コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■木島櫻谷展:漱石の酷評にまつわるいろいろ

密にブームの兆しが見える木島櫻谷泉屋博古館分館で、生誕140年記念特別展『木島櫻谷』が、2018年2月24日から始まりました。注目は夏目漱石が酷評したと言われる《寒月》です。 その背景を探ってみました。

 

 

■木島櫻谷との出会い

木島櫻谷を知ったのは、昨年(2017年)の11月に行われた「都内4美術館合同 2018年開催企画展 合同記者発表」でした。泉屋博古館分館の館長による紹介があり、見るなり、こりゃすごいわ‥‥ その一方で、なんで、こんな画家が無名なのか不思議でした。ライオンの表情。日本の絵画の過渡期の作品であることが見てとれました。変革の中の秘めたエネルギーのようなものが感じられ、開催されるのを楽しみにしていました。

なぜ、無名なのか‥‥ 最近、わかってきたことは、日本で認知されていない。しかし、海外では人気がある画家の展覧会を何回か見て、共通しているのは、体制に反発して主流の波に乗ることができなかった人。ということでした。

きっと、櫻谷も抗った人だったのだろう。あるいは、漱石の酷評でダメージを受けてしまったのか? そんなことを想像していました。

 

 

その時に抱いた印象がこちら・・・

■泉屋博古館 分館

あまりメジャーでない読み方すらよくわからない作家を取り上げることの多い泉屋博古館。「このしまおうこく」と読みます。先行して京都の博古館で行われていますが、初公開のライオンは、近代の動物画として確立された迫力に満ちています。江戸から近代に向けて動物表現がどう変わったのか・・・・ 洋風化の中ので日本のオリジナル性はどう保ったのかを捜してみたいです。

 

《寒月》という作品。私はいいなぁ・・・と思ったのですが、夏目漱石は、いたずらに洋風を追随していてぼろくそだったらしいです。そんなにダメかなぁ・・・ 漱石がどこをダメ出ししたのか確認してみようかと・・・

 

 

日曜美術館で特集

その後、日曜美術館でOAされました。

 

【追記】2017.11.19 日曜美術館にて 
「漱石先生 この絵はお嫌いですか ~孤高の画家 木島櫻谷~」より

 

現在行われている京都文化博物館「木島櫻谷」展の紹介の中で、夏目漱石《寒月》について酷評をしたことについて取り上げられていました。

漱石朝日新聞の記者時代に文展一等を受賞した作品に対して次のような論評をしたそう。

「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」

漱石はどのように否定したのかと興味を持っていたのですが、背景が夜なのにキツネの目が昼。その矛盾をついているようなのですが、絵というものはそういうものなんじゃないのかなぁ? 何でそんなことを言ったんだろう・・・ と思いながら聞いていました。

ただ、私もそうした矛盾をみつけたとき、それが画家の世界観というものだと理解できる時と、それは分かっていても、どうしても許せないと感じる時があるということを経験してきました。(ミケランジェロの肉体など) 

そのため、漱石にとっては、夜なのにキツネの目が昼の状態という矛盾をどうしても許容できなかったんだろうな‥‥と理解しました。(例えば、漱石は動物学にも長けていて生態的に絶対にありえない! と思ってしまうと、許容できなくなるみたいな・・・)

一方、漱石は作家という立場で酷評をしたと思っていたのですが、朝日新聞の記者時代の論評の中でのことだったということに、(⇒のちに新聞記者と作家活動は、同時進行であったことが判明)漱石の気概のようなものを感じました。文展一等賞(⇒一等賞でなく二等賞。実質第一席)という、権威が認めたものでも、それを酷評ができる自信のようなものを感じました。誰がなんと言おうと自分は認めん! 美術展の記事の多くが横並びと感じることが多い中で、この時代のジャーナリズムのようなものを感じたのでした。

