泉屋博古館分館で行われている「木島櫻谷展」3月20日から展示替えがあります。話題の《寒月》は全期展示されています。《寒月》について、インターネットミュージアムに記事を書きました。
上記で書ききれなかった部分を補足したいと思います。
*写真は主催者の許可を得て撮影しております。
■屏風は左右で見え方が違う
屏風は、図録などの平面で見るのと、屏風の状態で見るのとでは印象が全く変わります。さらに、右から見るのと、左から見るのとでも景色は変化します。
ところが、寒月は、通常の屏風で体験する違いが、より一層、際立っているように感じられます。
▼正面から
▼右側から
手前から奥に向かってなだらかな起伏が続き、その先に無限に広がる空間を感じさせられます。
▼左側から
こちらから見ると、竹の配列に沿って、画面の奥へ奥へと吸い込まれていくような錯覚に襲われます。竹林の奥深さが屏風の折れによっても引き立てられています。
そして (↓) ここの部分の空間が気になります。
左隻の一番左は、雪の背景の色とは違います。無限の空間を、色の変化でより引き立てているようです。
何かを感じさせる(↓)無の空間
こうした無の空間をどう表現するかをウォッチするのが好き。
この屏風を見ていて思ったのが、菱田春草の《落葉》福井版でした。福井版は、中央が無限の広がりを見せているのですが、櫻谷はその広がりを左隻に移動させて、その先へ先へ広げた気がしました。
↓ ここに無限の広がりが
菱田春草《落葉》 木の配列が奥行きを感じさせる ↑
図録を見ると「明治末の樹林図 ー落葉と寒月の周辺ー」(p87)という寄稿がありました。櫻谷の《寒月》と春草の《落葉》を樹木図という視点から考察がされていました。
春草の《落葉》と似てる‥‥ でも、春草と櫻谷の時代がわからなかったのですが、《寒月》が1912年、《落葉》は1909年。落葉を意識して制作した可能性も考えられるとありました。実際、春草は《落葉》を見たという記録があったようです。ところが特に影響は受けていないという記録があるとのことでした。(図録より)
《寒月》を屏風状態で見るか、広げて見るか‥‥ この時代、文展の会場が広くなり、大型の屏風も多く出展されるようになり、広げた状態で、構図が決められるようになったそう。
屏風の広げ方によっても見え方が変わるとのこと。屏風の広げ方も、展示によって変えていると伺いました。前回、展示された京都の泉屋博古館の屏風と展示がもしかしたら違うかもしれません。また今後、また見る機会があったら、広げ方が変わっているかも。今回の展示をしっかり目に焼き付けて、次に見る時の参考に‥‥
前回の様子がこちらに‥‥
■ 《熊鷲図屏風》の展示も注目
ちょっと気になった展示がこちら
一般的な屏風の展示と違います。二曲一双屏風を、このように展示をするのは初めて見た気がします。何か意図があるのでしょうか?
学芸課長 実方葉子さんに伺ってみました。この場所は鑑賞のための引きがないため、離れて見ることができません。そのためこのような形で展示をしたとおっしゃっていました。この場所は1室と2室をつなぐ通路のような場所で、垂れ幕があるため、斜め方向からしか見ることができません。会場によって、どのように展示するか、2度目に見る方にも違う楽しみを提供するためにいろいろと工夫をされているとおっしゃっていました。
屏風を向かい合わせにしたことで、中央の空間ができ奥への広がりができて、奥行きを感じさせられます。これもまた、春草の《落葉》を想起させられました。
そして、鷲と熊の視線は、一見、交差しているように見えるのですが、よく見るとずれています。このずれがまた、空間に厚み加えているように思えました。
また熊の視線が柔らかく、猛獣なのに親しみを感じます。体はまぎれもない獣なのに獣臭がありません。人間臭さの方が強く感じます。それに対し、鷲は野生を残しているように見えます。それは、人類皆兄弟‥‥ 動物もヒトも同じ生き物なんだというメッセージのように感じられました。
この屏風が通常の展示方法で飾られているのがこちらに↓
今度、展示される時は、別のケースで、通常展示されるかもしれません。
■《寒月》ギャラリー
▲キツネとは決して目が合わない
↑ これなんだ?
↑
倒れた竹、裂けた様子が痛々しい。テレビやリリース画像ではきづかきませんでしたが、見た瞬間、目に飛び込んできて、ドキッとさせられました。
▲左隻六扇を正面から見る
▲下弦の月の周辺