コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■庭園美術館:ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」

東京都庭園美術館クリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」が9月22日から開催されています。

 

ボルタンスキ―というアーティストはご存知でしょうか?

 

正直なことを言ってしまうと、この人、そんなに有名な人だったの? 私はたまたま、今年の夏、豊島に行って彼の作品「心臓のアーカイブ「森のささやき」を見てきたから、知っていたけれど、都内で企画展を開催するほど有名なアーティストだったとは、つゆ知らず・・・・  みんな知っているのかしら? 人、集まるのかな? そんなことを思ってしまったのでした。

 

 

◆ボルタルンスキーについて

wiki pedhiaより

クリスチャン・ボルタンスキーは、フランスの彫刻家、写真家、画家、映画監督、現代アーティスト。

     (心の声:wiki pedhiaの情報がこれだけということは、認知度もこの程度
          彼について書くという人もいないというのが現状ってことよね)

 

〇瀬戸内芸術祭より

1944年フランス生まれ。
主な賞歴・グラント=2006 高松宮殿下記念世界文化賞
主な作品・展覧会・プロジェクト= 1990 個展(水戸芸術館、茨城) / 1989 個展(ニュー・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート、ニューヨーク、アメリカ) / 1975 / 80 / 93 / 95 ヴェネチア・ビエンナーレ(イタリア) /1972 / 77 / 87 ドクメンタ(ドイツ) 

      (心の声:瀬戸芸の紹介もこの程度だったの?
           これじゃあ、人となりは全然、わからないんですけど・・・) 

 

庭園美術館HPより 

フランスの現代美術家クリスチャン・ボルタンスキー(1944年-)は、映像作品やパフォーマンス性の高い作品を制作していた初期から現在まで一貫して、歴史の中で濾過される記憶の蘇生匿名の個人/集団の生(存在)と死(消滅)を表現してきました。

 

現代美術というのは、知る人ぞ知るアートで、一般的にはマイナーな世界だという認識でした。まして瀬戸内芸術祭に訪れる人は、コアな現代美術ファン。(私は訪れましたが、現代美術のファンではないし理解もできていません)しかも、瀬戸内芸術祭に参加するアーティストは、ぶっとんでいて浮世離れしている。そんなイメージが先に立っていました。

 

 

 

1.プロローグ

出会いというのは、いろいろな偶然が重なるもので、旅行に行ったあとに、それまでまったく知らなかった「人」や「物」だったはずなのに、なぜか、その直後、それらと出会ってしまう。そんなことって、よくありませんか?

 

東京都庭園美術館でも、これまでに直島から帰ってきたら須田悦弘」「安田侃と遭遇する。なんてことがありました。今回もまた、夏に豊島に訪れ、ボルタンスキーのインスタレーション作品に触れて帰ってきたら、庭園美術館で出会ってしまったのです。

 

豊島で出会ったボルタンスキ―の作品は、いろいろな意味で考えさせられるところがありました。ブログに残しておきたいという思いを強く持ってはいたのですが、なかなか形にできずに今に至ってしまいました。そんな折、庭園美術館の展示についてブログで紹介されている方をお見掛けしました。あのボルタンスキ―が庭園美術館に来てる!?

 

 

失礼ながら、ボルタンスキ―さんって、庭園美術館で企画展を開催できるほど、有名な人だって思っていませんでした。たまたま、豊島に行ったから、私は知っていたけども、それがなければ、この先、知る由もなく、興味を抱くこともなかったアーティストだと思われます。一般の人たちへの認知度って、実際のところはどうなんだろう・・・ 庭園美術館の催しであれば、目にしたと思います。しかし豊島での出会いがなければ、「ボルタンスキ―=そんな人知らない」で終わっていただろうと思います。

 

これも何かの縁なのでしょう。しかし行こうかな・・・と思っているうちに、その熱は冷めてしまいました。本当は「新たなジャンルに興味を持てるようになる」というのは、こういう時がチャンスだということは自分でもよくわかっています。ちょっとした「点」を逃さない。一度見たことがあるという、たったそれだけの接点でも、その先には何かつながるものがあり、さらなる広がりとなる可能性があること。それはこれまでの経験でもよくわかっています。しかし、人の熱というのは、そんなに長くは続かないものなんです(笑)

 

ところが、またまた、よく閲覧していた美術系のブログの中で、ボルタンスキ―の企画展のことが取り上げられていました。

こうなるともうこれは行くしかない! という気分にさせられます。一度ならずも、二度に渡って目にしてしまったのです。そっぽを向こうとしている私に、ボルタンスキーさんが「おいで、おいで・・・」と「ささやき」かけてきたのだと思いました。

 

どうせ行くなら、何かイベントのある時に合わせたいと、探していたら、

上記のようなセミナーが開催されることがわかりました。人気だったようでしばらくしたら募集は締め切られていました。

 

以下はネタバレしていますのでご注意下さい。 

 

 

2.「アニミタス-さざめく亡霊たち」

2-1 香水塔の前で

 企画の概要、展示内容は、事前にブログを見ていたため、ネタばれしています。入り口を入って香水塔のあたりから、旧朝香宮邸を行きかった人々、その亡霊たちのささやき声が聞こえてくるというもの。

 

 

↑ この展示における、最大の「肝」であり、山場ともいえる部分です。ささやき声を聞き取れるかどうかその声に気づけるかどうかというのが、ここの鑑賞のポイントだと思っていました。研ぎ澄まされた感覚・・・を試されているのだと。

何も知らずにここに訪れ、

 「あれ? 声が聞こえた気がしたけど・・・・」
 「何? 気のせいかしら?」
 「いや違う・・・確かに何かしゃべっている・・」 

そんなシチュエーションを想像していました。

 

しかし、私はもう、このネタを知ってしまいました。せっかくのサプライズのチャンスを逃してしまうことになり残念・・・・と思っていたら

 

