コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■ファーストインプレッションは変化するのか?(自分用の覚書)

今年は明治から150年。明治という時代に生まれた偉人の150年イベントがいろいろ行われています。日本画壇で大家と言われ、その名を誰もが知る画家もちょうど、150周年記念ということで、最初の皮きりの展覧会にでかけました。

 

 

■有名な富士の絵に心が動かない 

富士の絵で有名な画家。その絵は、心だといいます。しかし、初めて見た時、私にはそれを感じられませんでした。私の感性が鈍いからなのか。鑑賞体験が少ないからなのか。あるいは心が歪んでるからなのか?(笑) 

あれから2年がたちました。150周年の今年、大家の描いた富士山に心は響いてくるのでしょうか? 

 

 

■心動かされる冨士もあった

《蓬莱山》

『日本美術と高島屋』より

飯田直次郎とは意気投合。
戦後初の院展と、再興院展髙島屋の地下食堂で開催
疲弊した時代に美術の復興を目指して奔走した大観にとって
高島屋の協力は心に響くものがあったようで、
その恩義に報いようと自らが手掛けて贈ったのが本作品。

 

富士は、量産のためのワンパターン画。構図や画風のチャレンジもなく、求められるままに描いていた。

「自分から進んでいつも富士山ばかり描いているわけではない。
 富士山、富士山と周囲が持ち込んで来るから」

そんな言葉も発せられており、創意工夫のない富士。というのが私の中の認識になっていました。

しかし、しかるべき場面では、ちゃんと描いていた。
義理堅い人物で、恩義に対してはきちんと返した人
描こうと思えば描くことができた人
そんな認識に一転させられたのでした。

 

若い頃の作品は、心うごかされるものがある。晩年は惰性で描いていたけど、でも中には心を込めて描いた作品もあってそういうものは、何かを感じさせてくれるということがわかりました。

 

 

■大御所とパトロンの関係

お世話なったところへの恩義は忘れない。全力で作品を仕上げる‥‥ と感じていたので、晩年の作品でもいいと思える作品があるはずという期待が‥‥ 

また高島屋との関係が強かったことを知りました。〇〇美術館の初代、〇〇との関係が強いと聞いていましたが、それだけではなかった。他にもお世話した人たちはいる。関係性を持ったところは、自分たちとの関係で語るので、そこだけのような印象を受けてしまうのですが、そういうわけではない。今回の展示では、三越との関係がクローズアップされていました。

展示する側というのは、みんな自分との関係をアピールしたいものなんだということを悟った(笑) しかし、画家側にしてみたら、いろんなところと上手に付き合って援助を受けている。やっぱり立ち回りがうまい‥‥って)

 

 

■大家の絵はうまいのか?

「2018年絶対に見逃せない美術展 日経おとなのOFF」 を購入しました。

そこで日本画の大家、実はちょっと下手だった!? という特集が組まれていました。やっぱり‥‥ 意を得たり!でした。手足のバランスがわるかったり、陰影のつけ方が未熟だったり。デッサンなんて描いたことがないと言います。

 

ところが地位、名声、大家としてのポジションが確固たるものになってきた昭和になると、その名に恥じないものを描こうという意識が出てきたのかもとのこと。(ということは、それまでは????)

 

昭和の代表作として紹介されていたのが《夜桜》《紅葉》が今度、近代美術館で展示されるらしい。あと気になっていた《生々流転》も‥‥ これを見ずしては語れない?