漱石の真意はどういうことだったのだろう‥‥ と考えていたところに、漱石の研究者でもあるお孫さんがインタビューを受けて語られました。まずは、あまりにひどすぎる物言いだったとお詫びをされたことが印象的でした。そして身内だからこそ漱石の心の内が読めるのかも…と感じさせられる考察をされていました。

漱石の苦悩が読み取れると。明治に入り、西洋の影響を受けながら、自分たちの絵を求めて苦悩する画家。そこには矛盾をはらみ、身もだえしている居心地のわるさがある。それはとりもなおさず、自分のかかえる近代の矛盾と同じで、自分の姿を見るような気持ち悪さだったのでは・・・と。(⇒同族嫌悪のようなもの?)

よく親が、子供の行動を見て自分の悪い部分がそのまま受け継がれていて、いやになる感覚と同じでしょうか?

今の時代から明治の夜明けを見て、その時代がどういう時代かを傍観的に見るのと、その時代に投げ込まれた当事者として中から見る視線の違い。さすが、血を受けたお孫さんの考察に思えました。

これまで、漱石の言葉をどのように解釈されてきたのか、興味深くなってきました。

 

日曜美術館 アンコール

3月11日にアンコール放送があるようです。友人にもそのことを話しながら、お孫さんが登場されて、謝られていたという話をしていました。「お孫さんは何をされている方なの?」という質問に「漱石の研究者」って言ってたような。そんな会話をしたあとに、こんな情報を目にしたのでした。

僕の紹介ナレーションで「漱石研究の第一人者でもある」などという、知ってる人間にとっては一体何の必要があってこんな大嘘をつくのか理解のできない箇所があったので、それは指摘しておきます。ほんと、迷惑な話です。

 

漱石の研究者らしいですよ」と話した直後だっただけに、放送後、どんな方なのだろう、どんな研究してるのかしら? とよぎりながら、ちゃんと調べなかったことが悔やまれました。

 

夏目房之介氏プロフィール

「マンガ・アニメーション芸術批評研究/芸術文化論演習」の分野を担当。マンガ表現論という研究領域を開拓しつつ、マスメディアでのマンガの啓蒙活動や海外への日本マンガの紹介なども行ってきました。『マンガはなぜ面白いのか』『手塚治虫の冒険』など20冊近いマンガ研究・評論の本も書いており、この大学院ではそうした成果を<マンガ学>という体系へ統合する作業に進みたいと思います。1999年、手塚治虫文化賞受賞。 

出典:夏目 房之介 教授/教員紹介:学習院大学 身体表象文化学専攻より

 

日美といえども、OAされるのは一つの言説にすぎず、見る人の興味をさそうものが取り上げられたりしているのだろうとは思っていたし、映像も伝えたい意図に沿って強調されて撮影されていると思っていましたが、まさかゲストのプロフィール、しかもちょっと調べればわかるようなことまで変えてしまうということにはちょっとびっくり。アンコールのOAではカットされるらしいです。インタビューされた内容も、編集が絡むものはたとえ本人が言ったこでもそのまま鵜呑みにしてはいけない。

 

 

漱石は否定したけども…

漱石がどのように否定したのかがわかりました。しかしその言葉の真意は? 言葉、そのものだけでない何かを含んでいる可能性は、十分あります。また、この絵を見た人は漱石の酷評をどうとらえたのでしょうか‥‥探ってみたのですが、漱石に同意する人というのをまず、目にしませんでした。ほとんどがこの屏風に何かを感じて素晴らしい作品と思っています。(参考: 木島櫻谷ー京都日本画の俊英 @泉屋博古館分館 : Art & Bell by Tora

 

漱石の心の奥にあるものはいったい‥‥?

