コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■茶の湯:会期は明日まで 今、楽焼を振り返えってみると

特別展「茶の湯」が明日までとなりました。「曜変天目茶碗」だけ見ておけばいいや・・・と思ったのですが、たまたま遭遇した楽焼。本当に何も知らずに見た時の感想を記事にしておこと思いながら今になってしまいました。

 

 

 

 

とりあえず、最初に感じたことだけメモしておこと書きとどめていたのがこれ⇒ ■(2017/04/16)  /  [04/15] 東京国立博物館:特別展『茶の湯』

 

今となっては、随分、印象が変わってます。作品についての情報も入ってきたし、茶の湯のことも少しだけ知ったり。ファーストインプレションは大事。その感覚は、そのあとの情報の積み重ねでどんどん変化してしまいうずもれてしまいます。忘れないように引き上げつつ、今感じていることを記録

 

 

■長次郎 《無一物》 

〇なにやら意味ありげなネーミング

その名を見たのは、曜変天目騒動でその関係のtwitterを見ていた時でした。近代美術館の「茶碗の中の宇宙」展で《無一物》が見られるのは(3月14日から)4月2日までという話が・・・

なんだその名前は? 意味ありげなネーミング。その世界では有名な茶碗のようです。それって何者なんでしょう? 名前からして、なんだか究極の茶碗のようです。よし、見に行ってみよう! と思っているうちに、その展示期間を過ぎていました。

 

〇思いもかけないめぐりあわせ

ところが、その後、東京国立博物館の「茶の湯に行ってみれば、《無一物》が展示されているじゃないですか・・・ なんだ・・・ ここにもあるじゃない。同じ名前のシリーズなのかな? 貴重なものみたいに言われていたけど、同じものがいくつか作られているということ? 

光琳の《紅白梅図屏風》のことを思い出しました。借りてきたものなのに版画の複製なの? と思ってたこと。そんな経験もあるから、これは巡回しているんだ・・・と想像はすぐにできるわけですが・・・・

東博茶の湯展に訪れたのは4月16日でした。4月2日まで、近代美術館にあったものが、今、ここにある! いつからお目見えしたのでしょう? 茶の湯展が始まった4月11日からあったようです。近代美術館から東博への移動、中1週間。その間、ホームには帰ることなく、搬入搬出のチェックやメンテなどを受けていたのでしょうか?

今、知ったのですが、《無一物》の展示は4月11日~5月7日まで、《曜変天目茶碗》と同じだったようです。いいタイミングで訪れることができ、お目にかかることができました。

 

〇どこの所蔵?

会場にいた方と立ち話になり、なんでも地方の小さな美術館に所有されていて、あまり外に貸し出すことのない茶碗らしいのです。その美術館にとっては、この作品が目玉なので、外に貸し出してしまうと、来館者の期待を裏切ってしまうらしいという話でした。なかなか行くことができないようなところらしく見る機会が少ない作品らしいです。

調べてみたら、/// 公益財団法人 頴川美術館 /// (えがわ美術館) 兵庫の六甲の方の美術館のようです。本当に民家のようなこじんまりとした美術館のようです。

 

〇無一物を見る茶会

なかなかお目にかかれない《無一物》らしいのですが、年に1回、見ることができる機会があるという話を教えていただきました。特別な茶会が催されているらしく、懐石料理を食べながらこのお茶碗を見るらしいのです。へ~と思いながら調べてみると、無一物を観る茶会のご案内 | 京懐石 柿傳 これのようです。どうやらそこにも参加されているような口ぶりでした。実際の茶碗を何度か目にされていらっしゃるようです。

 

〇初見の感想

今の私にはその価値がわかりませんでした。

 

たった、一言、それだけ、簡単メモのに残してありました。

 

〇無一物ってなんだ?

その後、近代美術館で楽茶碗を見ました。2度目になると、見方はすこしだけですが変わります。茶碗がどんなものなのか、なんとなくとらえ方も変化しています。

先日、横浜美術館の情報センターに立ち寄った時に、「茶碗の中の宇宙」の図録があったので、《無一物》を始めとする気になる部分を見てきました。

 

 

〇《無一物》の解説

すべてをそぎ落とし「塵」すなわち自然、宇宙の根幹と一つになるというもの 誇張、変化、装飾、情緒あど表現についてもそぎおとした指向性は簡素化の抽象表現。ミニマルアートの現代に通じる 

 

よくわからないが、そぎ落として残ったものという意味だろうか・・・・

 

〇改めて・・・・

 《無一物》 その意味がわかるようなわからないような・・・ 唯一無二の存在? 