 

 

■初の一挙大公開

日本画壇の重鎮、生前、親しく交流し多くの作品を所蔵する美術館が所有する作品すべてを 開館以来、初の一挙公開との触れ込み。これはぜひ、見たいと思っていました。

 

始めて作品を観たのもこちらの美術館。その時は、全然、私には響かないと思いました。しかし、その時に展示されていた若い時(53歳)の「竹」という作品にはとても興味を抱きその奥深さに感じ入っていました。

『「竹」 屏風という特徴が生かされた構図の妙 』

 

年を重ねた作品でなく若い時の作品に心惹かれてしまうことに不思議を感じていたのですが、その後、画家についていろいろ調べて、その理由も見えてきました。

 

晩年よりも若い時の方が気概ある作品を作っていた‥‥ 

 

私には次第にそんな風に見える画家となっていきました。今回、全作品一挙公開というので、画業の全貌を見ることができる、いい機会だと思いました。生涯を通じて、どのように変化したのか。本当に若い時の作品の方がよくて、晩年は‥‥ なのか確認ができると。

 

 

■初期作品 《無我》

ちなみに東博で、若い時の作品が展示されています。

タイトルは《無我》 明治30年(1897)御年29歳

正直に言って、よくわかりません。これのどこが無我なのか‥‥? 無我って何? 無我の境地とかいうけれど‥‥ この作品に無我を感じない。

枝は無造作にいっぱい伸びてるし、だらりと垂れた肩も人の描写としてどうなんだろう‥‥と思ってしまうし。解説はありませんでした。

 

足立美術館の解説には

まるで誕生仏を思わせる豊かな頬の童子が川辺にたたずんでいる。「無我」すなわち禅的な悟りの境地を、無心の童子によって表現したもの。この斬新な発想は、いかにも29歳の気鋭の青年画家横山大観にふさわしい。

 

誕生仏? 全然、そんなふうに見えないんですけど‥‥ この作品については、藝大生によるレクチャーがありました。ぜひお話、伺いたいと思っていたのですが、都合がつかず参加できませんでした。

 

若い時の作品なら、何か感じるものがありそう‥‥と思っていたのですが、そういうわけではないとこれを見て思ってしまいました。

 

◆無我 wikipedhiaより

無我(むが、anattā, アナッター、अनात्मन, anātman, アナートマン, nir-ātman, ニル・アートマン)は、あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないという意味の仏教用語[1][2]非我とも訳される[2]。無我は仏教の根本教条であり、三法印四法印の1つ[1][2]

とは、永遠に変化せず(常)・独立的に自存し(一)・中心的な所有主として(主)・支配能力がある(宰)と考えられる実在を意味するが、全てのものにはこのような我がなく、全てのものはこのような我ではないと説くのを諸法無我という[2]

 

どうやら、童子の無邪気なな無心の姿に「無我」を見ているようです。この姿、表情が無邪気? この心境が無我? やっぱりよくわかりません。

 

Yahoo知恵袋には次のようなことが書かれています。

無我とは悟りの境地ですよね。
彼はそれを無邪気な子供にたとえているのです。
「余計なことはいらないよ」と言うことではないでしょうか。
ちなみに、明治維新から始まる廃仏毀釈の風潮の中、廃っていた日本の絵画、やまと絵や和画等と言う様々な流派をフェノロサの語った「Japanese painting」を「日本画」と造語し西洋画に対するジャンルとしてまとめあげた岡倉天心東京美術学校学長、評論家)に答えるかのごとく一期生として新しい「日本画」というジャンルを拓いた大観の出世作です。当時は藝大にはまだ、西洋画はありませんでした。
「無我」とは仏教用語で「諸法無我」、世の無常に己の存在を否定する意がありますが、大観はそれを幼児の天真爛漫の姿になぞらえました。現代風に言うとポニーテールのようなくわい頭の童子奈良時代の夾纈(キョウケチ:古代染めの一種)の袍(ほう)をダブダブにまとい、大人の草履を引きずっています。また、あどけない顔はどこを見るでもなく、殆ど呆然と彼方を見つめています。明治30年春、日本絵画協会第2回共進会に出品され銅賞牌受賞の折、報知新聞に「無我は無我にあらず大いに野心を筆致に存するに似たり」と、その発想の妙を称えた記事を掲載したと言われています。植民地支配で列強がうごめく中、実にあどけなく魅力的でかつ懐の深い「無我」だと思います。
ちなみに「無我」は3つあります。どれが良いとは言えませんが推敲した結果現存する3枚なのでしょう。