なんのことはない、それに気づくも、気づかないもないくらいの音量で声は流れてきました。ささやき声というより、おしゃべりが聞こえてきたのでした。きっと、気づかず通り過ぎてしまう人もいて、 ボリュームを上げたのだろう・・・・ そんな裏事情が想像されました。

 

〇指向性スピーカーによる声

事前に指向性のスピーカーがあるという情報を得ていました。「ああ、あれだ!」すでにわかっていることもあり、すぐに気づかされました。指向性ということは、ごく限られた範囲の中に、人が入るとその音が聞こえるということなのでしょうか? でも、この音、全方向に広がっている気がします。

 

人が、音の可聴範囲に入ると、反応しているのかなぁ・・・ あるいは、音でなく人感センサーが働いているのか・・・ はたまた、ランダムに流れているだけのなのか・・・ そんなことを考えながら、聞くでもなくその声を聞いていました。脈絡が全くありません。何を話しているのだろう・・・と意識して耳を傾け、どんなシチュエーションなのかを考えながら聞いていました。が、会話は全く、成立していないことに気づき、してやられた感が・・・・(笑) 

 

 

2-2 大広間にて スピーカー発見

大広間に移動すると、同じ声が、同じような会話が聞こえてきているようです。スピーカーはどこにあるんだろう・・・

 

あっ、見つけ! 

▲こんなところに、スピーカーが仕込まれていました。

 

しかも、こちらのスピーカーは回転しながら動いていました。

 (きっと、そこまで気づく人、少ないだろうな・・・
  これが私の目のつけどころ・・・と悦に入っていました 笑)

大広間なので、スピーカーを動かして、指向性の範囲に人が入るように、機械自らが動いているのでしょうか? あるいはその動きは、人の動きに連動して追いかけて、人が音を拾う機会を増やすために動いているのでしょうか? ごく限られた範囲に人が入らなければ、声が聞こえない。そんなスピーカーの制約を、一台のスピーカーで広い空間を網羅するための仕組みということでしょうか?

 

〇自分の思考癖

直島の瀬戸内芸術祭に行った時もそうだったのですが、美術鑑賞をしていて、その提供される作品の基本骨格となる構造や仕組みにどうしても目がいってしまいがちになります。鑑賞モードから逸脱して、ここはどうなってるの? という興味が先に走って、鑑賞は二の次に・・・・

特に、現代アートの場合はその傾向が強くなるということを、この夏、直島でえらく自覚して帰ってきました。現代アートは、ハイテク機器が使われていることも多く、それらが作品にどう影響して、見る人の視覚をコントロールしているのかに注目してしまうのです⇒【*1

  

庭園美術館の作品は、事前の情報で得た「指向性」のスピーカーが使われているという部分に、強く反応して記憶に残ってしまったようです。それはどんなふうに働いて、私たちの耳に届いているのか・・・・・そんなことが否応なく気になりだすのでした。

 

 

2-3 スピーカーの仕組みの解明

スタッフの方に「”指向性”のスピーカーだとうかがっているのですが、あの回転しているスピーカーの放射範囲に人が入らないと、音は聞こえないということですか?」と伺うと、「”指向性”ということは聞いてはいないのですが・・・」とのお返事でした。

何人かの方が、ブログでそのように書かれているのを目にしました。どこかにその解説があったのでしょうか? 私は気づかなかったのですが・・・・⇒【*2

 

「では、人感センサーですか?」と伺うと、「一番わかりやすいのは、香水塔のあたり」と教えていただきました。また、逆戻りして香水塔のところに行くと、その前に立つなり、言葉が聞こえてきました。ランダムに流れていてその声を聞いていたわけではなく、そばに寄ると、自動的に音が流れていたのでした。指向性のマイクというよりも、人感センサーとマイクの合わせ技のように感じました。

 

というように、美術の鑑賞をしながら、どうしてもそれを演出している仕組みを解明したくなってしまうのです(笑) そのような部分への興味は、鑑賞の妨げとなってあまりよくないことなのでしょうか? 悩みどころなのでした。でも、これが私なりの物の見方の特徴ってことで・・・・・ ⇒【*3

 

ちなみに、このマイク。会期前半と、後期では声の流れ方がどうも違っていると感じさせられました。「耳元でささやくように聞こえた」「初めての不思議な感覚だった」と感想が述べられているのですが、私が感じた音とは全く違うように思われます。単に私の感覚が鈍いためとも言えますが・・・・

先日のサントリー美術館でも、屏風の展示の高さが、観客の声によって数日前と変わっていたという経験をしています。⇒【*4】 

そんな経験を考えると、スピーカーからのささやき声は、鑑賞者から寄せられるアンケートなどの声によって流し方を変える可能性は、十分考えられると思われます。

 

 

2-4 声の正体

小食堂 ここからもささやきが聞こえてきます。こちらの天井は木目で、間接照明がありません。そのためとても薄暗い部屋です。ここはお世話係の人たちがお食事をしたのでしょうか? 

  

・美の饗宴「旧朝香宮邸」前編 ~庭園美術館に建つアール・デコの館~

                    2016年12月17日(土)放送より

この部屋は朝香宮のご家族が食事の時に利用されたそうです。日本的な部分を残しており、床の間ようなものがありました。この部屋は入室ができないので、外から見ているだけではそれがわかりませんでした。他にも和を感じさせる設えがされています。家族の団らん・・・ならぬ、食事の場は、娘さんたちへの厳しいフランス語の指導の場だったという解説がありました。

 

入口に解説書のようなものがありました。なにやら書かれています。 

 

▲ これを読んでわかりました。何がささやかれていたのかが・・・ 

その一言、一言がここにリストになっています。流れてくる声をこのリストに照らし合わせていくと、ここに掲載された順番で語られてはいません。ランダムにとりとめなく、流れてくるようです。

 

 「ああ 終わりなんだな・・」
 「随分と、苦しんだんですよ。知っているでしょう」
 「そんなにもろいものとは思っていなかった」

 

耳をとらえたドキッとさせられた言葉・・・・ 

それは、同じ言葉を「声」で聞くのと「文字」で見るのとの違いがありました。声は発しても漂っているだけなので、「あれ? 聞き違い?」と決定的な言葉にはなっていません。しかし「文字」は確定されて目に飛び込んできてしまいます。

 

ささやき声を「音」から「文字」へと変換され確認した時、この言葉は、朝香宮邸に集った人たちの生の声ではないような気がしてきました。これは、ごく一般の人たちの声で、誰もが思いあたるものなのではないか・・・・と。

 

〇これは誰の声?

