鎌倉幕府を開き、武家社会の礎を築いたと言われる源頼朝は大倉幕府の裏山に眠っています。その場所に何度か足を運びました。最初はよくわからなかったことが、次第にわかるようになってきました。わかりにくい言葉や史実、史跡を理解するプロセスを追ってみました。
①
- ■頼朝の墓
- ■史跡 法華堂跡(源頼朝の墓 北条義時の墓)
- ■石碑から続く幻の道
- ■頼朝の墓 階段下の石碑や案内板
- ■鹿児島に頼朝の墓
- ■法華堂跡(源頼朝墓 北条義時の墓) なぜここに義時の名が?
- ■歴史散策について
- ■脚注
■頼朝の墓
頼朝の墓は、大倉幕府跡と推定されている清泉小学校の北側の山の中にあります。
②(20220506[4])
〇墓に向かう階段
白旗神社を左手に見ながら、鳥居をくぐり階段を上ると頼朝のお墓はあります。この階段は頼朝が亡くなった年齢にちなみ53段だそう。⇒*1
(20220131[1])
階段の傾斜は比較的、急です。手すりには頼朝の家紋(実は俗説?⇒*2)で鎌倉市のマークでもある「笹竜胆」が手すりにあしらわれています。石段の途中、鳥居をくぐります。
③(20220506[4])
〇頼朝の墓
石段を上りきると、目の前に突然「頼朝の墓」が現れます。思ったより簡素なイメージかもしれません。頼朝は武家政権の体制を整え、のちの徳川幕府300年に及ぶ長期武家政権の下地を作ったともいえる人物。家康の霊廟などと比べると質素です。
この源頼朝の墓は、1779年、島津藩主・島津重豪が立てたものだということをあとになって知りました。
④(20220131[1])
墓の周辺山の様子
5(20220131[1])
〇頼朝の墓と御家人たちの墓
頼朝の墓や周辺に立つ御家人たちの墓、史跡などを調べるうちに、法華堂と頼朝の墓の関係。頼朝と義時の墓の位置関係。島津忠久の墓との関係など、いろいろ疑問が出てきました。
〇頼朝と義時の墓の位置関係
特に義時と頼朝の墓の位置関係は、信頼関係による近い距離なのだと思っていました。(徳川慶喜の向かいに渋沢栄一のお墓があるのと同じような…)ところが隣に位置するのは、いろいろ思惑があったらしいことを下記から知りました。
『鎌倉市教育委員会文化財部調査研究紀要』第2号
「北条義時の死と前後の政情」(山本みなみ)
義時の墓
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月5日
頼朝を支え信頼されていたから近くに墓(法華堂)を建立と理解していた。
しかしそんな短絡的な理由ではなく、いろいろ思惑があったよう。死後、急速な義時評価が高まりの裏に、義時を権威化し、家督継承、北条氏の地位を安定させる政子の目論見だっという話しも…https://t.co/DKj5HHTe9C pic.twitter.com/bK6CbPlnrY
北条の存続、地位安定のために義時の死後(1224年)権威化。頼朝の墓の近くに義時の法華堂を政子が建てたという。
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月7日
しかし現在の頼朝の墓は、1779年、江戸時代に鹿児島藩主島津重豪が立てたものだという。だとしたらそれまでの間、頼朝の墓はどこにあったのか?
義時、北条の権威化のために「頼朝の墓の近く」という立地選びます。しかし現在の頼朝の墓は江戸時代のものなので「頼朝の墓の近く」といっても、その時、頼朝の墓はどこにあったのでしょうか?
それは「頼朝の法華堂=頼朝の墓」という理解が必要でした。頼朝の墓の隣の平地、そこに法華堂があったことがわかりました。
〇頼朝の墓がつくられたのは江戸時代?
当初は、頼朝の墓の解説も読んでいませんでした。現行の頼朝の墓は、亡くなった直後に作られたと思ってっていました。頼朝、義時のそれぞれの墓の場所の距離でとらえていました。
ところが、大江広元のとなりの島津忠久の墓について調べる過程で、1779年、頼朝の墓と一緒に島津重豪が立てたことがわかりました。
そうなると頼朝の墓は、それまでどこにどのような状態で立てられていたのか?という疑問がでてきます。
「法華堂はお墓と同じ」意味を持つことがわかりました。現在の頼朝の墓の隣の平場、ここに法華堂が立っていました。これをお墓と考え、義時の墓(法華堂)がその隣の平地に立てられたということのようです。
しかし、階段下の白旗神社も頼朝の法華堂とされています。(明治の神仏習合で神社に)この場所との関係はどうなるのでしょうか?
