「挿絵本の楽しみ」の トークショーで、この一冊は? という質問に橋本麻里さんは《本草学図譜》を上げられました。ところが、司書の成澤さん、館長の河野先生も、みなさん、この時代の博物学的な世界に強く興味を持たれているご様子。私も個人的に本草学、博物学あたりのことは興味があり、調べたことが散乱しているので、ここにまとめておこうと思います。
- ■本草学による園芸ブーム
- ■本草学とは・・・
- ■時代背景・・・世界が博物学を追いかけていた
- ■幕末の絵師 生きた年代にみる影響度
- ■幕末の鈴木其一と本草学
- ■ 《本草図譜》 1844年頃写
- ■トークショーでの質問
- ■東京国立博物館でも博物学本の展示
- ■博物学への広がりの体験
- ■「江戸の想像力」(ちくま学芸文庫、田中優子)
- ■夜明け前のエネルギー
- ■関連・参考
- ■追記(2017.05.26) 其一が生まれた時代に生きた人のつながり
- ■内覧会関連
■本草学による園芸ブーム
出典:鈴木其一 江戸琳派の旗手:《朝顔図屏風》朝顔の種類は何?
(2回目の感想)(2016/09/20) より抜粋してます
植物は「本草学」としてとらえられるようになりました。
▼江戸本草学の流れ
上記の写真をもとに年表にすると・・・・
〇西洋の植物学 ボタニカルアートの展示
■そごう美術館:ルドゥーテの「バラ図譜」展 を見てきたので、ルドゥーテの情報も掲載。《本草学図譜》と《バラ図譜》は同時期で、シーボールトも同時期です。世界の植物学が変革をしていたことが伺えます。
〇植物学は博物的な発展とともに、薬草学としても発展しました。
(「江戸時代の人達は植物の利用のしかただけでなく植物の共生も知っていた」
by 大場秀章
それらは、さまざまな書物にまとめられ、残されています。
本草学の実物の書物を宮内庁所蔵品を、目の前で広げて見る機会があったり、薬科大の先生による本草学、薬草学の話をお聞きしたり、薬草園の見学をしたり・・・ 江戸の植物について、大場先生のお話を伺ったりと、興味のあるジャンルだったのでいろいろ見聞きしてきたのですが、ただ聞いただけで終わっていました。その時、本草学とはなんぞやというわかりやすい解説をしていただいた資料があったのですが、紛失してしまい残念・・・・
■本草学とは・・・
大場先生によると江戸時代の植物学は、今の植物学と若干、ニュアンスが違い、薬用の観点から植物を中止に自然物を研究する学問でした。医療が外科的なものではなく、薬草を中心とする薬によるもの。「薬の本(もと)になる草」ということで「本草」と言われました。江戸時代の植物学は、医学、薬学が含まれていました。
江戸時代、戦乱もおさまり太平の世となると、健康に配慮する動きが出てきたのですが、病気の治療に関する文献がなかったため、中国の『草本網目』を元に研究がすすめられたのでした。この本が絶対視されすべての植物は日本にあると思われていましたが、『本草綱目』に載っていない植物があると気づいた貝原益軒は、自分の足で歩き目で見、手で触って確かめるという実証主義のもと、日本版本草書『大和本草』を出しました。
その後、小野 蘭山は13歳から松岡恕庵に本草学を学びますが、5年後、恕庵が死去。以後、独学で学びます。そんな中、本草学は中国から伝わった『本草綱目』を元に作られたもので日本固有の動植物、鉱物などに適した形をもっていないことに気づきます。その後、山や森に分け入り実証を元に日本の本草学を目指し《本草綱目啓蒙》を脱稿。杉田玄白、谷文晁、小野蘭山などが弟子でした。
本草学を小野蘭山に学んだ岩崎 灌園は、『本草学図譜』を作成。 約二千種の彩色草木図に解説を付した日本最初の植物図鑑。これまでの本草書の図版が欠落していたり、精密さに欠けることに不満を感じた灌園が、自ら描いた2000種の図を集大成したもので、92冊からなり、李時珍の『本草綱目』にしたがって配列されました。
■時代背景・・・世界が博物学を追いかけていた