最初に、これらの声を聞いた時に何か違和感がありました。想像していた声と違っていたのです。もっとこもったようボソボソとした声、しかしこの邸宅を訪れることができる、あるいはそこで働くことができる地位や身分の人たち。その人たちが亡霊となってささやく声は、はっきりと明瞭ではないかもしれないけども、そこに醸し出される気品、品性がいやおうなく伝わってきてしまうしゃべりなのだと。

ところが、その声は、正直なことを言ってしまうと、あれ? と思わされるもので、声の人選を間違ってしまったのではないか・・・m(__)m と思ってしまったくらいでした。旧朝香宮邸というシチュエーションには似つかわしくない声質、しゃべり方の方が含まれていると感じさせられていました。

 

ところが、その言葉を「文字」で見た時に確信しました。これは、ごく一般の人々の会話なのだと。確かに一部の声は、朝香宮邸にかかわった人の声と思われるものもありました。でも、全てがそうなのではなく、その中には誰もが発する言葉、声が含まれていたように思いました。

 

このパネルの「文字」を見るまでは、皇族に仕えた人というと、特別な身分で知性も品格も兼ね備えた人たちなのだと思っていました。そういう人が、どんな会話をしていたのかというのは、ちょっとしたのぞき見趣味的興味がありました。

ところが会話は、我々とはそんなに変わることはなく、愚痴もこぼしているし、たわいのない会話もしている。人って、ポジションによってそんなに変わるものではない。別世界と思っていた皇族にかかわる人たちも聖人君子なわけではない。みんないろいろな感情を渦巻かせながらそれぞれの場所で生きてきた。そんなことを言いたかったのかなと当初は思いながら聞いていました。

 

ところが、「文字」に表されたささやきを見て、これは、特別な人たちの声ではない。ごくごくありふれた人の日常会話をささやかせているのだと・・・・それまでの想像が確信に変わりました。

 

〇先入観を持たずに見る 

展示状況や解説から、私たちはこの朝香宮邸を行き交った人の声であるという先入観を持って鑑賞していないでしょうか? この声はかつてそこに集った人たちの生の声を集めたのだと・・・  しかし、その声、言葉は私たちにも「あるある」「わかるわかる」というものがいっぱい集められていたのでした。

 

先入観を持ってみない。というのも、私が美術と向き合う時に心がけていることです。インターネット社会は、様々な情報が事前に入手でき、ある程度の知識を得ることができてしまいます。しかし、その得た情報を、もし知らないで見たとしたら・・・・と一旦、リセットさせて考えるようにしています。これが、なかなか難しいことでもあるのですが。でも、そうやってこの声を聞いていると、あの声、しゃべり方は、どう考えても皇族に仕えていた人の声ではないと思うし、しゃべり方ではない・・・と感じさせられる部分があったのでした。

 

〇解説より

ボルタンスキーは朝香邸の歴史に興味を持ったといいます。しかし実際におきたことに言及するというより「今、ここの時間や空間を超越する亡霊たちに語らせた」その解釈は、鑑賞者にゆだねるという形を選んだのだそう。歴史とは「事実」のつらなりなのではなくもっと複雑で重層的

 

 

2-5 私に聞こえたさざめきは

私が庭園美術館に訪れて聞こえてきたささやきは、これまでここで行われた企画展の展示物が私に語り掛けてくる「さざめき」でした。

 

「これを見て、そんなこと思うのはあなたぐらいよ」
「あら、そこに気づいたの? よくみつけたわね・・・」
「いろんなところに行って、いろんなものを見てくると、いろいろ繋がるでしょ」
「あの時、発見って思っていたことが、知ってしまうと当たり前になるのよね」

「今持っている興味と、過去にここで行われた展示がつながったでしょ」
「あなたが持っている興味って、変化していそうだけど、
 その根源的なものは変わっていないことがよくわかるでしょ」

「美術って最初はわからないかもしれないけど、見ていくうちに、だんだんと
 アーティストの特徴がわかってきて面白くなってこない?」
「一度見ていても、それは見たつもりになっているだけ。
 何も見えていないってこと、何度か訪れて思い知らされてるみたいね・・・」
「あなたの共感のツボ、わかったわ。〇〇〇〇でしょ・・・」 

 

そして、最後に

 「ボルタルンスキー展 来て本当によかったでしょ・・・
  気になるものは、出かけてみるってことやっぱり大事よね」 

 と語り掛けてきたのでした。

 

ここで行われた過去の展示が走馬灯のように頭をめぐり、過去に行きかった作品たちが、あっちからこっちから、私にささやきかけてくるのでした。

 

朝香宮邸が庭園美術館となり、この美術館で行われてきた美術展の歴史。その一コマ、一コマに触れながら、自分が見聞きしたこと、調べたりして歩いてきた道。それをちょうど振り返ってみようと思って過去の展示とその年を調べていました。⇒【*5

この館を去っていった作品の亡霊が私には見えたように思いました。

 

 

3.《影の劇場》

何か象徴的で意味ありげな映像です。何を意味しているのでしょうか?
この映像を見た瞬間、思い浮かんだのは、プラトン「洞窟の比喩」でした。
まだ、作品を見ておらず、ネット内情報としてこの画像を見た瞬間に、頭に浮かんだことでした。この影絵は操られた人形を表している・・・・と。

 

◆洞窟の比喩

洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。

 

プラトン 洞窟の比喩のNHK番組   

www.youtube.com

こちらの映像と重なった影響が大きかったのだと思います。

私たちが見ているのは投影された映像にすぎない。洞窟という閉鎖空間の中で見せられている影絵。それは光に操られた人形のようなもの。その映像は決して真実の姿ではなく、真実は、洞窟の外にある。そんなことを、この作品は提示しているのではないか・・・・

 

死も快楽も一時的な夢を見ているようなもの? 