 

右手は出ているのに、左手は出ていないないのは何か意味があるのか。

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▼草履のサイズがあっていないのですが‥‥

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▼この枝ぶりがどうも気になります

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⇒この木はネコヤナギであることが判明。それで納得。
 どうもラベンダーの穂のように見えてしまって何の木を表しているのだろうと思っていました。

 「無我」は、猫柳のある川辺を背景に、おちょぼ髪の村童が広袖のゆったりとした着物をしどけなく着、ぼんやりと立っている、というただそれだけの絵である。題名から見て、大観は文学的なものを狙ったに違いないが、そこには「無我」というほどのものものしさは別にない。どこの村でも見られる幼児、あどけない幼児が描かれているだけのことであって、そこに却って今までにない新しさがあった。》(『大観伝』)

出典:西から観た横山大観(2) - てつりう美術随想録

 

▼無我の表情?

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子供の天真爛漫さ? 純真無垢? う~ん‥‥

 

これを描いた時代背景による評価ということでしょうか? 明治に入り西洋化の波が押し寄せる中、過去に踏襲されず禅の世界の《無我》という境地を、手本なしに自分のオリジナルとして表現した。描き手が無我の境地になって‥‥ 無我とは何も考えていないようなぼ~っとした状態? 「欲」や「てらい」のない子供の茫洋とした視線。うつろにも見える状態が無我? 今一つ、納得できる解説がみつかりません。どこがどう素晴らしいのかを知りたい‥‥ 巨匠の若かりし日の作品というだけで、ありがたがっている感じ。

 

子供らしさとは何も考えずに無邪気にはしゃぐというのが一般的イメージ。それを崩して新たなイメージを作ったことが革新的? 子供って実は悪魔(残酷)・・・ というとらえ方があるとどこかで聞いたことがあります。表面的な一般的イメージの子供らしさではなく、子供の中に内包されている一面が、無意識の状態、意図せず表出してしまった状態? 子供も大人の受けを狙って、子供らしさを演出していると言います。そうした子供の取り繕いを剥いだ底にある姿。それが新しい象徴的なイメージを作ったということなのか‥‥

 

参考: このような解釈もありました

虚飾をとっぱらった、むき出しのままの人物像がなすこともなく立ち尽くす『無我』は、人間のもつ辛さや悲しさといったものを無意識にあらわしているように、ぼくには思えるのである。

 私も、あれこれ考えるうちに、これに近いものを感じさせられました。

 

 

《無我》という作品、3作品あるようです。


 

【追記】2018.02.20 解説を撮影したカットがみつかりました

 

老荘思想に発し、禅の境地としての根源的な命題である「無」の絵画化、あるいは擬人化がこの作品のテーマとされる。日本の季節感のなかに「無」の理想を描こうとした大観の着想は、過去の人物画に直接的な手本を探せない、新しい絵画の創造につながった。

 

「無」という表現できない世界を、絵画で表わそうとしたこと。それを子供というフィルターを通して描こうとしたこと。なた日本ならではと言われる自然とともに生きる上で季節感というものを背景に、無を描くということ。ネコヤナギの勢いのよい芽吹きは「無」に対する対比だったのかも。そんな着想は、これまで日本の文化が、中国などを手本にしながら、あらゆるものを描いてきた歴史の中で、手本なしに独創的に描いたということが価値なのだということが見えてきました。

(松林図屏風が、水墨画の最高峰と言われるのと似ている気がしました。歴史的位置づけの中でどういう作品なのか‥‥)

  ⇒〇なぜ《松林図屏風》が日本画の最高峰なのか

 

▲ なにもない「無」の部分で何かを表現しているのか・・・・ 個人的にいろいろな絵師の「何も書かれていない部分をいかに表現しているか」について着目してきた経緯があり、その延長で、この画家の空間表現にはどんな特徴があるのかな? と思って撮影した一枚。このあとの朦朧体につながる芽はある?

