コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■③出雲大社の巨大御柱「心御柱」「宇豆柱」の発掘からみえる高層神殿

2000~2001年(平成12~13)に発掘された出雲大社の巨大柱。この発見により、出雲大社が高層神殿であった可能性を高めることになりました。出雲大社内、宝物殿、古代歴史博物館の展示より、巨大柱とそれに関連する資料、高層神殿の模型など紹介します。

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■出雲から巨大御柱2件が東博へ 

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2020年は、日本書紀編纂1300年。それに合わせて、東京国立博物館で「出雲と大和」の展覧会が行われています。

なんと、出雲大社より心御柱と宇豆柱の巨大御柱が、2件そろってやってきました。両方が公開されるのは史上初とのこと。

そんな巨大御柱が東京に来る前、昨年、出雲大社で見てきました。出雲大社内、古代歴史博物館より、撮影可能な部分から紹介します。

 

 

御柱の発掘(境内内)

 2000~2001年(平成12~13)にかけて、拝殿の地下室拡張工事を行うにあたり、事前調査が行われました。その際に、境内の八足門の前から巨大柱が出土しました。鎌倉時代に建立されたと思われる本殿を支えたと考えられる巨大柱です。(調査後、御柱は取り上げられ、南棟持ち柱に相当する宇豆柱は、島根県立古代歴史博物館で公開展示しています。

 

〇発掘された時の様子

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平成12年に「八足門」前で発掘された御柱の写真

 

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発掘時の写真 境内看板

 

〇柱の配置図

中央の赤い格子が「金輪御造営差図」   御本殿の平面の図面です。

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〇本殿の想像図

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平安時代高さ48mあったとされる神殿を、大林組がCGで復元。巨大柱の発掘で、真実味を帯びました。

 

 

 

■13世紀前半の「心御柱」(於:宝物殿)

〇17年の保存処理後、宝物殿リニューアルで一般公開

出雲大社の貴重な文化財や美術品を宝物殿では展示されています。出雲大社の「平成の大遷宮」(2013年)の事業としてリニューアルされ「心御柱」が一般公開されています。

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御本殿の中心を支えていた「心御柱」が、2000~2001年に「宇豆柱」とともに発掘されました。13世紀前半の巨大な柱を、宝物館で一般公開しています。直系1.35mの杉を3本束ねて1本になっています。

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こちらのオブジェはそのイメージです。この柱構造は、高さが48mあったとされた神殿の存在を裏付けるものとなりました。心御柱は「神が宿る」とされています。出土時に現地で公開されただけで、保存処理などのため10年以上も公開されないまでした。*1) 2000年の出土から17年ぶりに一般公開されました。

 

〇3本を何で束ねる?

ところで、この3本の柱は、何で束ねていたのかという疑問を持っていました。縄だとしたら、しっかり締めることができるのでしょうか?ずれが生じてしまいそうです。縄を締める特殊な技術があったのでしょうか? 

そのあと訪れた古代歴史博物館で、鉄が使われていたことがわかりました。それは、実際にジョイントされていた鉄も発見されているとのこと。オブジェを見ると、その様子も再現されています。

出雲大社の境内に下記のような説明がされていたのですが、最初、何を意味しているのか、さっぱりわかりませんでした。宝物館を見学したことで、やっと図面であったことを理解しました。

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境内看板

宝物殿の見学で、出雲大社の理解に近づけたと思ったのですが、こちらは、撮影不可なので、すぐに記憶はおぼろげになります。

 

こちらは、古代歴史博物館にあった心御柱の案内。

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解説部分を拡大すると・・・・

3本の杉を組みにして3mの巨大柱とし、それを9本、建てたということが理解できます。

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そんな図面が「金輪御造営指図」で示されており、心御柱は、そのど真ん中の中心の柱であることがわかります。

 

 

■巨大神殿を支える「宇豆柱」(於:古代歴史博物館)

古代歴史博物館では、宇豆柱が展示されています。また、出雲大社に関する様々な資料によって、より理解を促してくれます。

出雲大社境内遺跡模型

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御心柱と宇豆柱の発掘時の様子が再現されています。 

 

発掘の様子

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古代歴史博物館展示パネル

 

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古代歴史博物館展示パネル

今回の調査で現在の本殿と発掘調査調査区で検出されたもの。

 

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 古代歴史博物館展示パネル

 

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 古代歴史博物館展示パネル

発掘調査関連

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出雲大社の八足門の前には、発掘された柱の出土地点に赤丸で印がつけられています。(再訪時に確認と思っていたのですが、失念しました)