大航海時代、プラントハンターなど、海を渡り様々なモノや文化の収集が行われた時代。シ―ボルがやってきて、医学や植物学を教えつつ、日本の植物も採取しました。日本も世界も、博物学的な見地から、学問体系が充実していった時代です。
河野先生からは、博物学は実証主義で、忠実な絵を基本としており、そうした時代の流れから、伊藤若冲のような精密な植物表現がうまれたと解説がありました。また秋田蘭画の小田野直武なども、実証主義の影響が伺えます。
■幕末の絵師 生きた年代にみる影響度
以前、サントリー美術館で、『小田野直武と秋田蘭画』展があった時に、幕末の絵師たちが生きた時代をまとめたことがありました。この時代、それぞれにどのように生きた時代が重なり、影響しあっていたのか・・・・・ 「小田野直武」「伊藤若冲」「喜多川歌麿」「北斎」「鈴木其一」など多彩な人材がひしめきます。さらに画家だけでなく「平賀源内」「伊能忠敬」「一茶」さらに、外国から「シーボルト」がやってきたりとエネルギッシュな時代だったということがわかります。
■幕末の鈴木其一と本草学
静嘉堂文庫の「挿絵本の楽しみ」を見る前に、鈴木其一の《四季花鳥図屏風》を黎明アートルームで見ていました。
其一の植物表現もきっと、シ―ボルトの影響があるのでは? と推察していました。⇒■シ―ボルト展でケマンソウ
また《草本図譜》も見ていたのではと想像していました ⇒■ 其一とシーボルト
其一33才の時に、《草本図譜》が完成(1828年)しておりその後、西方のスケッチにでかけています。きっと、そういうものに触れる機会もあったのではないでしょうか?
《草本図譜》作成においては、シーボルトの影響はあったのだろうか? と思っていたのですが、実際に面識もあったというお話がありました。
戻ってきて、「日本の自然を世界に開いたシーボルト」 で展示されていたシ―ボルトに関連した人たちのパネルを見ると、しっかり「岩埼灌園」の名前がありました。
1826年に江戸で会見し標本を提供していることも書かれていました。
■ 《本草図譜》 1844年頃写
日本初の彩色植物図鑑。 灌園自ら観察し2000種類収蔵 20年かけて1844年完成。大名が予約。江戸後期の博物学者。シーボルトと会って、植物談義をしていることについて、解説にも書かれていました。肉筆によるもの。
Q 大名の予約本はどのように作成されたのか?
弟子もいたので、模写をして作成。版ではなく肉筆着色。
Q 色がとても鮮やかだけど・・・
本の状態で閉じて保管されるため、光の影響をうけにくかった。
■トークショーでの質問
Q《本草図譜》は、リンネの分類 ボタニカルアートの影響はあったのか?
「岩埼灌園」は、リンネの分類も、ボタニカルアートという表現法も見ていたし知っていた。しかし、この本はあくまで中国を発祥とする本草学(医学・薬学・植物学)を軸にした編纂。見てはいたけども、本草学にならってまとめられている。
参考:■そごう美術館:ルドゥーテの「バラ図譜」展 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
Q シーボルトの影響はあったのか?
シーボルトと実際、江戸で会って植物談義もしている。
日本の植物の提供もしていたことがあとでわかりました。
Q:宗達と光悦の《鶴下絵三十六歌仙》は、文字と絵はどちらが主か?
描かれ方 セッションという話もあるが、あらかじめ計画的に練られていたのでは?
よくよく見ると、上に重ねた部分もある
Q:鶴下絵巻 光悦の間違いはわざと・・・・?
土坡と文字数のバランス 3文字でバランスがとれる下絵になっている。
4文字なら、土坡もそのように描いている
■東京国立博物館でも博物学本の展示
タイムリーなことに、前日、東博にて常設展に博物学に関する関連資料が展示されているのを見ていました。
〇植物
↓ 上記の部分を拡大すると非常に細かで繊細。この細やかさはボタニカルアートの手法に通じるものがあるのでしょうか?