 

  

 〇そしてまたまたいつもの癖が・・・・

 

作品を見たあと、この映像がどうやって投影されているのかをチェック。ここに光源があって、影を映す対象物があって、この壁に投影されている。ゆらゆらゆれているのは何によって動かしていんだろう・・・・ 

 

 ▲こんな覗き窓から、ステップに上って鑑賞します。

この窓は空いてるの? 手を入れてみました。ガラスはありませんでした。そしてこの窓から空気が流れてくるのを感じます。影絵がゆらゆらゆれているのは、そういうことだったのね。でも、この部屋に空気の流れをおこさせている大元は何? 空調による風? 他に何か仕組みがあるのかしら? 室内に圧をかけて陰圧の外に流れを作ってる? いや、単純に開口部を作れば、そこに流れはできるわよね・・・ それ以上はわかりませんでした。

そういうことって、スタッフさんに質問してもいいのかしら? 裏舞台に関することは、あたらず触らず・・・・と遠慮していたのですが、質問された方もいらっしゃったようです。この建物の構造、換気(?)によるものらしいですが・・・ ホントかな? と疑ってます。ここのドアの窓って、もともと入ってなかったんだっけ? この時だけ、外した? 今度、訪れた時のチェックポイントです(笑)

 

 

4.《心臓音》

こちらは、豊島でも訪れた「心臓音のアーカイブがベースになっています。正直言ってよくわからなかった作品でした。その場で見ただけでは・・・・ その後のボルタンスキー作品を見ることによっていろいろつながりが出てきて、深みが出てくる作品で、それについては、「豊島」についてのブログに書きたいとずっと思っていたのですが・・・

 

 

▲赤いランプが心臓の鼓動に合わせてついたり消えたり・・・

 正直なところ、この作品を見た人がいろいろな感想を持ち、いろいろなことを語るのだと思います。しかし実際に豊島でこの作品を見た人でなければ、この意味はわからないと思います。実際に行っても最初はわからないのですから・・・・

豊島の唐櫃浜(からと浜)という聞いたこともなければ、読み方もわからないような土地。でも、景色だけはとってもきれいな場所でした。そこで「心臓音のアーカイブに触れるわけです。しかしそれだけでは、まだまだ不十分なんです。「なんだかよくわからない・・・・」というのが多くの人の感想ではないでしょうか? 景色はとってもきれいなところだった・・・その記憶だけが強く残るだけで・・・

あとからじわじわと響いてくる。それは、遠い豊島にあることによって、すぐには訪れることがかなわない場所です。そこで体験した貴重な経験として・・・・・

ところが、同じテーマの「心臓音」という作品が、ここ庭園美術館で、また触れることができたのです。その縁や偶然の妙。ボルタンスキ―が来ていることは知ってはいましたが、もしかしたら、行かなかった可能性だってあるわけです。遠くで体験してきたものが、またここ東京の庭園美術館で再現され、そこに訪れる・・・・そのことの意味を考えさせられたのでした。

 

「生と死」「人の尊厳」 それは、一度見ただけではすぐに理解できるものなのではない壮大なテーマです。遠く離れた豊島という場所では、2つの場所は独立していて、別々の場所に作られていました。「離れた場所に作ることに意味がある」とボルタンスキ―が語っていたのを知ったのは、豊島から帰ったあとのことでした。

そして今、また離れた場所である、庭園美術館で同じ作品に触れることができました。ここで初めて体験した人は、この先、世界中のどこかに存在している「心臓音」のアーカイブを見る機会があるかもしれません。その時、今、私が感じているようなことを感じさせられるのではないか・・・・ 知っている、自分も体験してきた。それは貴重なこと。それに基づいて受け止めることの違い・・・ そんなことを感じさせられたのでした。

 

       ↑ 遅ればせながら、夏の豊島の体験が書けました。

 

5.《眼差し》《帰郷》    

 新館に移動して、右手の部屋に入りました。カーテンのような生地がぶら下がっていてそこを潜り抜けています。事前情報で見た時から、六本木アートナイトで屋外展示されていた、ふわふわしたカーテンの作品と似ている・・・・と思っていました。実際に中に入ったら、その思いをより強くさせられました。

 

〇カーテンウォールシアター

http://www.tokyo-midtown.com/jp/event/designtouch/cwt/images/cwt_pht005-pc.jpg f:id:korokoroblog:20161203031150p:plain

▲こんな感じでカーテンが・・・    ▲その中を周回

(出典:カーテンウォールシアターの楽しみ方|DESIGN TOUCH 2016|東京ミッドタウン

 

六本木の作品も、風でカーテンがゆらめいて、そこをくぐり抜けるのかと思っていたので全く一緒。と思いながら見ていたのですが、六本木アートナイトの作品は脳波でコントロールしたようです。

 

〇《眼差し》

こんな感じで、人の目がプリントされた(?)カーテンのようなものが何枚もぶらさっています。カーテンはゆらゆら揺れていて、時々、手招きするようにふくらみます。その動きに誘導されるように、中を周回します。

 

