をつける時も、短縮して呼びやすいようにしておくといいと言われているようです。(展覧会なども、そうした視点が必要では? という声も耳にします。)

 

【追記】2017.10.08 日美より

真・行・草 の描き分けを実演されていました。そこで「線」と「面」という描き方を紹介されていました。なんとなく「真行草」と共通点を感じていたのですが、「点」「線」「面」という共通ワードもいろいろな場面で使われます。

 

【追記】2017.10.08 フェノロサの蒐集

フェノロサが持ち帰ったという 《白衣観音
フェノロサは、コレクションの仕方が特殊だったという話を聞きました。 

デジタリアン Kei Y ブログ アーネスト・F・フェノロサ 法明院より

フェノロサの絵のコレクションの仕方、特殊だったようです。
絵の特徴を分析しながら、それに繋がる絵を買っていくといったような。。。
研究熱心で、はじめは理数系の頭を働かせてたのか?などと個人的に思ったりしました。 

三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語」を見ると

コレクションする際には、滞在中に流派のことなどの知識は持っていて、系統だって集めていたようです。フェノロサがの専門が社会進化論という系統学的な専門分野なので、そのアプローチ法を応用したということなのか・・・・ 美術史や流派という知識に加えて、自身の着眼点も交えて、絵の進化として捉えたのかもしれないと思いました。 

上記の解釈には、著者の表現・捉え方の問題もあるとのこと。
コンドル関係の本「鹿鳴館を作った男」では・・・

フェノロサは一枚絵を買うと、その絵の作者の師匠と弟子を調べ出し、
|今度はその師匠と弟子の絵を買うのである。

|次には新しく買った絵の作者のそのまた師匠と弟子の絵を探して買ってくる。
|そういう買い方を延々続けるのである。そのような絵の買い方をしているうちに、
|フォノロサは短期間で日本画の流派の流れと変遷について深い知識を得ることになった。

個人的には上記の説を支持。狩野元信が分析した「真 行 草」といった形態的な分類を、直感的に感じつつ、知識として流派が受け継いだものを系統だって集めるといったコレクション法が出来上がったのではないかと推察。

歴史、文学など、文脈がわからないと、見たままそのままの形態で分析しながら見るというのは、僭越ながら自分の見方と共通するのでは? と思ったのでした。そこに次第に歴史や流派の知識が加わり相乗的な見方になっていくのでは・・・・・と。⇒【*2

 

〇編集も同じ?

美術展のブログを描く時も、たくさんある作品の中から何を取り上げようか… って考えます。そこでなんらかのキーワードをみつけてグルーピングして、まとめながら関連付けていくという作業を、大なり小なりしていると思うのです。

今回の元信展の「真」「行」「草」という言葉が、妙に響いてきました。キャチ―な分類。

 

ランダムに散らばったものを、なんらかのキーワードによってグループ化してまとめる。それって仕事もそうだし、物事を整理したり、頭の中の整理をする時の基本的な思考だと思うのです。こうしたプロセスを経て、それを体系化して理論にまとめ上げることができる人が、何等かの形で世の中に認められ、ビジネスとしての足跡を残せるのだと思うのでした。

 

ビジネスパーソンは早朝、美術鑑賞をする!

『エグゼクティブは美術館に集う「能力」を覚醒する美術館』という書籍があり、その中で、「ニューヨークでは、ビジネスパーソンが早朝のMoMAニューヨーク近代美術館)に集まって美術鑑賞をしている」ということが紹介されています。

 

美術鑑賞がいかにビジネスに役立つか・・・・ 

エグゼグティブというのは絵画鑑賞において、さまざまな問題に対して現状打破できる力を育てる。問題の発現に対し、それを解決する能力をつける。さらには、ビジネスにも直結するメタ認知能力を鍛えることができる。自分自身をもう一人の自分が、自分自身の思考や行動を客観的に見る。美術の鑑賞において、問題解決能力が身につく。

上記のようなことが書かれており、詳細は、こちらに詳しいです。

 ⇒ビジネスに役立つアート鑑賞|慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC)

  

そして著者はこのようにも言われています。

◆思索的に見る
この本の7章に「思索的に見る」ということが書かれています(p141)

それは頭を使ってみる つまり、疑ってみる。モノを漫然と、見ずに、意識して想像的に見る。世の中のできごとや、情報、映像を受け身で見るのではなく、世界に自分で働きかけて、頭を使ってみる。物事を自分の目でしっかり見て、自分で考えるという習慣が大事。ということだそうです。

 

見たこと、聞いたこと、書かれたことを鵜呑みにしないで、自分のフィルターを通して考えてみる。あるいは、見る視点を変えて、作者になってみたり、依頼する側から見たり、工房のスタッフの目で見たりすることで、様々な視点が生まれます。そうしたことから、美術鑑賞を通してビジネスに生かせる創造性や、視点の広がり、ひいては問題解決の手法を学べるのだと思いました。

 

■参考

サントリー美術館ニュース
〇続 西洋・日本美術史の基本
〇詳説日本史図録 第7版
〇「禅-こころをかたちに」図録(p417)

〇wikiphedhia 狩野正信 狩野元信

 

サントリー美術館 (@sun_SMA) | Twitter
#サントリー美術館 hashtag on Twitter
#狩野元信 hashtag on Twitter

 

狩野元信《四季花鳥図》和漢兼帯の型──「山本英男」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscaps

六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信 展示構成 サントリー美術館
【展覧会レポート】サントリー美術館「六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信」 | 編集部BLOG | 六本木未来会議 -デザインとアートと人をつなぐ街に- 

 

日本絵画史上最大の画派・狩野派を知る『天下を治めた絵師 狩野元信』展 - ライブドアニュース

遠山正道が狩野派・元信に学ぶアートとビジネスのプロデュース術 - インタビュー : CINRA.NET

 

「天下を治めた絵師 狩野元信」展 サントリー美術館 ( その他趣味 ) - 練馬区大泉学園・「もんじゃ焼きお好み焼き わらべ」のつぶやき - Yahoo!ブログ 

400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか? - まぐまぐ

「天下を治めた絵師 狩野元信」(@サントリー美術館)

 

『六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信』 - 不自然

 

 

■脚注

*1:『琳派 私淑がなんでそんなにすごいことなの?』コロコロさんの日記 [食べログ] より

当時は、狩野派や円山・四条派といった他の江戸時代の流派は、
模写を通じて直接師から画技を学んだ・・・・

  多分、その絵に触れる機会があれば、
  そういう流れやしきたりみたいなことが
  わかってくると思うのですがまだ、今は、
  そこのところへは興味が向いていないので、
  なんとなくそんなもんなんだろうな・・・という程度の認識。
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*2:■関連コメント

デジタリアン Kei Y ブログ アーネスト・F・フェノロサ 法明院より

そうした狩野派の「画法」を分析するという分類法が、フェノロサには合っていたのではないか。知識のある人は、歴史や文学などの文脈で絵画を見るのだと思うのですが、当初、文脈がわからなかったフェノロサは、そういうこととは違う視点、着目ポイントをみつけて、その関連性でコレクションしたでは?と思ったのでした。フェノロサも、もしかしたら、日本画を見て、最初はよくわからず、文脈で見ることができなくて、特徴的な目に止まる表現に着目していったのかも‥‥と思ったら、どんな集め方をしていたのか気になりだしました。

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