別の疑問が生じ始め、また何かのついでがあった時に再訪しようと思っていました。
〇頼朝の墓に島津家の家紋が刻まれているのはなぜ?
頼朝と義時の墓の関係について調べていたら「頼朝の墓に島津家の家紋が刻まれているのはなぜ?」という小学6年生の質問に遭遇しました。
その解答の中にも、頼朝の墓は江戸時代に作られたことが書かれていました。そして家紋についての一般的な認識とのずれについても解説が…
〇墓から何を読み取る?
頼朝の墓を見て、島津の紋があることなど気付きませんでした。というより島津家の家紋を知らないので、気づきようがありません。頼朝のお墓をどのように見ていたかを振り返ると、ぼんやり眺めていただけでした。見ているようで何も見ていなかったのです。
『歴史散策辞典』『歴史散歩便利帳』など入手し散策や調べ物の参考にしていました。そこには家紋一覧が収録されています。「家紋を知っている」ということが、史跡を見たり理解する上で貴重な情報源となること。それを元にどのようなことが紐解けるかという一例を見たように思います。
新たな謎も出てきたので、もう一度訪れてみようと思いました。島津家の紋が「どのあたりに」「どのように」記されていたのかを確認するために…
島津家の家紋「轡十字」の確認。これが3度目に訪れる一番の理由でした。(小学生が気づいたことなにに気づけなかったというのも手伝って) ただわざわざそのために訪れるのではなく、何かのついでに足を延ばしてみるといった感じです。
〇立ち止まると見えるものがある
お墓を前に改めて眺めてみました。しかし、どこに島津家の家紋「轡(くつわ)十字」があるのかわかりません。しばらく見ていると…
島津家の家紋はみつかりません。でも墓の石の材質が違うことがわかりました。手前の石が新しいのです。そこには「笹竜胆」の家紋が記されていました。新しく設置されたのでしょうか?
ということは、島津家の「轡十字」は古い石の部分にあるのでは?と思い、くまなく見ていくと… やっと見えました! 古い石にうっすらと〇の中に十が刻まれた家紋を確認できました。
3度目にして、やっとお墓をじっくり見るモードになりました。そのことは一つの墓の中に石の違い、そして同じ墓の中に流れている時間を感じることにつながりました。1779年から2022年、243年という時間が石を風化させた姿です。
〇寄進碑:墓の隣の石碑
墓石の左手にも古い石碑があります。こちらも、じっと眺めていました。初めて訪れた時、存在は確認していましたが、古びており、文字など認識はできません。横目で見て素通り。あとで調べれば、何かわかるだろうと思いながら、そのままでした。
その後、頼朝の墓の設立経緯や周辺の墓などから、頼朝との関係が見えてきて、見えなかった石碑の文字が近づいてくるのです。
20220131[1])
3度目の訪問時は、文字を読んでみようという気になっており、これは大きな進歩です。
文字は傷んでわかりにくい状態ですが、見ようと思えば確認することができました。そには… 安永八年己亥ニ月「薩摩中将源重豪」 と書かれていたことが飛び込んできました。
「源重豪」とは「島津重豪」(しげひで)のこと。頼朝の墓を江戸時代に作ったとされる人物です。(この時に島津忠久の墓も一緒に作っています。)
頼朝の墓は、鎌倉時代に立てられたのではなく、時代が下り、江戸時代になって島津重豪によって建てられたということをちょうど知ったところに、「源重豪」の文字と遭遇。島津家の祖先が源頼朝だという説(学術的には否定)ともつながりました。
調べていたことを、現地の石碑の中に発見。それを自分の力で紐解けたことに、ちょっとしたワクワクを感じていました。
解らないと思って読むことをあきらめてしまったらそれまでですが、読もうという意識を持つことによって、文字が浮かびあがってきました。そこに学んでいたとこが、ドンピシャつながったという偶然がうれしさを大きくしてくれます。それによって石碑の最初の文字「奉寄進」の意味も見えてきました。
このようにわからなかったこと、見えていなかったことが、学び深まることで見えてくる。これまでとは違う形の「芋づる」がみつかり、学ぶ面白さを感じています。これまでとは違う知ることの面白さは、歴史散歩や、読めない古文書を紐解いていくきっかけになるのかもしれません。
■史跡 法華堂跡(源頼朝の墓 北条義時の墓)
〇解説看板
ここに設置された解説を読んでも、いまひとつよくわかりませんでした。
日本語解説を拡大。箇条書きにぬきだすと…
