コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋   主人公は見にきた方々

MIHOMUSEUMで行われていた特別展大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋」が、約2か月の展示を好評のうちに終えました。これだけ長期に渡って、展示されるのは異例とのこと。他にも異例づくしでした。その裏に、住職の「主人公は見にきた方々」というお考えが反映されいるようにて感じられました。

前編はこちら⇒■大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋 400年の時超えて今に至る

門外不出の曜変天目の展示を通して感じたことを記録しておきます。 

 

 

 ■練り上げられた見学のシステム

ミホミュージアム曜変天目茶碗の鑑賞は、↓ この入口を入ると・・・

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列は一人1列に絞られます。列の左右には、茶碗などが展示されており、鑑賞をしながら待つことができます。

 

〇ノーマルコースの鑑賞

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ケース前に行くと、10人一組で、3面に分かれ、それぞれ、交代しながら3方向から見るという新たな見学スタイルでした。時間制限があり1分たつと、総入れ替えというシステムです。この1分間だけは、立ち止まることもでき、自由に鑑賞ができます。

 

これまでも、長い時間、並んだあと、見学できるのは1分ということはよくありました。背後からは「立ち止まらないで下さい」と常に言われ続け、煽られてる感じが、せわしなくて、見ていてもおちつきません。なんとなく後味の悪さを感じさせられてきました。

 

ところが、MIHO MUSEUMでは、一切、「立ち止まらないで下さい」という声かけはありませんでした。静かな空間が保たれています。全ての人が、平等に与えられた1分を利用して、十分に堪能させていただいたと感じることができました。

短い時間でも、おちついた状態で、鑑賞する1分間は、満足度が大きく、満たされた気分になれます。そのための環境づくりに、尽力されているのを感じました。これは、なかなかよくできたシステムで、他の美術館でも、この方法を取り入れてもらえたらいいなと思いました。⇒*1

 

この動画は約20秒。この3倍の時間が、一人一人に与えられた時間です。

 

このシステムが優れているのは、混雑具合に応じて、微調整ができること。一ブロックの人数を多少増やしたり、時間を若干、短くしたりして、その時の状況に応じて、対応されているようでした。

 

〇クイックコースの鑑賞

これまで、注目の美術品で、長蛇の列ができた時、暗黙の鑑賞ルールができていました。「前列は、近くで見ることができるけども、止まってはいけない」「後列は、立ち止まって見ることはできるけども、遠目なのでよくわからない」という状況です。

ところが、今回の動線は、クイックコースでも、ガラスケース間際にまで寄ることができ、茶碗の底、茶溜まりの部分もしっかり見ることができるように工夫がされたことは画期的なことだと思います。

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このアングルから見る曜変は、茶碗の中では地味目な面になります。斑文が少ない部分だけしか見ることができません。それでも、全ての人が、茶碗の底まで見ることができるように考えられたこのコース。どうやって、こんな動線に思い至ったんだろう・・・と、妙なところに興味を持ってしまいました。

出来上がったものを見てしまえば、ふ~んとしか思わなくなります。しかしこれを考え出すのは大変なことだと思います。

 

〇整理券が発行されてる 

2回目に訪れた時は、整理券が発行されていました。

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混雑対策の新たな取り組みだと思っていました。ところが、この日、行われるコンサートのため、長蛇の列ができて、エントランスのあたりまで行列がのび、混乱を避けるためだということがわかりました。

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てっきり、最終日に向けて、より混雑が予想され、そのための対策だと思っていたのですが、このあと、整理券の発行予定はないというお話でした。 

 

〇整理券発行時のルート

こちらは整理券を発行された場合のルートです。

ヒロじいさんのツイートをお借りしました。

クイック―コースはなくなり、全員が、ガラスケースを周回できるように、動線は変更されていました。

 

〇状況に応じて登場する踏み台

また、始まった初期の頃には、踏み台が置かれているという話を聞いていました。私が見た時にはそれはなく・・・ 人が多くなったため撤去されたのだと思っていました。ところが、その後も、状況により、人が少なくなると登場していたようです。

 

〇見る人に最善の状態を 

整理券の発行は、当初、コンサートの日だけ、その後は、発行の予定はないと伺っていました。しかし、翌日から最終日まで、発行されたようです。きっと、住職の言葉を受けて、実施されたのでは?と思われました。

何人、入場があったかではなく、何人がそのその美しさに涙したかで意義をはかる展覧会にしてほしい。主人公は観に来た方々。

言い換えたら、どれだけ並んだかではない。見る人が満足して帰るということを、考えていただけた結果だったのだと思いました。 

混雑していても、少しでも緩和されたら、台を出して対応したり・・・・

 