上を見たら、ファンが回っていて、風を起こしていました。

これによって、カーテンが動いているわけね・・・ 

鑑賞するというよりも、ずっと考えてしまいました。この作品と六本木アートナイトの作品、根底にある仕組みが同じではないのか・・・ あまりにも似かよりすぎていて、これはどうとらえたらいいんだろう・・・ 着眼点というのはつきつめたらやはり、同じようなものに集約されていく。同時多発的になるということなのか。あのエンブレム問題を思いだしたり(笑) どっちが先に考えたんだろう・・・・そんなことばかりが気になってしまい、作品の鑑賞どころではありませんでした。この目が何を意味しているのかとか、そちらの方へは意識が全く向きませんでした。

 

〇同じような着想

《カーテンウォールシアター》は 2016年 今年の六本木アートフェスの目玉作品。

《眼差し》は 2013年に発表された作品です。

 

私は作品の着想は、全く同じと感じてしまったので、ここまで同じということは、逆に六本木のアーティストは、ボルタンスキ―の作品を全く見ていないのではないか。もし、見ていたとしたら、ここまで同じような作品を送りだすことはできないのではないか・・・・と思ってしまいました。

 

実際に、《カーテンウォールシアター》を体験した方の話では、言われてみればそうだけど、体験している分には、そこまで似てるというようには思わなかった。と話されていました。

 

講師からは、「カーテンでできること」というと限られてしまって、どうしても、「風になびく」ということから発想されてしまうというお話でした。参考としてそろえられた洋書の中にも、カーテンがたなびく写真があり、確かに、そういうところがヒントになるのかもしれません。

 

 

そして、突如現れる金の塊。なんじゃ、これは!

私には「う〇ち」以外の何物にも思えませんでした(笑) これは一体、何を意味しているのでしょうか?

 

〇金のという素材の特徴

「金」といえば、最近、速水御舟展を通して「金」についてあれやこれやと調べて考えたりしていました。⇒【*6

 

「金は光を反射するアイテム」で、その性質を利用していろいろな技法が編み出されているということ。

つまりは、この金も光を反射するという性質から、何かを表現しようとしているのではないか。この凸凹した質感そこに充てられている光は・・・・と思って見上げれば、その上には強いスポットライトが据えられていました。やっぱり、この作品は「金と光」の関係で何かを表現しようとしているんだ・・・ 今、写真で作品を見ると、光は何かエネルギーを注入しているようにも見えます。

 

▼横から当てられた光に対して、凹凸はこんな光を反射しています

 

それにしても、この作品、重ね重ねよくわかりません・・・・ カーテンの発想は、六本木アートナイトと同じに思えてしまうし、金の塊は、無理無理、これまで見聞きしてきたこととこじつけて解釈をしてみよう試みました。しかしやはり、これは金に輝く黄金の「う〇ち」にしか私には見えない・・・・と思いながら(笑)

 

 

その時です! このスクリーンを通して、あてられてい光が、ぼんやり整列して浮かびあがるポジションがありました。

 

     この光は魂を表していたんだ!

 

このスクリーンから抜け出した魂。つまりただよっている亡霊・・・・

今回のテーマ「亡霊たちのさざめき」につながっているということなんだ。

  

ということは、そこには「生と死」という境界が存在しています。「生きる」ということは代謝活動を行うということです。その代謝産物が「う〇ち」だってことなんだ・・・ このモリモリの山は、ここに漂う亡霊が、生きた証として積み上げてきた排泄物。だから黄金に輝いているということなのでは? 金は「生」の輝きということ?

 

 

私がアート作品を解釈する際、最近、帰結点のようなものが、見えてきました。なんらかの形で、最終的に生命活動に落とし込んでいるようです。それは「生死」だったり「生きるとは?」だったり、「生きる」ということを代謝としてとらえるこも・・・・

そういう方向の解釈に落とし込めたアーティストが、私の共感を得るようです。思考がパターン化されきているようでもあり、無理にこじつけて、そちらの方向で理解させようとしているかなぁ・・・・という気もしなくはないのですが(笑) 「風が吹けば桶屋が儲かる」的な思考プロセスを巡らせているかもしれません。

 

   ⇒【参考】■エミールガレ:ヒトヨダケ文花瓶・・・自然の摂理と輪廻

 

 

 今回の企画のテーマ「さざめく亡霊」の亡霊は、私にとっては「これまで庭園美術館を行き交った作品の数々の亡霊」が語り掛けてきました。その言葉の一つが、上のようなことを過去の展示から再確認させられ、「あなたのツボって、ここでしょ」・・・・と言われているように感じられたのでした。

 

 「生きるということへの問いかけ」 

それらは「自然の摂理」「生と死」「生命の連鎖」「輪廻 生まれ変わり」

以上のような生命活動に集約されていきます。

 

 生物としての「生命活動」に落とし込めて解釈ができるかどうか・・・・

  そこに私の共感があったのです。

 

【参考】 

 

だから、この作品が「う〇ち」に見えることも、私には意味のあることなのでした。これで、すべてがやっとつながった・・・・と思い満足してあとにしたのでした。

 

 

〇後日談

この黄金の「う〇ち」には、《帰郷》といタイトルがついていていることを知りました。そしてこの作品が何でできているかも・・・・ そんな解説、どこかでされていたのでしょうか? ↓ 下記の写真を見る限り、解説はなかったようです。

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(出典:160929 クリスチャン・ボルタンスキー展 アニミタス-さざめく亡霊たち@東京都庭園美術館(目白台): ゆこもりな日々より)

 

そのあとに参加したインスタレーション講座で知ることとなりました。

 ⇒■庭園美術館:ボルタンスキ― 展覧会関連プログラムに参加して ① 

 

何にも知らずに、先入観なく見るってこういうことなんだな・・・・ 事前にブログなどで情報を見ていたとしても、この作品の中に金の塊があることなど、記憶には全くひっかかっていませんでした。