(20220506[4])
この平場は、源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡。
治承4年(1180) 頼朝は平家追討のために挙兵、同年に鎌倉に入り。
元暦2年(1185) 平家を滅ぼす
文治5年(1189) 奥州藤原氏を滅ぼす
頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築く。
以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続く。
建久10年(1199) 頼朝が53歳で没。
法華堂は幕府創始者の墳墓堂となる。
のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集める。
鎌倉幕府滅亡後 法華堂は存続
17世紀の初頭 堂舎がなくなり石造りの墓塔が建てられる。
安永8年(1779) 薩摩藩主島津重豪により現在の墓標が整備
〇法華堂とは? 「法華堂」「墳墓堂」「持仏堂」「墓」 言葉の混在
解説にある「法華堂」「墳墓堂」の意味がよく解りませんでした。辞書的な解説はありますが、ここで理解するために必要なことは、「法華堂」「墳墓堂」は「お墓」と同じ意味だということではないかと思われます。それがわかると、この近くに立てられている案内板の解説の内容が見えてきます。
【持仏堂】
また鎌倉市のHPでは「持仏堂」という言葉も使われています。⇒鎌倉市/源頼朝の墓(みなもとのよりとものはか)
・現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂がありました。
・頼朝の死後は法華堂と呼ばれました。
・墓の層塔は1779年(安永8)に島津重豪により大御堂から移されたものといわれる。
⇒*3
・国の史跡に指定。
・明治時代、神仏分離政策により、1872年(明治5)墓前に白旗神社が建立。
一連の解説の流れ、つながりがよくわかりません
?「持仏堂」があったのは、墓のある場所? 平地?
?大御堂から移される
? 白旗神社との関係
? 頼朝が生きているときに建てたものを「持仏堂」と読んでいた?
? 「持仏堂」=「法華堂」 同義と考えてよい?
◆コトバンクより「持仏堂」
〘名〙 持仏または祖先の位牌を安置しておく堂、あるいは室。仏間。仏壇をいうこともある。持仏。
現代の私たちは、「墓」というと「石碑」を思い浮かべ、「法華堂」というと「建物」をイメージします。「墳墓堂」というと「墓」なのか「建物」なのか…
「法華堂」「墓」「墳墓堂」いずれも、亡き人を弔う場所という意味で「お墓」と同義に理解すればよいのだと理解しました。
〇北条義時の墓はどこ?
初めて頼朝の墓を訪れ、この札を見たら。ここ「法華堂跡」に義時の墓(墓石)があると思ってしまいます。しかし、周囲にはそれらしき墓はありません。一瞬、巨木の横にある石碑がそれかなとよぎりますが、どうも違うようです。義時の墓は頼朝のの墓の隣にあることを事前に知っていたため、表示からイメージするものと違うと混乱してしまいました。
頼朝の墓のとなりの平場に立てられたサインの名称と義時の法華堂跡のサインが同じ。その名称が示す範囲は?何を意味しているのか、どこからどこまでなのか、区切りをつけながら見るという認知の習慣。こんなところにも表れることに気づいた。 pic.twitter.com/ws0nN9GfU3
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月8日
〇案内板の解説
初めて訪れた時に、解説案内を現地で読めるかどうか。多くの場合、そのゆとりはありません。記録として撮影して、あとからゆっくり、それを見ながら理解を試みます。しかしそのままになることも多い状況です。
何かひっかかることや、他のことを調べていて気になることがあると初めて見直すというパターンが主。周辺の理解が進むことで相乗効果でわかってくることも多いです。
頼朝や義時の墓も、放置状態でしたが、大江広元の墓のつながりから、また白旗神社のつながりからも再確認することになりました。
〇「法華堂」のなぞ
頼朝の墓の横の平地を頼朝の「法華堂跡」と言ってます。
一方、白旗神社(頼朝の墓の階段上る手前の)も、頼朝の「法華堂跡」。明治時代、神仏習合により神社になったと解説されています。
いずれも「頼朝の法華堂」です。どこかの時代に移動したということでしょうか?