〇泣き叫ぶ子ども連れの親子にも

 曜変天目茶碗への一筋の道、みんなが一列に並んでいるところに、赤ちゃんを抱いたお母さん。長時間並び、大人だって疲れてしまいます。とうとう子どもは、泣き叫びだしてしまいました。あの狭い空間に泣き叫ぶ声がこだましています。

周りは、声には出しませんが、いろいろ思うところがある様子。振り返ったり、顔を曇らせたり・・・

そこにスタッフの方が「一旦、外に出られておちつかれたら、またここに戻れるように対応しますので・・・」とお声をかけていました。

この対応も洗練されていると思いました。お母さんだって、この機会を逃したくないから必死です。子育て中だからって、気を使って、見たいものが見れなくなってしまうのは、お気の毒です。そういう時だからこそ、美術品を見て心のゆとりを持つ意味があるのだと思います。

では、子どもが騒ぐレベルは、どのあたりまでが許容範囲なのでしょう。耐性は人によって違います。どこまでかという線引きは非常に難しいと思われます。ただ、この時の状況は、たぶん、多くの方が、席をはずした方がいいと感じていたと思われます。

せっかくのスタッフさんのご配慮の提案は受け入れられませんでした。それぞれの立場を思って、お互いを尊重しあう。招く側、招かれる側。そして招かれる側のそれぞれの立場。なんだか禅問答のような時間でもありました。

 

 

■2年ぶりに曜変天目を見て

〇見るたびに変化するとらえ方

初めて見てから、2年後の今年。MIHO MUSEUMでの再会。「見る前」と「見たあと」そして、「1回目」と「2回目」では、どんどん、受け止め方が変化していくのを感じました。

一つの茶碗を通してその背後に存在しているものが、少しずつですが見えてきます。それはお寺の歴史。そして、茶碗は、仏教の教えを伝えるための一つの道具にすぎなかったのだということ。

 

禅宗の教えについて

禅宗の難解な教え、南泉和尚の猫の話(南泉斬猫)が浮かんでいました。それはおかしいと猛反発していたことが思い出されます。そういえば、この話にも、草鞋を頭の上にのせるという下りがありました。「破草鞋」と何か通じるものがあるのでしょうか?

猫の仏性の話は、意味がよくわからなかったのですが、この世の大きな流れの真理の中では、生と死を二項対立でとらえるのではなく、境界のない一連の流れで 考えるということらしいです。生も死も同列上にある。そんなことを思い出していたところに、MIMIHO MUSEUMを設計したI.M.ペイ氏の訃報が飛び込んできました。生も死も同列上にある。ペイ氏の心は永遠に残り、また新しい桃源郷で生き続けているように思えました。

 

〇「立ち入る」「立ち入れない」という問題ではない

大徳寺龍光院は、拝観拒否の塔頭。一般の人は立ち入ることができない空間。しかし、これも「立ち入れる」「立ち入れない」という二言論で捉えるのではないということなのかもしれません。見るということも、実像として見ることもあれば、そこに潜む心の部分を見るということも見るのうちなのかも…ととらえられるかもと思いました。

 

1回目、時間がなくて、茶碗を見ただけで終わりました。2回目。展示を順に追っていくと、あちこちに登場する江月という人物。その人が果たした役割が少しずつ理解できてきました。そしてこの寺に残されて、今に引き継がれてきたものは、その一つ一つが、曜変天目と同じような意味を持っていることがわかってきました。

 

 

■なぜMIHO MUSEUMで展示されたのか 

〇ビデオを見てわかること

2回目、ビデオを全て見ることができたので、語られている部分をやっと聞くことができました。

列に並びながら見た断片では伝わりません。しかし、熊倉館長と、小堀住職の信頼関係は、言葉の端々から伝わってきました。

それは、熊倉館長の研究対象としての龍光院への深い理解によるものだと思っていました。しかし、見るにつれ、それだけではない何かが伝わってきます。全編を見たことで、わかるような気がしました。

 

〇看松会という活動

熊倉館長は、学問だけでなく茶書を読んだり、掃除をしたり、座禅を組んだりして、茶の湯を趣味や社交としてでなく、生活の中の禅の実践の場としていきたいという住職の思いと共に、「看松会」という会をずっと、実践されていらしたのでした。

 

 

単なる研究対象としてだけではない理解と、それを伝えるための実践を続けられていたことが、MIHO MUSEUMでの公開につながったようです。

 