 

いろんなとらえ方があっていい・・・ 鑑賞は自由でいていいと思うのです。

 

 

6.《アニミタス》《ささやきの森》 

いよいよ「大トリ」ともいえる作品《ささやきの森》です。その前に・・・

 

 〇アニミタス

 

▲標高2000m チリ アタカマ砂漠    ▲こんな衝立に投影されています

 

豊島に行った時、瀬戸内芸術祭公式ガイドブックに掲載されていた作品の写真です。戻ってきてから、《ささやきの森》と同じようなコンセプトの元になった作品として紹介されているのを目にしていました。それがどこにあって、どういう作品かも知らず・・・・ それ以上、調べたりもせずそのままにしていたのですが、今、私の目に前に、また現れたのでした。

この写真が、フライヤーになり、看板になりイメージ写真として使われているのを目の当たりにして、ボルタンスキ―が自分の中に入ってきて身近な存在になっていきました。

場所はチリのアタカマ砂漠標高2000m、ほとんど人が訪れることのない場所に作ったのだとか・・・ そんな作品だったんだ・・・ 行けないようなところにある作品を、実物ではないけども、映像体験ができる・・・・ そこに価値を見ていました。

そのスクリーンの前には干し草が敷き詰められています。

 

 

〇ささやきの森

 

 ▲豊島 ささやきの森           ▲裏側はこんな感じ

 

《アニミタス》の裏には、《ささやきの森》が投影されています。

私は本物を知っている・・・・ これはなにものにも変えがたい経験。豊島という島に渡り、家浦港から車で10分、(バスだと1時間から2時間に一本のバスの時間に合わせて)そこから20分ほどの山道を歩いてやっとたどり着いた場所。そこでの体験は、何物にも代えがたく、はっきり言って、こんなもので表現できる世界ではない・・・と。

実際に「見て体験してきた人」「ここだけで体験した人」の間には、大きな差があって、感覚的なものは、相容れない・・・ 実物を知っているものの強みがある。そこに軽々しくは行けないことが、より一層、私は訪れたのだ!というある種の優越感ももたらします(笑)

 

ところが・・・・  ボルタンスキ―はのたまったのです。

 

   知っていることが大事。

   その場所に行かなくてもいい・・・・

 

なに~??? 知ってさえいればいいと?  行かなくていいと?
そんなことないでしょ。絶対に体験に勝るものはない!
そんなこと言われたら、わざわざ行った人はどうなるの?(笑) 

 

そのあとに行われるインスタレーションに参加する唯一のよりどころでもあったのです。私はボルタンスキ―も知らなかったし、その作品のことも、何にも知りません。それでも、対話形式のセミナーに参加しようと思えたのは「私は現物を見てきてる」その一点だけだったのです。

 

実際にここの展示は、現物を見てしまったら、子供だましに思えてしまいます。私が見てきたもの、感じたものは再現がされていません。それは当たり前なのですが、だからこそ「その場所に実際に行く」ということに意味はあると思いたいのです。

 

そんなことを考えいたら・・・・ あっ、やってくれてます!

 

▲スクリーンの足元に光の再現  ▲豊島の《ささやきの森》林床

森の林床に、ちらちら動く光の影。まるで生きているかのようにうごめくものがあるのです。最初何なのかわからず、その動きを追って、わかりました。透明の短冊が風にゆれて、光を反射させながら、地面に映し出していたのです。そんなサプライズや感動があったので、この場所では、再現なんて無理。と思っていました。でも、それにチャレンジしてくれていたようです。

 

▲このスクリーンの手前の光の帯に注目です。このわずかなベルト帯ですが豊島の山の中をリアルに再現させているのでした。でも、そんなことに気づけるのも、やっぱり、現地に行ったからこそ・・・・・ヽ(^。^)ノ

 

     

 そして、この森の奥へ奥へといざなわれていく感覚。水平、垂直の平面構成だけでは絶対に無理。と思っていました。ところが、「スクリーンと床」を「藁」でつなげ、そこに光の効果も加えて、最大限、つながっているように見せるという努力をされたのだろう・・・という跡がうかがえたように思いました。

 

現地に行ってきた者からすれば、所詮、藁は藁でしかないのです。山の中は藁ではできていません。これが自然の姿です。こういう姿が私の琴線を刺激するツボなんです。

 

 

「なんちゃって」になるのだろうなと思っていました。

 

最も、室内で本物の再現なんてできるわけもなく、それを言ったら酷なことはわかります。でも、そこから、少しでも、あの空間をここに再現して、こんな場所が、日本の豊島という場所にあるんだよ。ということを「知ってもらう」 そのエネルギーを注いだのだと感じさせられました。

 

本物じゃないけど、ここに、豊島の「ささやきの森」が出現したような気がしました。

 

   ⇒■豊島でボルタンスキー体験 《ささやきの森》

      ↑ 豊島での《ささやきの森》体験

 

この映像は、何分ぐらいの映像をロールでまわしているのでしょう? そのつなぎ目を見極めたくなるのも、悪い癖です。こういう一見、あまり変わらない映像をじっと見ていると、思わぬものが出てきたりするということを、以前、「IZU PHOTO MUSEUM」の「松江泰治展 世界・表層・時間」で体験したことがあります。

(その時、「IZU PHOTO MUSEUM」が、杉本氏が建築したことを知りました。杉本氏は直島で初めて知り、「IZU PHOTO MUSEUM」で再会しました。さらに、庭園美術館新館を杉本氏が新館の構想にアドバイスをしたとのこと。その中の展示を見て「IZU PHOTO MUSEUM」で見た展示を思い出すという・・・・ そんな連鎖も不思議です。

 

じっと、ここで佇み、映像のつなぎ目を見極めたいと思ったのですが、このあと、インスタレーション講座の時間が迫っていたので、足早に引き上げました。

 