当初、白旗神社を見ても、意味もわからずうわべの概要だけを見ていました。頼朝の「法華堂」の謎から、この神社の「法華堂」も関連していることがわかってきました。やっと白旗神社の成り立ちの理解に至りました。
白幡神社…なのに法華堂跡の石碑。それぞれの看板はどこの解説で、何を意味しているのかを理解するまでに時間を要した。この公園で立ち止まり一息。そこから情報が引き上げられる。1度の訪問で理解するのは無理だと思った。そして白幡神社はいろんなところに存在している。八幡宮内にも。 pic.twitter.com/O96WZYDWr4
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月9日
〇希義(まれよし)公の土と石
こちらの解説を箇条書きで抜き出すと…
(20220131[1])
1159年「平治の乱」 父義朝が平清盛の前に屈する。
頼朝(13歳)と希義(3歳)(同じ父母の兄弟)は平家方に捕縛。
その後、兄弟の再会することは一度もなかった。
835年の時を経て兄弟の再開を果たすべく、互いのの墓所の土と石を交換した。
平成6年(1994)9月25日 源頼朝公報恩会
源希義公顕彰会
案内板を撮影しただけで、この解説の土と石は見ていませんでした。頼朝に関連する他の史跡は一度に理解するのは難しいと思いました。何度か足を運ぶうちに見えてくることに期待。
■石碑から続く幻の道
頼朝の墓にばかり注目してしまいますが、ちょっと引いてみると巨木が天に向かって伸びています。それに守られるように頼朝の墓が立てられていることがわかります。またその木の横にも墓石のようなものがありました。
(20220506[4])
〇「元祖島津豊後守忠久石塔道」
石碑は古いもののようで、何が書いてあるか読み取るのは困難でしたが、一字一字追うと「元祖島津豊後守忠久石塔道」と書かれているのがわかりました。
「島津忠久」と言えば、北条泰時の法華堂から階段を上った山の上にあるお墓の人物。頼朝の隠し子という説があるということを、ちょうど知った矢先の発見でした。そして、頼朝の墓とともに再建した島津重豪とつながりました。
石碑には「道」とあります。何かと思ったらそれは「道しるべ」を意味しているそう。島津忠久のお墓を立てました。それに続く道があることを示す石碑とのこと。道案内の石碑にしてはご立派です。
参考
⇒鎌倉幕府跡巡り 江戸時代の道 - マイ巡礼
⇒釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺(4)
- 釈迦堂口切通~瑞泉寺~頼朝の墓~宝戒寺_2015_Feb
これによって、ずっと気になっていた道のことがわかりました。googleマップに史跡などをプロットしていると現れる頼朝の墓から弧を描くような道が見えていたこと。
訪れた時はそれらしい道はありませんでした。獣道か今は失われた道なのだと理解。ところが、江戸時代に作られた島津忠久の墓に続く道が存在していたことがわかりました。ここは次に訪れる機会があった時に、ぜひ探索… 要チェック!と思っていたら。
残念ながら現在はロープが張られており閉鎖してしまったようです。
古都「鎌倉」を巡る(その54): 太平寺跡~来迎寺~石川邸(旧里見弴邸)~白旗神社~法華堂跡碑~頼朝の墓 | JINさんの陽蜂農遠日記 - 楽天ブログ
■頼朝の墓 階段下の石碑や案内板
頼朝の墓に向かう階段の周辺には様々な案内板があります。初めて訪れた時は、それを一つ一つ、確認する余裕がありません。また読んでも歴史の概略がわかっていないので、頭に入ってきません。
何度か足を運ぶ度に、少しずつ歴史の大枠も見えてきて、解説に目が向くようになりました。書かれている内容も理解できるようになってきます。
〇「源頼朝の墓」案内板
頼朝の墓に上がる階段の手前に頼朝の墓に関する経緯が書かれています。この解説は頼朝の墓の全体を示す解説になっています。
(20220506[4])
解説内容
・治承4年(1180):平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として
・元暦2年(1185):平家を滅ぼす。
鎌倉幕府を大蔵に開いき武家政治の基礎を築く。
・正治元年(1199):53歳で没。
自身の持仏堂、法華堂に葬られる。
法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰された。
法華堂は後に廃絶、この丘の上一帯がその跡。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備。
この解説をお墓を見る前に見ていたとしても、墓周辺の状況がわからないので、理解することは無理だったと思います。
〇「頼朝公顕彰碑」
(20220131[1])(20220506[4])
後ろの石碑は歌碑で、頼朝研究の第一人者、大森金五郎氏の歌「君出でて 民もしづまり 九重の 塵もをさまる 世とはなりにけり」が刻まれています。(明治から昭和にかけての歴史学者)公家中心の世から武家政権の世を創設した頼朝をたたえる碑。