この展覧会に付随した、講演会などの催しはどのようなものがあるのかと思って見ていましたが、ここに掲げられているものは、龍光院で定期的に開催されているものが、場を移して開催されたもので、通常の講演会とは意味あいが違っていたのでした。

 

また、この書はなんだろう・・・と思った展示。

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こちらは子どもたちのために催される会で書かれた書でした。

 

 

龍光院は閉じているわけではない

人をよせつけないお寺だと思っていました。ところが、定期的に会がもよおされていて、人の出入りもあることがわかりました。

国宝展で初めて見た時に思っていたこと。秘密主義とか、公開しないのは、かくかくしかじかではと、まあ、それはそれは、好き勝手なことを想像していたわけです。しかし、実際に見たら、受け止め方が変わって、実際に龍光院に行ったら、また受け止め方が変化して・・・・ また見たら・・・

 

 

 

■展示の経緯(スタッフさんとの会話から)

〇ビデオを見ないとわからないこと

じわりと浸透してくる、この展覧会の意味をかみしめながら、入口のところにいらしたスタッフさんと立ち話。人もいなくなって、ちょっとまったりした時間が流れていました。

「破草鞋」の説明は、ビデオと、このパネルのほかに、どこか解説されている場所はないのか・・・・・ そしてなぜ、MIHO MUSEUMで曜変天目が展示されることになったのかという話になりました。ビデオを見て、私は理解することができたけども、整理券の発行がなかったら、ビデオをじっくり、落ち着いてみる時間が取れなかった。それはとても勿体ないことだと思う。そんな話をしていました。

 

〇なぜ、MIHO MUSEUMだったのか? 

熊倉館長との信頼関係があったからこそ、このような展示が実現した。これまでの蓄積の賜物であることがよくわかりました。

いくつかの美術館から、曜変天目茶碗の展示をしたいというオファーがあったようです。ところが、住職は悩まれていらしたようで、熊倉館長にご相談。そのお話の中から、急遽、MIHO MUSEUMUに決まったといいます。

すでに、MIHO MUSEUMの展覧会の予定は、先まで決まっています。それらの調整をしながら実現にこぎつけました。また、これだけ長い間の貸出は、ありえないことだそうです。通常は、住職が同行されたりするようですが、今回は、信頼のもと、貸出が行われたといいます。

また、ご神体ともいえる蔵の展示まで、されており、展示期間中、龍光院には、ご本尊が不在だったということもあり得ないことだったといいます。

MIHO MUSEUMだからこ実現できた展覧会・・・・

もしかしたら、同じ宗教ということで、「神慈秀明会」と「禅宗」に何か、共通する部分があるのかも・・・・ そんな質問までしてしまいました。(なんだか、それを聞いても許されるような気がしたから・・・・)宗教的な理由は、全くないと断言されていました。

 

 

〇茶碗を通して理解するために

茶碗を通じて、その背景を知らないと、展示の意味に近づくことができないということを感じました。その意味では、あのビデオはとても重要だと思います。しかし限られた滞在時間の中で、1時間、並ぶためにとられてしまうのは、とってももったいないこと。

茶碗を見るための環境を、ここまで考えて整えられたのだからこそ、残りの数日間も、整理券を発行して、有意義な鑑賞の時間ができるように検討して欲しいとお話をしていました。

でも、いろいろな事情もあるのだろうし・・・と思っていたら、翌日から、最終日まで、整理券が発行されていました。

 

茶碗を通して、その背景を知る。上映されているビデオを見ていなければ、開催の本当の意味に、気づけなかったと思います。国宝展の時、このあと、しばらくはお披露目はしないと聞いていました。ところが、すぐに展示。今回もまた、すぐ、展示されるのだろうとどこかで思っていました。

どんな思いで展示されているのかを、見る側が受け止めるためにも、整理券の配布をして、時間を確保することが必須。ビデオを見たり、パネルを読んだりする時間にあてられるようにしないと、ただ見ただけ、見せただけになってしまいます。

 

この先、公開があるのかないのか・・・ 「見せる」「見せない」という、二者の間を行き来するのではなく、心で見る。その裏にある心を見るという見方があるのかもしれないと思わされました。 

  

  

*1:静嘉堂文庫美術館

そのあとの土曜日、静嘉堂文庫美術館曜変天目を見に行ったところ、MIHO MUSEUM方式が取り入れられていました。静嘉堂文庫では、1分半でした。1分半は、随分、長く感じられました