講座については、改めて続きます。(続) 


 

■【参考情報】

響いた言葉をピックアップさせていただきました。

「クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス-さざめく亡霊たち」展@東京都庭園美術館 - ミライ派野郎

>豊島の「心臓音のアーカイブ」を体感して…  >配置も構造も何も変えることなく、音だけで別の場所に >階段の上の方を昇っている時点でもう、聞こえるんですよねあの音が >無数の巨大な視線に晒されながら歩くのは、ちょっと居心地が悪い感じもする…(笑) 

 

クリスチャン・ボルタンスキー アニミタスーさざめく亡霊たち - 佐賀町日記

>不在の存在を喚起 >作家には巡礼地や聖地を、また物語や神話を作るという高地の砂漠なんだって、風鈴はボルタンスキーが生まれた時の星の配置になっているんだって」「へぇ~そんなこといわれても~笑」とキャプションを眺めながら会話している女学生たちがキュートだった。>自然教育園一帯は、縄文時代中期に人が住みつき、歴史を重ねた土地であるという。もののけたちが住んでいても不思議ではないような豊かな森だ。姿のみえない無数の野鳥の鳴き声がこだましてた。 

 

さざめきと亡霊 - keikonsakaki’s diary

その言葉が私自身と関連しているかのような感覚 立ち止まらざるを得ない何かの力があるかのよう 一人か二人で味わうことを設定としているかのような 合失調症者の体験世界を表しているようにも 自分自身が、そうした体験に近づき非現実と現実の間を行き来した 

 

 

アールデコ建築でスピる?- ボルたんの「アニミタス – さざめく亡霊たち」展 - おとといまでの私にわからせるためのブログ

> この作品は、ボルたんの古着の作品について知っていてこそ、その意味が際立つ作品だと思う。

もちろん美術に少し関心のあるひとなら知っていると思います。でも本来、ボルたんの作品で古着が想起する生死の気配を拭ってしまってはいないでしょうか。。。ここでボルたんの作品をはじめてみる人には通じなんじゃないか?そういう人は観客として想定されていないの他の仕事を知っていてようやく意味がある」と言いたくなる

うんこ、うんこ、って部屋のいろんなとこから聞こえてきたし・・・

それを、1枚(に見える)エマージェンシーブランケットで覆ってしまったときに、ひとりひとりの命や精神の重要性が際立ってくるとは私にはどうも思えない。 

>関口涼子さんによる「さざめき」のセリフもなんだか肝試し風だし。

 

亡霊が語りかけること / 目の感情 × 記憶の引き出し / ボルタンスキー × アニミタス × 庭園美術館 - monokann

目で景色を見て、鼻で香りを感じ、耳で音を聞き、肌で空気に触れ、口で呼吸をする。そして、空間を感じた経験は、次に脳の記憶に刷り込まれるその記憶は五感と直結した記憶になる。

 

  僕は『アニミタス』『ささやきの森』の空間にいると、2016年夏に行ったチリ・イースター島のことを思い出していた。強風で流れる雲、気まぐれな天候、波の音。四駆の窓からの景色に、美味しそうに草を食べる馬と緑の匂い。今、目の前にある作品と、自分の中にある記憶が結びついて、引き出しが開いた。そんな感覚があった。そう思うと、「五感を満たすことができれば、人は現地にいなくて現地に行ける」のかもしれない。

 

●亡霊のさざめきに関する声

「クリスチャン・ボルタンスキー展」 東京都庭園美術館 - はろるど

>声は日本語です。発声は美しく、しかも礼儀正しい極めて落ち着いています。実際のところ指向性スピーカーから発せられているため、特定の位置に立たなければ聞こえてきません。>声は不思議と体の奥底へと染み込みます。亡霊はあまねく遍在しているのかもしれません。>覗き穴からは冷たい風が吹き出しています。それが殊更に寒々しい。まるで洞穴の入口を前にしているかのよう>「眼差し」の目は証明写真から転用したものです。既に匿名、誰かは分かりません。そして「帰郷」は一体何なのでしょうか。大量の古着を、防風や防水、さらに災害避難用に使われるブランケットで覆ったものでした。ボルタンスキーにとって黄金は「富をもたらし、災いの元にもなり得る」(解説より)そうです。その表裏一体の関係を指し示しています。  

 

ボルタンスキー展、必見です+「放送大学」、佐藤春夫の故郷・南紀をロケしました(画像追加です) 林浩平の《饒舌三昧》/ウェブリブログ

ここを訪ねるたびに何度も覗いては「へえ、豪勢だなあ」と感心していた書斎や食堂などの室内空間ですが、そこに足を踏み入れると、男女の声が流れてきます。日本語ですが、ふーむ、詩的会話、とでもいうのか、一瞬、僕が昔書いたデュラスふうの対話詩(詩集『天使』)を連想しました。つまりこれ、声のインスタレーションで、ボルタンスキーの作品なのですね。これが「さざめく亡霊たち」ですか。詩人でパリ在住の関口涼子さんが日本語のテクストを提供しています。なかなか面白いですよ。ここで「亡霊」の声を体験ください。

 

クリスチャン・ボルタンスキー展(東京都庭園美術館) - 旅とアート、ときどきゴルフ

少し残念に感じたのが、流れてくるささやきがナレーションぽいだっこと。
幽霊というテーマであれば、感情の入った台詞でもよかったのではないかと。
あんまり芝居がかってしまうと興ざめですけどね。
あと、天気のよい昼間に観賞するよりも、暗くなってからのほうが雰囲気があってよいかもしれないです。

 

流れてくる「ささやき声」の受け止め方もいろいろ・・・・

 

▼ボルタンスキ―

クリスチャン・ボルタンスキー インタビュー(by ART iT)

 

 

 

学芸員さんが寄稿

  ↑ 情報元:会社概要 | Art Annual online

 

 

学芸員にインタビュー

BLOGOSとは

ガイドライン - ガイド

 *ここ、ライブドアニュースだったようです・・・ ライブドアの執筆者の素性は玉石混合
  ライブドアニュースの記事は、もともとあまり信用はしていなかったのですが、
  見た時はそんな媒体とは知らず参考になる記事としてピックアップ。

  

 ↑ ↓ 待ったく同じ記事を目にしました。 どういうこと?インタビュアーは同じ  

    執筆者が2つの媒体に記事提供したのか。あるいは両者には提携があるのか?