 

 

■西洋絵画の洗礼を留学中に受ける

漱石はロンドンに留学をしていて西洋の文化、そして絵画にも触れていたことは、南方熊楠を調べていた延長にありました。熊楠がタフにイギリス留学を謳歌していたのに対し、漱石はウツ状態になっていたそう。西洋の文化に打ちのめされてしまったとか? あるいは、東洋人への偏見にやりきれなくなったとか? しかし、ロンドン留学中に美術館に出向き、当時の西洋美術をリアルタイムで体得して帰ってきました。そんな自負もあり、思うところがあったのかもしれません。

 

 

夏目漱石は芸術にも深い造詣があったということで、漱石「文学と芸術」からとらえる展示が行われていたようです。2013年 東京芸術大学美術館『夏目漱石の美術世界展』です。ここで《寒月》も出典されていたそうです。

 

漱石の歩みをちょっと調べてみました。

 

漱石の簡単プロフィール

1867年(0) 生まれ(漱石は、江戸時代に生まれていた! 南方熊楠と同じ) 

1890年(23) 帝国大学英文学科 正岡子規と同級

1895年(28) 松山で中学教師

1896年(29) 熊本で高校教授

1900年(33) イギリス留学 

          *南方熊楠(1895年大英博物館 東洋図書目録編纂係

               (1900年帰国) 

             同級生の漱石は熊楠と入れ替わるように留学

1902年(35) 帰国後 帝国大学講師 のかたわら小説

1907年(40) 朝日新聞社入社  小説執筆

        *新聞記者のあと、作家活動をしたのかと思っていましたが、
           同時進行だったことがわかりました。

1910年(43) 胃潰瘍 大量出血 痔

1912年(45) 痔の手術  櫻谷作品 酷評

 

酷評した時期、体調をかなり崩していたようです。そうした肉体的、精神的な影響もあったのでしょうか?

 

 

■寒月がこれまで出展されたのは‥‥

2013年 東京藝術大学大学美術館で開催されている「夏目漱石の美術世界展」

2013年 泉屋博古館本館 「木島櫻谷 京都日本画の俊英」展
2014年 泉屋博古館分館 「木島櫻谷 ─ 京都日本画の俊英 ─」

2017年 泉屋博古館  「生誕140年記念特別展 木島櫻谷  -近代動物画の冒険」
2018年 泉屋博古館分館「木島櫻谷 PartⅠ 近代動物画の冒険」

 

住友のコレクションには櫻谷作品があります。その関係から、櫻谷作品の調査依頼を受けました。その、ご報告を兼ね、没後75年、2014年に、とりあえずといった感じで展示をしたそうです。すると、予想外の反響が寄せられました。各方面から、うちにもあるとこれまで知られていなかった20代の作品などが、あちこちからあつまってきたそう。

それら新作を交えながら、昨年そして今年の展示に至りました。京都の本館展示は、日美での紹介もあり、人出も多かったようです。

 

 

■同時代の画家や作家 

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・1892年 (16)  今尾景年に弟子入り  16歳

・1897年頃(20代) 京都画壇の巨人・竹内栖鳳の次代のエースとして

・1902年頃(20代半)浅井忠の影響を受け、西洋画の要素を取り入れる

・1909年 (32)  菱田春草の《落葉》の影響   

・1911年 (34)  菱田春草

・1911年 (34)  文展5回出品 横山大観《山路》(*1)の影響で群青を焼く

・1912年 (35)  文展6回 横山大観と今尾景年の対立 夏目漱石の酷評

 

(*1)《山路》

 《山路》

出典:展覧会の構成|生誕150年 横山大観展|東京国立近代美術館
2018年4月13日(金)〜5月27日(日)

ザラザラした新岩絵具を油絵のタッチのように使った手法が新しい。とぼけたような人物は「大正」の大観風だ

 

 

 

■画壇の派閥?