碑の裏には、源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されています。
(20220131[1])
〇「源頼朝公顕彰碑」
島津家の家紋「轡十字」がすぐにわかるようになりました。一方、鶴の家紋は、似たようなものがいくつもあり、こちらと一致するものがなく・・・・不明。
「源頼朝公顕彰碑」石碑(平成12年(2000年)7月、源頼朝会)
裏には頼朝の業績が書かれています。
〇「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久公石塔道」
頼朝の墓に続く階段の前にも、古い石碑が立っています。書かれている文字を拡大して確認してみると「頼朝公御石塔及元祖島津豊後守忠久公石塔道」と書かれています。「頼朝公の石塔」ならびに「島津忠久の石塔」へ続く道であることが記されています。
(20220506[4])安永8年(1779)建立 薩摩中将源重豪建 と書かれた石碑。
これは、頼朝の法華堂があった平地に立っていた「道案内」と同じものと思われます。
ていた石塔と同じものと思われます。
■鹿児島に頼朝の墓
島津家は江戸時代、長い間に荒れ果てていた鎌倉にある頼朝の墓を修復し守ってきました。20年ほど前、お墓が鎌倉市に移管される200年以上にわたって管理を続けてきたのです。そのお礼として鎌倉の有志がレプリカの墓を贈ったそう。
⇒現存する場所と同じところに、荒れた墓があり、それを修復して今の状態にして、維持してきたということでしょうか? www.nhk.or.jp
■法華堂跡(源頼朝墓 北条義時の墓) なぜここに義時の名が?
頼朝の法華堂跡に義時の墓はありません。それなのに案内板には「北条義時の墓」と名前が記されています。現代感覚でお墓というと墓石をイメージします。この時代の墓の捉え方の違いがあると思われます。
また場所が離れているのに、名称は肩を並べています。「史跡 法華堂跡(源頼朝の墓、北条義時の墓)」これも、まぎらわしさの原因に感じます。
頼朝の墓のある場所に「史跡 法華堂跡(源頼朝の墓、北条義時の墓)」とあり、初めて訪れた時は混乱していた。義時の墓がここにあると思ってしまうので、石碑は?と探してしまう。法華堂には墓の意味も含まれるようだ。 pic.twitter.com/FyzjpEUMnX
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月7日
これらの理由は、調べた結果、名称の指定する範囲をあとから追加したことが原因だとわかりました。概要はこういうことらしいのですが…
名称が示す範囲の変遷。https://t.co/FadI1CHqB5
— コロコロ (@korokoro_art) 2022年5月8日
頼朝の墓は法華堂と同一。中腹の平場が法華堂跡と判明。その調査をしたのが赤堀直忠。法華堂と頼朝の墓は統合。
さらなる調査で義時の法華堂が発掘、頼朝の墓に義時の墓が追加され、範囲が広がったことがわかった。名称の意味が理解できやっとすっきり
これらのことを理解するには、周辺の史跡についてもう少し、理解する必要があります。また改めて追ってみようと思います。
そんなこと、どうでもいい…と思う方も多そうです(笑) でも私は、そういうところが気になるし、それが分かってくることが面白いと感じます。調べられるところまで調べて、自分で納得したいと思います。
一つ一つの「?」をつなげていくと、ここ一帯の関係がつながって全体が時代や場所を経て、つながって鎌倉幕府やその時代のことが多角的に見えてくるような気がします。
これらの混乱は、文化庁の文化財指定の範囲と名称が影響していることがわかったのですが、さらに遡ると、その修正は一般の方の指摘によって修正されていたこともわかりました。
文化庁が一般の指摘に耳を傾け、修正に応じていることにちょっとびっくりしました。そんな経緯を知ることができるのも面白さだと思います。
■歴史散策について
訪れたあとに、いろいろ調べていると、相乗効果で全体が見えるようになってきました。歴史は古文書もあり敬遠しがちです。しかし石碑などの文字も、立ち止まって読もうという意識を持つと、そこには知っている名前が登場することも… それによって理解の糸口が見えてくる面白さを感じました。
最初から掘り下げていくことは難しいですが、他のことからの絡みで理解できることが増えていきます。一度、訪れたところも何か気になることが出てきたら再度、訪れてみると目的とは別の部分にも発見があって楽しみが増えました。
大河ドラマによって注目を浴びるようになり、訪れるたびに案内板なども整備され、充実しているのを目にします。そんな変化も捉えながら、大河ドラマのOA期間、散策を楽しんでみようと思います。
今回は頼朝の墓の周辺の石碑に書かれていることや、それは何を目的にしたものなのか。たまたま調べていたことと合致するというめぐり合わせもあり、歴史の面白さの一端に触れられました。