 

学芸員さんへのインタビュー 

  ↑ 情報元:ABOUT | SYNODOS -シノドス-

      

シノドスの楽しみ方、あるいはご活用法のご案内 / 芹沢一也 / シノドス代表 | SYNODOS -シノドス-

キュレーションサイト事件の背景 / 田中辰雄 / 計量経済学 | SYNODOS -シノドス-

*混沌とした情報化社会に一石を投じようとする気概のようなものは感じたのですが、全く同じ記事が堂々と流されているというのはどなんでしょうか・・・・とは思うものの、記事の内容は参考になったのでまあ、いいかな・・・この手の美術関連情報のソースを確認するということはあまりないのですが、全く同じ情報が、しかるべきサイトを標ぼうする中でリリースされてしまうと、そのバックグランドを確認してしまいます。ボルタンスキ―作品は、こうした現代の社会事情も写しだしている作品? 物の売り方、情報の流し方、そんな「今」も見せられたように感じるのでした。

 

 

▼カーサ ブルータスが語る

ハフィントンポストより 

(↑ハフポストってどんな媒体? ちょっと説明不足
  情報提供の本体の情報がなくて怪しそう。でも内容は参考になったのでクリップ)

 

▼ サイトによる説明はこれだけ

 

▼ハフポストに関する情報

 

この手の情報提供をするのに、自らの指針やサイトポリシーなど冒頭でしっかり語っておく必要はないのでしょうか・・・

 

  

情報の取捨選択について

美術館に関するこのような情報提供でさえも、誰が書いているのかどんな立場でどのような視点からリリースされているのか。情報発信母体はどういうところなのかを確認するという習慣が無意識のうちに身についていたことを自覚。(メディア情報は、ほとんどがリリース情報ばかり。記者のほとんどは垂れ流しているだけのものが多い。)

DeNAの医療のまとめサイトについて、情報の真偽について、問題になっていますが、情報提供母体の信頼性、どういういう人が書いているか、そんなことを意識して見ていれば、医療情報のまとめがいかなるものかは推して知るべし。受け取り側の問題もあると思いいます。医療情報なんて、医師によっても見解は違うのですから、誰が、どういう立場で、情報を提供しているかを確認する習慣は絶対に必要。医師のいうことだって、鵜呑みにしちゃいけない。そこには製薬メーカーだって絡んできて、自分たちに都合のよい情報が流されているのですから・・・ そうしたことも含めて、自らが判断して見極めていくことが必要だということを、元医療従事者だった立場からも・・・ 情報選択の基本はそんなこれまでの習慣が、身について培われていたことを感じました。発信される情報は、誰が、どういう目的で発信しているのか。そこの見極めが大事。見極めた結果、母体の信頼性がないと判断しても、記事そのものは、自分にとって参考になるという選択もあるということでした。

ただ、今回の事件は、キュレーションによって儲けてしまったことは、また別問題・・・ということで。 

 

 

■【関連記事】庭園美術館  

■庭園美術館:ボルタンスキー「アニミタス-さざめく亡霊たち」 ←ここ

 2016-11-29 ■庭園美術館:アール・デコの花弁 旧朝香し宮邸の室内空間 ←関連

 

■【関連記事】展覧会関連プログラム

■庭園美術館:ボルタンスキ― 展覧会関連プログラムに参加して ④
■庭園美術館:ボルタンスキ― 展覧会関連プログラムに参加して ③
■庭園美術館:ボルタンスキ― 展覧会関連プログラムに参加して ②
■庭園美術館:ボルタンスキ― 展覧会関連プログラムに参加して ① ←次

 

2016-12-28 ■豊島八百万ラボ:神話と科学が融合 科学が神話を作った!?

 

■【脚注】

*1:直島:家プロジェクト「南寺」 滞在中に3回鑑賞 改め実験 

↑ 作品として見るというよりも、「視覚機能の実験」を自分自身に試みながら鑑賞。明るいところから暗いところへ移動した際、視覚は鑑賞にどう影響を与えるのか。条件を変えながら3回も見ました。

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*2:●情報の確認について

一次情報を自分の目で確認するまでは、その情報は信用しないことにしています(笑) このスピーカーが指向性だとう記載をしかるべき解説で確認をしないと・・・・ これも自分の長年、培われた思考癖です。スタッフの方から「そんな話は聞いていない」と伺いましたが、これも信じてはいません(笑) ご本人の認識不足ということもあります。ネットで何人もの人が語っていますが、孫引きの可能性もあります。(笑) が、ここまであちこちのブログに記載があるということは、図録に書かれていたのかもしれません。

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*3:■言ってみただけ(笑)

本当は悩んではいません (笑) 自分の個性、オリジナルな物の見方だとプラスに捉えています。が、時にそういう重箱の隅が気になってしまうことを疎ましく思う人もいるというのも理解できるので、表向きこのように言っておくことに(笑)

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*4:■鈴木其一 江戸琳派の旗手:《夏秋渓流図屏風》

 →展示替えのあとに再訪したら、屏風の展示の高さが変わっていることに気づきました。

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*5:プロローグ来館の歩み

 →過去に訪れた庭園美術館の年と企画の思い起こし

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*6:速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造― ③《名樹散椿》「撒きつぶし」と其一

  →金の施し方によって、光の反射が変化し金の質感が変わる

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