 

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出典:asahi.com : 赤と黒の芸術「楽茶碗」  - 小野公久「やきものガイド」

 

◆無一物 (むいちぶつ むいちもつ)・・・両方の読み方があるらしい

  1. むいちぶつ【無一物】の意味 - goo国語辞書より

  2. 何もないこと。何も持っていないこと。むいちもつ。「戦争で無一物になった」

     

禅語「本来無一物」: 臨済・黄檗 禅の公式サイトより

 「本来無一物」という語は、(略)普通には、「もともと何も無い」というように理解されやすい。
 しかしこの「本来」という語は、もともとという意味ではなく、「本質的に」とか、「根源的に」ということである。また「無一物」は何も無いということではない。
 禅宗で言う「無」は大乗仏教の説く「真空」の中国版で、有と無の両方を超えた次元を意味しているのである。したがって「本来無一物」もまた、有も無もそこから出てくるような「根源」をいうのである。

(略)

 清も濁も同じ「空」の現われであるから、両者は同じ価値である。それを差別することが迷いである。「悟りは迷いの道に咲く花である」という句は、それを言うのであろう。

 

禅が元になているとまた解釈は変わってくるのかも・・・

 

〇本質って何? 

そぎ落とされて無となった姿が「無一物」 しかし、その無の状態というのは禅の世界では、有も無も同じらしい。そして「本来」という言葉は「もともと」という意味ではなく「本質的に」「根元的に」という意味だと言います。

どこの世界でも、「本質」「本質」という言葉が使われます。じゃあ、禅における「本質」っていったい何? と問いたくなります。私には私が考える「本質」があります。でも、それと禅における「本質」とは違う気がします。

 

〇《無一物》の本質の姿

よくわからないけども、いろんなものがそぎ落とされて最後に残ったものだという理解のもと、この茶碗の姿が、何かの(茶の湯の?)本質を表していることになります。ということは、その形、質感、醸し出すものから、茶の湯の本質とは何か・・・を読み取ろうと考えるわけです。 

しかし、それは、この茶碗の名前が《無一物》と名付けられたからそのように考えてしまうわけで、もし初代長次郎が制作した《太郎坊》という名前だったとしたら、その名前だったとしても、この茶碗から本質を読み取ることができるのでしょうか?

あるいは、《太郎坊》の名前が《無一物》と名づけられていたとしたら・・・ この茶碗が本質ということになり、そこから本質を読み取ろうとします。「本質とは何か・・・」と考える時、これが本質ですというネーミングがされていたら、それによって決まってしまうということにならないか・・・・という疑問を持ってしまいました。

たとえが可笑しいですが、これから、「〇〇の物まねをします」と言って物まねをはじめられたら、あまり似ていなくても、その人に聞こえてしまうのに似ているような(笑)

《無一物》という名前から、そこにあるものを見て本質を見出そうとしてしまう・・・・ 見たものをこじつけていくような気がするのです。

 

〇ネーミングによらない本質

 もし、《無一物》の茶碗が、《太郎坊》という名前だと仮定して・・・ この茶碗が茶の湯の本質を表しているのだとしたら、《太郎坊》という名前であったとしても、この茶碗は、「茶の湯の本質を表している」と見る者に感じさせることができるはずです。果たしてどうなのだろう・・・・と考えてしまうのでした。

 

〇命名は誰がする?

ちなみに茶碗の命名というのは、作った本人がするのか、利休がしていたのか、時の権力者だったのか・・・ 作者だとしたら、それは作者の主観であるわけだし、作成を依頼した人が名前をつけるのだとしたら、その人の価値観によって決まってしまいます。

茶の湯の茶碗の展示を見て強く感じたことは、「そもそもの茶碗の価値って何だろう・・・」って思ったことでした。時の権力者の好みによって左右されてきたということ? じゃあ真の価値って一体なに?・・・と。

 

〇言葉で誘導されていないか

 名前が《無一物》だから、そぎ落とされたもの・・・ 本質だと思わされて、納得させられてしまっていないか? ということでした。つまり、この茶碗を見て、私には本質を表しているとは思えなかったというとなのです。まだ理解に至りません。

海北友松の最晩年の作品《月下渓流図》を見た時に、《無一物》と同じだと思いました。そぎ落としてそぎ落とした先に現れたものという意味で・・・ しかしその時は《無一物》という言葉の上での理解でそのように感じました。

海北友松の《月下渓流図》はそぎ落とされた先にたどり着いた境地であり、友松の本質が表れていると思いました。でも、この《無一物》という茶碗は、そぎ落とされた結果と言われても、今の私にはそれが理解できないのです。

 

これが《無一物》です。本質です・・・・ と言われても、それをそのまま鵜呑みにはしない。自分で納得できるまで考える。納得できなければ認めない。それが私の本質だな・・・と(笑)

 

参考:《無一物》について 

赤楽茶碗 無一物 をよーくみてみる : 茶の湯とは…

『無一物』に見る・・茶碗のあるべきよう : 桃青窯696

 

茶道の本質を学びたいひとにおすすめの書籍3選

 

■長次郎《白鷺》

jp.pinterest.com

 