 

 

〇巨大神殿 推定復元案

出雲大社の本殿は、古代には約48m、あるいは約96mの高層神殿だったと伝承されてきました。そこで、5人の建築学者による、鎌倉時代前半の復元模型が展示されていました。

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鎌倉時代前半の復元

 

こちらは平安時代の復元

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福山敏男氏監修、大林組とプロジェクトチームによるものです。

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古代出雲大社本殿の復元 復元 大林組プロジェクトチーム (pdf)

古代出雲大社本殿の復元 ダイジェスト版

 

柱は上記パネルの断面のように、3本を中心にしてその間に補助材を組み合わせて円柱にして復元されています。

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古代歴史博物館展示パネル

発掘された巨大柱とほぼ同じような復元がされています。

 

鎌倉時代の復元をした建築学者 

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 古代歴史博物館展示パネル
 

〇発掘された宇豆柱

2000年~2001年、出雲大社境内遺跡から発見された巨大な柱。そのうちの本殿をささえる柱で、宇豆柱(うづばしら)と呼ばれるもの。 

直径1.35mの杉を3本束ね、太さ直径3m。現在の出雲大社本殿の宇豆柱は直系0.87m。巨大さがうかがえます。

 

〇美しい年輪の秘密

年輪が美しく浮かび上がる柱は、急峻な山を思わせます。

古代の木が朽ちる時に、杉が重ねてきた月日の年輪を、このような造形美として浮かびあがらせていたこと。しかも人知れず眠り続けていたことに、神聖な何かが宿っているのを感じさせられました。

なぜこのような美しい年輪をとどめて朽ちたのかが不思議でした。

また、奇跡的に柱が残った部分がここの部分であること。境内の豊富な地下水によるとのことなのですが、朽ちてしまった部分と残った部分は、その分かれ目がなんだったのか?と思っていました。地下水に浸っていたところと、そうでないところの境界部分が、この年輪の木目となって表れたようです。

 

【追記】2020.02.27 

この年輪、妙に気になっていました。年輪幅で植林かどうかがわかるのか?

出雲大社の出土柱は植林か? - お〜い! 中村です!!

現在、この柱に使われている木材は、植林で育てられたものという見方らしい。その根拠はこの材の年輪幅が広いということであるが、年輪幅からわかることは成長速度であって、それだけで植林と推定するのは少し無理があるだろう。

この材が人が植えたものである可能性は高いと思う。ただし、その判断は慎重でなくてはいけない。材自体には植えたものか自生のものかを決定づける証拠はないからだ。それだけに、一面的な見方で判断してしまうと「言ったもの勝ち」で、やがてそれが「事実」として扱われかねないと懸念する。

 

 

 

〇手斧で整えられた表面

スポットを当てられている部分は、注目!のサインであることが多いです。よく見ると・・・・ 他の部分と表面の様子が違うようです。

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手斧(ちょうな)で表面が削られ整えられています。

 

 

〇2つの穴は何?

木には2つの穴が開いています。これは何を意味するのでしょう?

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木を運ぶ時に、縄をかけて移動するためのものです。

 

〇スポットライトが当てられてた意味は?

他にもスポットライトが当たっています。

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ここは、何を意味しているのでしょうか?

 

〇この遺構は、1248年の造営の可能性

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古代歴史博物館展示パネル

1248年造営と推定されました。

発掘後、柱材の科学分析調査などの様々な調査から、鎌倉時代前半の1248年(宝治2年)に造営された本殿を支えていた柱ではないかとのことです。

 

〇巨大本殿の設計図

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「金輪の御造営指図」(かなわのごぞうえいさしず)

千家国造家に伝わる御本殿の平面の図面。上記を見るだけでは、何を表しているのか、赤で格子が書かれたものにしか見えませんが、近づいて格子が交差する部分に、3つの円を取り囲むような図が書かれているのがわかります。

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この図面によると、高い御本殿を支える柱を三本の木を束ねて、鉄の輪でしばる旨の記載があったそうで、構造材の寸法も書かれています。引橋(ひきはし)⇒階段 の長さが1町(約109メートル)と記載されていました。

しかし、巨大柱発掘までは、信憑性に乏しいと言われ「捏造されたものでは?」とも言われたたそうです。

 

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〇神殿を支えた宇豆柱  平面図

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古代歴史博物館展示パネル

柱に赤い顔料(ベンガラ)が出土。柱は赤かったと思われます。じっくり観察すると赤い顔料がみえるかも? 