第6回文展の選出にあたっては、横山大観と、櫻谷の師匠、 今尾景年との対立もあったようです。大観が折れる形で、今尾景年が推した櫻谷が受賞したそう。画壇を生き抜くための派閥や駆け引きのようなものもあったのでしょうか? 新たな時代の絵画の創出に、いろいろなところでぶつかり合いがあった時代の潮流が伺えます。


⇒参考 

図録:木島櫻谷 近代動物画の冒険 「画三昧への道、ふたたび」(p10)より
師匠と安田靫彦推す大観との衝突。これは根強い東西画壇の軋轢がありました。

 

派閥ということではなく、新興勢力ともいえる東京画壇に対する、京都の意地(?)のようなもの? また、大観の絵が好みだったという漱石。この二人も1歳違いの同年代。同じ時代の過渡期に生まれたという仲間意識もあるのではなかと思ってしましました。

 

以上のような時代背景と、それをとりまく人たちなどを考えながら、漱石の言葉の意味や、櫻谷の創作活動を見ていくことに‥‥

 

 

■それぞれの考察が面白い

単純に漱石に見る目がなかっただけのこと。という話もあれば、《寒月》というタイトルが、漱石の作品に登場する人物と同じだから…とか

なぜなら、「寒月」というタイトルは、
誰もが知る「吾輩は猫」に登場するあの有名な人物、
水島寒月くんと同じ名前だからだ。

   出典:木島櫻谷と漱石 | 女王様のpetit diary

 

新たに、漱石のプロフィールを調べてみると、ちょうど、そのころ、胃潰瘍や痔に悩まされて手術をしていました。留学の時には、精神的にも不安定だったこともあり、体調面の悪化が、精神的な受け止め方にも影響し、あのような酷評を生んだのかも? と新たな理由も発見(笑)

 

あるいは

 

ちなみに、内覧会で漱石の酷評については、触れられていませんでした。そのことに、あれ? と思っていたのですが‥‥ 京都の「泉屋博古館」で行われた時の主催は「京都新聞」。そのため、ある推察をされているのを目にしたりしました。

 

三者三様にいろいろ想像していて、それらをウォッチして見るのも面白いです。

 

 

野地分館長にもお話を伺ってみたのですが、2014年に行われた図録に、鋭い分析があるそうです。

www.museum.or.jp

 

内容の要約がこちらで書かれていました。

ameblo.jp

 

日美の「漱石先生 この絵はお嫌いですか?」というタイトルは、野地分館長が、学芸課長時代に書かれた論文のタイトル漱石先生、そんなに櫻谷の絵はお嫌いですか?」から来ていることが判明。日美のタイトルのつけ方が、あざといという声も耳にしましたが、いろいろ手繰ってみると新たなことが見えてきます。

 

参考:「木島櫻谷展」 泉屋博古館分館 - はろるど

 

 

■木島櫻谷 情報探し(2018.3.2)

「木島櫻谷」の情報を探すにあたって、wikipedhiaに、情報がありませんでした。長らく忘れられた画家だったから? それにしても、wikiphedhia にすら取り上げられていないというのは、ちょっとどうなんだろう‥‥と思うところがありました。(自分の中で、まずは、wikipedhia にとりあげられていることが、最低限の世間一般の認知度を示す指標ととらえていたので、そこにも載っていない情報は、信用するべからず とういう判断をしていたので)

 

すると、登録が「木島桜谷」になっていたのでした。

(こんなことで、ひっかからないということがあるんだ‥‥)

 

なぜ、漱石が酷評したのか (wikiphedhiaより)

漱石が辛い評価をした理由は不明だが、「写真屋の背景」という言い方から、留学時代泰西の名画を多く見てきた漱石にとって、桜谷の絵は西洋絵画的写実を取り入れたことによって生じる日本画らしさの欠如や矛盾、わざとらしさが鼻についたのが理由とも考えられる。当時の漱石は、絵でも書でも作為や企みが感じられるものを嫌悪する性向があり、「寒月」のような技巧を重ねた作品は、漱石の好みとは合わなかったようだ。

ここでも、漱石の好みによるものという指摘されており、技巧的に表現されたものを嫌う傾向があったようです。

 