《無一物》の隣にあった《白鷺》  名にそぐわず無骨に感じました。茶碗は宇宙と表現されますが、これは宇宙じゃなくて地球、まさに大地そのものだと思いました。色もそうだけど。これが、《白鷺》?  どう見ても見えない・・・・これまたわかりませんでした。(笑) 

白鷺といったら、白鷺城と言われる姫路城。私のイメージは優雅、可憐・・・ でしたが、「白鷺は池の魚を食べてしまうし、可憐ではないですよ・・・」とたまたま一緒になった方から言われました。

 

茶碗の内部はさらに、地層そのもの。赤楽、黒楽ともに・・・・ 黒楽も宇宙じゃなく大地。得に赤楽は色から大地をイメージさせられます。近代美術館のタイトルは「宇宙」となっているけど、宇宙じゃない! 地球の内部でマグマがどろしていてそれが放出されて冷えて固まったもの。もともと土からできてるものだから、大地に見えるのは当たり前といえば当たり前か・・・・(笑) この層の中には、地球の歴史が埋め込まれている・・・・ 茶碗の中は、宇宙ではなくて、地球の歴史が・・・・

 

■見覚えのある軸は楽茶碗

其一の軸に描かれた茶碗の形とよく似てるものがあると思っていたのですが、これ、長次郎だったり? と思ったらまさにタイトルが正に・・・・

 

【1】白椿に楽茶碗花挟図   【2】白椿に楽茶碗図

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【1】【京都】 琳派ⅩⅠ 花の協奏曲 (細見美術館) - 大倉草紙

【2】鈴木其一(きいつ) 江戸琳派の旗手(掛軸) – 黒川孝雄の美

 

 

■正面はどこ?

〇プレートの位置と会わない?

長次郎の茶碗の正面はどこなのか。手になじむようにくぼみや切込みがあるといいます。ということは、茶碗には方向性があるということです。通常、考えられるのは、解説プレートがついている側。ところが、くぼみと手のなじみを考えると、違うような気がするのです。

 

〇正面は自由?

モノ知りげな感じの人がいて、言葉を交わす機会があったので、何人かに聞いてみました。みんなあまり気にしてない様子。「どこでも、好きなところから見ればいいのでは?って・・・ 作り手は、どこから見るかを意識して作るものだと思うし、お茶を出す時にはどこが前なのかって、意識して出すものだと思うのですが・・・・

もちやすいように手のくぼみがあるという話も、碗を取り出す時につかんだあと・・・と言われていて????状態。 お茶のたしなみのありそうな方たちだったのですが、あんまりそういうことは気にされないのかしら? 

 

 

■照明の工夫

東博の展示は会期が終わり頃なると、ブログで「そういうことだったのか・・・ 早く教えてよ!」という情報がリリースされていたりします。今回もさきほど、見てきたら照明の工夫について、次のようなお話がありました。

  

www.tnm.jp

 

展示台の下から光源をあてる特別な照明を作り、茶碗の側面や高台部分をよりよく見えるような工夫をされていたようです。(協力:デザインオフィスイオ、大光電機、株式会社マルモ)


楽茶碗の展示ケース

出典:東京国立博物館 - 1089ブログ

 

曜変天目茶碗》内部よりも外側の変化の方がはっきり見えたというは、そんな光の効果をとらえていたことになります。(当初はトップライトが床に反射して茶碗側面にあたっているのかと思っていましたが)⇒■照明について確認

 

 

■終了前にHPから情報収集

実例から見る『展覧会の公式サイトが終了後すぐ消えてしまう問題』

                       - 日毎に敵と懶惰に戦う

以前、上記のような記事が投稿されました。海北友松の展示、最終日から帰ってきて記事を書くのにHPを参考にしようとしたら、見事に翌日には消えていました。

ということで、茶の湯展の必要な情報、今の内にゲットしておこうと思いました。

 

茶人の系譜

茶の湯 ジュニアガイド

 

などは参考になりそうなので、保存したりプリントしたり・・・

 

 

 

■まとめ・感想

始めてみた東博茶の湯展。茶碗なんてどれも同じに見えて、何を見たらよいかわかりませんでしたが、わからないなりにもそれぞれ表情が違うことはわかって、面白いと思いました。しかし、その時代、時代の価値というものが、権力者によって決められていること。その中で真の価値や、本質というものをどうとらえたらいいのか・・・・

 

利休像というのもまだ見えておらず、利休が掲げるものが本質なのか・・・ 時代の要請というか、時流にうまく乗ったからとか、権力者の目にとまって相性がよかったから・・・とか。取引の場を作ったということで、勝手がよかったのだという話も耳にしたり・・・・もう少し、いろいろなものに触れていくと見えてくるものがあるのかもしれません。

 

楽茶碗は今を記しているのだそう。私も、今、楽茶碗について感じていることををここに記しておきます。 

 

 

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