 

柱の間隔を示した図

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古代歴史博物館展示パネル

心御柱と宇豆柱の距離は、芯々で7.2mの距離です。

 

柱の地下構造模式図(宇豆柱)

柱穴や柱材周辺に赤いベンガラのあとが検出

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古代歴史博物館展示パネル

柱が埋められた部分は2m。石が詰め込まれています。直径、最大6mの柱穴に、人の頭の大きさぐらいの石がぎっしり積みこまれている堀立柱の地下構造がわかりました。この部分に地下水が染み出ていて、保管されたということでしょうか?

 

〇大きな建物だった記録が

f:id:korokoroblog:20200107022447p:plain古代歴史博物館展示パネル

平安時代、公家の子どもの教科書のようなものに「口遊」というものがあり、当時の構想建築を表す口ずさみ歌のようなものがありました。

そこで「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」と口ずさまれていました。それは、次の建物を意味しており、高い順に唱えられていました。

「雲太」・・・出大社本殿 (48m)
「和二」・・・大東大寺大仏殿 (45m)
「京三」・・・平安大極殿

 

出雲の「雲」、大和の「和」、平安京「京」を頭に、「太」「二」「三」は太郎、二郎、三郎の3兄弟を示し、その大きさを表現したらしい。

これを持って、出雲大社本殿が、48mで一番高いという裏付け根拠にはならないとのことですが、 そのような伝承があったことは、確かに高かったということが言えるのではないでしょうか?

 

■日本一の国旗

楽殿の前に、国旗が掲げられています。この国旗が、日本一の大きさなのだそう。出雲大社は、大きいことが好きらしいという話も耳にしました。

国旗掲揚塔の高さ:47m・・・・古代出雲大社本殿の高さが48mとほぼ同じ
国旗の広さ:75畳分 (約14m×9m)
重さ:49kg

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この位置から見ると、それほどの大きいとは感じられません。

ちなみに 「宇迦橋の大鳥居」の出雲大社の部分が6畳です。その12倍以上! 

 

旗の重さがかなりあるため、風が強い日でないとはためかないそう。また、雨天、強風の日は、日は掲揚されないことも。はためく国旗を見れるのは、幸運なのかもしれません。

 

 

■現地と東博で見る出雲大社の巨大柱

現地で見る巨大柱と、東博で見る巨大柱。現地でわからなかったなぜ?が東博で見ることで理解できたこともありました。出雲大社では、心御柱と宇豆柱を一緒に見ることはできません。脳内で配置を構成してイメージしますが、東博の展示では、柱の距離まで再現しています。

また展示されている出雲大社の模型は、古代歴史博物館で展示されている平安時代の模型とは違うもので、以前、道の駅 吉兆館に展示されていました。大林組が作成した復元図を元に、島根県立松江工業高校の生徒14名が作成した1/10スケールの模型です。巨大柱が発見される平成12年以前に、京都大学名誉教授、福山敏男氏の監修で作成されたものです。

吉兆館は、2019年8月にリニューアルオープンしました。「出雲と大和」の展覧会終了後は、展示スペースがなくなってしまったため、見ることができなくなるそうです。(その後、場所を変えて展示する可能性はあるかもしれないとのこと)ぜひ、この機会に・・・・ 

 島根までいかなくてはいけない出雲大社の至宝を東京で見ることができるチャンス。また機会があったら、出雲の現地で日本の創生やこの地の空気を感じてみるのもよいのではないでしょうか?

八雲山にかかる雲。しとしと降る雨。湿潤な空気・・・・ そうした日本や出雲の気候など、様々な条件があいまって、この巨大御柱を今に伝えてくれました。自然とともに暮らしてきた日本の国の成り立ちをしみじみと思いながら、令和の節目を迎えました。

 

■関連資料

出雲大社境内遺跡 ーいにしえの神殿に悠久の想いー 

出雲大社の出土柱は植林か? - お〜い! 中村です!!

古代出雲大社48m 復元CG 遷宮

 

出雲大社関連(ブログ内)

     ↑ ここ

 

■補足

*1:存処理方法

島根県埋蔵文化財調査センターの水槽で保管されていたが、公開にも耐えられるよう、同研究所で保存処理することが決まった。 柱に含まれる水分をポリエチレングリコールと呼ばれる合成樹脂に置き換える。 割れ目に詰まった土をはけなどで取り除いた後、別々の水槽で今秋から浸透を開始。柱全体を合成樹脂の水槽に浸け、約2年半か けて少しずつ浸透させる計画だ。仕上げを含め、平成27年度の完了が予定されている。

 組織標本の作り方の原理と同じ!