しかし、明治30年代以降の日本画において、西洋絵画的な写実感の導入は重要な課題だった。先輩格にあたる竹内栖鳳が先鞭をつけ、桜谷の制作も同じ方向性の上に成り立っている。桜谷は「寒月」において、横山大観の《山路》(永青文庫蔵、前年の第5回文展出品作)の影響を受け[12]、竹林の濃青色を描くのに高価な群青敢えて焼いて用いたり、当時新たに開発された荒い粒子をもった人造岩絵具を用い[13][14]、巧みな付立て技法で明暗・濃淡に微妙に変化をつける事で、日本画でありながらザラザラとした物質感を感じさせる油絵のようなマティエール(絵肌)と、劇的なリアリティの表出に成功している[3]。 

新しい文化が入ってくる時の、保守と革新のぶつかり合い。美術界では新たな方向の模索が始まる。一方、門外漢ながらも、美術には造詣が深いと自負する文豪が考える日本とは‥‥ そのぶつかり合いがもたらしたようです。

 

 

野地耕一郎漱石先生、そんなに櫻谷の絵は嫌いですか? ─明治後期の日本画における写実と色彩をめぐって」(泉屋(2013)、pp.88-91)より

明治40年1907年文展の第1回から第6回まで、二等賞4回・三等賞2回と連続受賞し(この頃の文展では一等賞は空席)、早熟の天才という印象を与えた。その理由として、桜谷自身の画才の他に、その作風が展覧会の時代にうまく適合していたからとも考えられる。各種展覧会が西洋建築による大空間で頻繁に開かれるようになると、多くの観者が一度に見られる画面の要求が高まった。更に文展になると、応募作に大きさの制限はなかったため、画家たちは出来るだけ大きな画面で制作する必要を感じ、伝統的な屏風絵に注目する。そうした中で桜谷は、左右を対として描かれることが多い屏風絵を、連続する一つの絵画空間として捉え直し、幅広な横長の画面を動勢感のある充実した構図によってパノラマミックに描き出した[3]

 

会場が広くなり、屏風も広げて展示されるようになったと実方学芸課長より伺っていました。屏風を一枚の巨大絵画として展示するということが、時代の要請にあっていたということがわかりました。

漱石の「屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」というのは、ある意味、的確な判断だったとも言えるように思えてきました。

 

 

また、これだけの画家がなぜ、忘れられてしまったのか・・・といことについても不思議に思っていたのですが、

 

wikiphedhiaによれば

竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ華々しく注目される作家となったが、それ以後は師景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはなかった。ただ、、絵の依頼は引きも切らず、制作数も多かったようだ。

 

文展における大観vs景年 それがずっとあとを引き、実力ある弟子を推すことで、自らの立場を保とうとした勢力争いのようなものを感じてしまいました。

 

【欲望の美術史】宮下規久朗 「木島櫻谷」展 広い作域、卓越描写(2/2ページ) - 産経ニュースより

夏目漱石はこの作品を酷評したが、それはこうした洋画的な技巧や演出を嫌ったためであろう。漱石の批評眼が乏しかったといわざるをえない。櫻谷は以後も文展や帝展に出品し続け、住友家などの庇護(ひご)を受けて京都でもっとも有力な日本画家となった。だが、「寒月」を超える作品はついに生み出すことができなかったように思われる。

 

参考:慎慮と洞察 » 木島桜谷

 

時流に乗って「名を遺す」ということは、実力だけではない、いろいろな要素が絡んでいることが見えてきます。当初、これだけの実力がありながらなぜ、忘れられてしまったのか‥‥ 実際には、華々しい受賞歴があり、時代の寵児だったわけです。

 

当初、体制に反発したからだと思っていました。ところが、師匠の過剰な推しが、孤立させたという違う側面を知りました。櫻谷自身は、主流派の波に乗ることは二の次で、自らの世界を構築しようとした人だったように感じられます。

 

また、京都の人々は、〇〇展、受賞など関係なく、自分がいいと思うものをコレクションするという真贋を持った人たちだということも‥‥  「いいか、悪いか」「好きか嫌いか」は、見る人の主観にすぎないということのようです。