 

 

【追記】2018.04.24 《無我》の解釈 関連情報

 

 

 

 

■こんな作品も作ってた?!

今回の展示作品を見るにあたっては、タイトルや制作年を見ずに、自分にとって「いいと思えるかどうかどうか」を見てから、いつ制作されたのかを確認してみることにしました。

 

へ~、こんな作品も作っていたんだ‥‥ と最初の作品群で思うものが多くて、作品名を見たら、「橋本雅邦」。

 

これはさすがに違うわよねと思ったのは春草。

 

この竹はいいな。あの竹に通じる? と思った「下山観山」

 

「木村武山」と制作者が違っていました。一章は、日本画の開拓者ということで、大家の師匠や仲間の絵が展示されていていたのでした。

 

 

 

 

■撮影可能な作品

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▼草を刈って家路につく農夫

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草の表現‥‥    ↑

 

こっちの草も‥‥  ↓

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▼主人の帰りの足音に耳をそば建てる馬

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こうしてみると馬だとわかるのですが、遠目で見たら、頭がどっちかよくわかりませんでした。この馬の脚の表現ってどうなんだろう? 体と脚の位置とか、関節の曲がり方とか‥‥ 基礎があっての崩しには、私には思えないのでした。

 

▼木の葉の自由なタッチは南画を思わせる・・・・ 
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葉の表現は見ていて面白いと思いました。 
「洋」を感じさせる葉。描き方のバリエーションも見られます。

 

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▲濃淡やフォルムなどバリエーションを感じさせられます

 

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▲細かい描写ですが、私には繊細さを感じられませんでした。でも、ポイント的に濃い色とインパクとのある形を持ってきた葉は面白いです。 

 

東博でみたこの屏風のグリーンの葉とどことなくタッチが似ているような気がします。

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これを見た時も、あの巨匠の作品なのか‥‥って思った記憶があります。

 

            ↑

そういえばこの松、今回、展示されていた《陶淵明》という作品の松と似てるかも‥‥

 

 

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葉の描き方の細部 濃淡で奥行きを表現

 

 

▼絹の裏から金箔を貼り付ける裏箔

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この技法、《竹》でも使われています。裏から金箔が貼られている様子がわかるかなと寄ってみましたが、イマイチよくわかりません。金箔が貼ってあるとわかって見ていても????  

《竹》という作品でその手法を見た時は結構、感動ものだったのですが‥‥ すでにこの手法を知ってしまっていること。これもそうかな?と思ったこと。そして、この手法が大観のオリジナルだと当初思っていたのですが、その後、若冲がそれと同じことをしていたことを知って、なんだ・・・既存の手法だったのか‥‥と思ってしまったこともあり、金箔張りだって言われても、そうなのねとしか思えなくなってました。

 

 

裏箔の違いによる奥行き感

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金箔貼りをしていないことによる奥行きの変化? 深み? 

 

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                       ↑

白く抜けた部分は金箔なし? それによる奥行きに深みが出てる?

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         ↑             ↑

     このあたりも‥‥

 

 

■《竹》の最初の感動が薄れる

同じ裏箔された《竹》  これは若い時の作品だから、なかなかいい・・・って最初に見た時に思た作品。

 

『「竹」 屏風という特徴が生かされた構図の妙 』

 

始めて観た時に、あれこれ自分で読み解いてしまったので、既知となってしまい、それ以上のものを感じることができませんでした。時を経てみることで、また別の解釈や見方が出てきて、作品に対する深まりを感じることができると思っていたのですが、大家の絵といえども、絵画鑑賞というのは、必ずしもそうではないということがわかりました。

 

ただ、中央で中座をしてみた時に、笹がおおいかぶさるように迫ってきたのは斬新でした。(と思ったら最初に見た時にも、同じこと書いてありました。)

 

(続)

 

陶淵明

最初、なんだかわかりませんでしたが、右隻から見たら、陶淵明の視線と景色がかさなりました。