当時、ボタニカルアートというものを見て知ってはいたけども、描き方としては取り入れていないとのこと。
【追記】(2017.05.02) ルドゥーテの蕊 表現
こちらはプリントによるものですが、実際の表現を見ると日本の方がすぐれていると思われました。ただ、ルドゥーテは銅版画なので技法が違いますが・・・
〇甲殻類
↑ 拡大
(シ―ボルトはこうした日本人の表現力をとても評価していたと、シーボルト展で紹介されていました)
〇人体
ジャンルは博物学的に様々な広がって、いろいろな記録がされています。
■博物学への広がりの体験
(鈴木其一 江戸琳派の旗手:《朝顔図屏風》朝顔の種類は何?(2回目の感想))より抜粋
◆江戸開府400年のイベント
2004年 浜松で花博が行われた時に「江戸の園芸文化」にスポットをあてた展示が行われていました。またその前年の2003年は、江戸開府400年で、いろいろなイベントやテレビ番組がOAされていました。
それは、長引く不況のもと、元気をなくしている日本に、かつての江戸が世界を魅了してきた歴史を思い出し、停滞ムードから立ち上がり、再生しようというプロジェクトでした。
そんな活動を通して、江戸時代の町民文化、その中にあった園芸文化が、当時の文化とともに世界とつながっていて、いかに日本という国がすごかったのかということを知るきっかけとなりました。
こうした海外からも人が入ってきて培われた江戸時代の文化というのは、とても元気でパワフルで、エネルギーに満ち溢れていて、海外からも注目されていました。自分が興味を持った西洋のものを、追いかけていくと、ほとんどが日本に逆戻りするという経験もしてきました。
出島というわずかな入り口から入ってくる情報を、貪欲に吸収し加工し、新たなものにつくり変えました。一方、日本の技術や感性が、世界に羽ばたき魅了し諸外国に影響を与えていた時代でした。
それまで知らなかった日本人のすばらしさを、江戸時代に暮らした人たちが、教えてくれた。そんな気がしたのです。
◆鉢へのひろがり
さらに、そんな朝顔をはじめとする植物を愛でるために作られた鉢の話。以前から興味のあった陶磁器の世界が、こんなところとつながっていた。と思っていたのですが、それは、その後の明治の超絶技巧の工芸品へとつながっていきます。
江戸の園芸から、当時の文化が垣間見え、その果ては世界とつながっていました。そして自分の興味を持った別のジャンルともつながりを持っていきます。
さらに、その後、何か新しいジャンルのことに興味を持って調べていくと、その先には、必ずと言っていいほど、この時代の江戸文化にたどり着くのです。
なんとなく見るようになった西洋美術,印象派の画家、そしてガラス作家、エミールガレやラリックまでもが、日本の江戸時代の絵画や工芸品にインスパイア―されていることを知ることとなりました。
さらには、ルイヴィトンの文様が日本の家紋を参考にしていたとか、ドビュッシーの曲が北斎の浮世絵をヒントして作曲されたとう噂もあったり・・・世界のあらゆるジャンルに対して、日本の文化が影響を与えていたのではないかと思わせるほどでした。
◆外国人の注目
江戸時代後半、海外から日本にいろいろな外国人が植物を求めてやって来ました。シーボルトをはじめとするプラントハンターたちは島国日本の固有生物、植生のすばらしさに驚き、調査で訪れる先々の日本人の勤勉さや器用さにも驚きます。そして日本人の持つ気質、やさしさや精神性にも感動して賛辞の言葉をあらゆるところで残しているのを目にしました。
■「江戸の想像力」(ちくま学芸文庫、田中優子)
以上のような、これまでの経験的に感じてきたことを、田中先生はご著書野中で、この時代について次のように表現されていました。
「深く日本のその時代を知ろうとすればするほど、どうしようもなく世界とつながってしまうような状況がまさにその当時の世界にはあった」
「世界的規模の大変化が起こる直前の18世紀後半の多種多様な認識・技術・形式が混在となり、異質なもの同士が未整理のままぶつかりあっていた時代のエネルギー」
「外部」=異質なもの との出会いであると同時に、すべてのものが「相対的」であることの発見であった。しかしそれはどうやら日本だけの現象ではなかったようだ。
■夜明け前のエネルギー
日本は与えられてもいたけど、外国にも与えていたことがわかります。何かを深く知りたいと思うと、日本に帰結することが多く、この国のすばらしさを再認識させられてきたのですが、実は、それは、日本の国だけのことだったのではなく、全世界的に、そのような時代であったということだったのでした。
世界規模で世の中がブレークスルーする直前の時代、夜が明ける前の世界は、異質なものが整理されることなく、そのままぶつかりあってエネルギーを発していました。学問体系もボーダレスで、分化を始める前の混沌とした中で、知を求めた人たちが、渦巻く中から何かを拾い上げ、自分のものにしていた様子が生き生きと伝わってきます。
そんな時代に、日本人は、何をヒントとし、そこから拾い上げその時代の文化を作り上げていたのか。西洋から入ってきたどんなものからインスピレーションを得ていたのか。あるいは、日本にもともとあるものから、発想を変えていったのか・・・
もしかしたら、どちらというわけではなく、それらの融合したものなのかもしれません。あるいは、時代の空気それを、生み落としていたのかもしれません。
江戸末期の博物学的な時代。興味が尽きません。
(抜粋:鈴木其一 江戸琳派の旗手:《朝顔図屏風》朝顔の種類は何?
(2回目の感想)より)
田中先生と河野先生は、「サントリーの小田野直武と秋田蘭画」のプレミアムトークの登壇者だったことを思い出しました。あとになってこのトークを知り、参加できなかったことが悔やまれたトークショーでした。
http://www.suntory.com/sma/info/visual/premiumtalk.pdf
そして河野先生は、秋田県立近代美術館名誉館長だったことを知りました。
美術鑑賞をしていておこる疑問を調べていくと、河野先生の答えにたどりつくことが多かったので、実際にお目にかかり、お話が伺えるという貴重な機会となりました。
■関連・参考
〇改めて琳派とは? 定義できないのが琳派 (2015/11/18)
〇『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』・・・「人」を書き忘れたというのは本当?
小田野直武展で展示されていた 石川大浪・孟高 「ファン・エイロン筆花鳥図模写」(谷文晁も模写)この絵は2人で描かれているのですが、どのように描いたのか。升目で描かれていますが、別別に描いて張り合わせたのか。張り合わせたようにわざと描いているのか・・・・が秋田蘭画展でこの絵を見た時の謎。機会があったら伺いたいな・・・と。
■追記(2017.05.26) 其一が生まれた時代に生きた人のつながり
鈴木其一と秋田蘭画 若冲と蘭画 そして同時代を生きていた源内、玄白。さらに海外からシーボルトがやってきたり、使節団がやってきたり・・・ いやおうなく国内外が融合していた時代・・・・ そして世界中でおきていた同時多発的な知の融合。
そこにピンポイントで同時代を生きた詩人キーツという存在を知りました。其一とは1歳違い。
⇒鈴木其一 江戸琳派の旗手 サントリー美術館 : 川沿いのラプソディ
⇒小田野直武と秋田蘭画 サントリー美術館 : 川沿いのラプソディ
1歳違いと言えば、シ―ボルトも其一の、イッコ下というつながりです。正に世界は「多種多様な認識・技術・形式が混在となり、異質なもの同士が未整理のままぶつかりあっていた時代」を感じさせられました。
其一が残したもの。それを生んだ時代の「前」と「後」 渦巻くような時代の流れ。それは日本も世界も、自然発生的に起きていて、追いつけ追い越せというわけでもなかった? メンデルの法則は発表こそしていませんが、日本人は経験的に植物の品種改良として文化として根付いていたわけだし・・・・ そんな中期的な時代の中で、1年の差で生を受けた人物。これは偶然なのか必然なのか・・・
■内覧会関連
■静嘉堂文庫美術館:「挿絵本の楽しみ~響き合う文字と絵の世界~」(ブロガー内覧会レポ)