コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■美術鑑賞のコツ:見ていればわかるはホント?

美術鑑賞はむずかしい。わからない。でも、たくさん見れば、そのうちにわかってくる。美術館の中をブラブラ歩いているだけでも、自然に身につくと、前の記事で書きました。(⇒■美術鑑賞のコツ:美術館の年間パスを作って美術を理解しよう!)それってホントなのでしょうか? やはり、ただ見ているだじゃダメみたい。それを証明するブツがでてきました。

 

  

■引き出しの中から出てきた、封筒の中身は・・・・ 

平成から令和へ・・・ 時代の節目に、平成時代の美術鑑賞を振り返っていました。 

そして、あまり開けることのないレターケースの引き出しの中に、「パンフ」と書かれた封筒があることを思い出しました。

 

その中身を開けてみたら・・・・

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ずらりと出てきたチケットの半券。全く記憶にないものばかり・・・

 


平成の時代、どんな美術展を見てきたのか、思い出すたびにここに記録をしていました。

1995年~記録は始まりますが、それ以前の平成は、何をしていたのでしょう・・・・ 美術展は何も見ていなかったのでしょうか。全く思い出すことができませんでした。

 

ところが、上記の記録とは全く別の鑑賞体験があったのです。

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■感性を身につけるための美術鑑賞

〇デパートの招待券を利用

その昔、いつか自分の本を出したいなぁ・・・と思っていました。その時に出会った編集者の言葉。「あなたの本を、いつか出したいとは思う。でも、今は時期尚早。本を出したいなら、もっと感性を身につけなきゃダメ。いっぱい本を読んで知識をつけて、絵をみたり、人に会ったり経験を積むこと。感性を磨くには、美術館に行くのが一番」と言われていました。

本を読む。絵を見る‥ 

当時、私の一番苦手なことでした。でも、できることから少しずつと思い、まずはデパートで行われている美術館に行ってみようと思ったのでした。当時、カード請求時に展覧会の招待券が送られてきていました。それらの鑑賞を手始めに・・・

 

どんな展覧会だったかというと・・・

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全く見た記憶もないし、当然、内容など覚えてもいません。 

その後も、何度となく、デパート美術展を見てましたが、全然、感性が身につく気配などありません。美術館に行ったって感性なんて磨けません!

 

〇(1992)福田平八郎展

そこで、新聞の切り抜きをして、勉強をしようとした形跡があります。 

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この頃、「新聞でも取り上げて連載するほどの」美術展。この人のこと知らないけど、きっと素晴らしい展覧会なんだと思っていました。協賛のことなどは、全く知らずに見ていた時代です。

 

 

■記憶に残っていた展覧会

送られてくる招待券の展覧会だけを見ていたのですが、そのうち、自分の意思で見たいと思う展覧会も出てきました。はっきり、観たいという意思を持って訪れた記憶があるのがこちら。

 

山田かまち

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ワイドショーに取り上げられ、連日、人が殺到する大騒ぎと伝えられていました。どんな絵なのか・・・見てみたいと思わされました。(が、どのような絵だったかは忘れています。)メディアにあおられて展覧会に行く典型です。

 

〇(1991)大日光 菅洋志 写真展

初めて撮影が許された深夜の“聖域”――鳳凰が翼を打ち振り、聖龍が“気”を吐き、聖象が雄叫びを上げている。未知の“霊廟”がファインダーの中に出現していた!

こんなコピーが新聞広告にのっていて、それに釣られていきました。

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一番の興味は、この中央のモヤはどうやって撮影したのかでした。たまたまこんな霧が現れたということなのか。そんなにタイミングのいい話ってある?もし、本当にそうなら、どれだけの時間、待機していたのか? 撮影時間の制限もあるだろうし・・・ そんなにいいタイミングで霧がでるわけがない。

ということは、霧を発生させる技術があるのかも。しかし、こんな中央の位置にうまく発生させることができものなのか?風が吹いたら流れちゃうし。どうやって撮影したんだ?そんな疑問や好奇心。どうしてもそれを知りたい。そんな思いででかけました。

丁度、写真家の方がいらっしゃいました。あれこれ、話したあとに、実は・・・と、自分の素朴な疑問をぶつけました。もしかしたら、ここは触れちゃいけないことなのも。あるいは、企業秘密的なテクニックかもしれないし・・・と思いながら伺いました。

「写真を勉強されていらっしゃるんですか?」と聞かれました。私が写真を勉強してる人に見えるのかなぁ… そうか、こういう質問って、写真を勉強している人の質問なんだと思いつつ・・・

 

その答えは・・・ 

やはり自然現象ではなく、発生させるテクニックがありました。それは、大気に水蒸気を放つのではなく、レンズに息をふきかけるというなんとも単純な方法だったのです。

これで全てのことが解決しました。三脚で固定し、何度か試し撮りをしながら、息を吹きかければ狙ったポジションに霧を発生させることができるということです。

この時、自分にとって、当たり前のように湧き出した疑問でしたが、専門家に「ん?この人、勉強してる人?」って思わせ力があるのだと思いました。今でいう「質問力」のようなものでしょうか? それからは、質問するときには、何か爪痕をのこせるような質問をしようと・・と思うようになった最初のきっかけでした。そのためとても印象に残っている展覧会なのです。 

その後も「感性を磨くため」という目的もあり、いろいろな分野の無料セミナーにも参加するようになりました。そこで、何度か「あなたはお勉強しているの?」と聞かれることがあり、これだ!と思ったのでした。

 

 

■自分の意思で行ったと思われる展覧会

記憶には全く残ってませんが、こうして並べてみると、自ら行きたくて行った展覧会だとわかるものもあります。

 

〇(1991)世界のおもしろ絵本展

この頃、他のデパート系の美術展にも足を延ばすようになったようです。おそらく新聞広告や駅のポスターを見たのでしょう。昔から、絵本を集めていたので、このテーマに興味を持ったようです。新聞の切り抜きもしていました。

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〇(1993)大ベートーベン展

ベートーベンと言えば「運命」。好きなのは「皇帝」。子どもの頃、ピアノを習っていたので、馴染みもあります。最初の発表会で引いたのが「エリーゼのためにでした。

高校の芸術の選択は音楽。この時、ベートーベンの新書を読んでレポートを書かされました。感想は入れないという条件のレポートで優をもらいました。

本を読んで思ったことは、ベートーベンって偉大な人と思っていたのですが、すっごい偏屈、変人、変わり者。その変人ぶりのところだけ抜き出して書いたら、高評価。

その後、ベートーベンを聞くと、あの変人ぶりが頭から離れません。ベートベンの展覧会が行われる場合、展覧会という場所では、どう紹介するんだろう・・・きれいにまとめられてしまうのか?という興味で訪れたのでした。

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〇(1993)シャガール版画展

平塚にまでわざわざ行ってることに自分でもびっくり。べつに好きでも、興味があるわけでもありません。しかし、わざわざでかけた理由に思いあたることが・・・

長野に旅行した時に、シャガールを展示した美術館がありました。そこに美大生らしい女性の2人づれがいて、ちょっと会話をかわし、方向が同じなので、車に乗せてあげました。車中、いろいろ話しをしたのですが・・・

その時、ちょっと斜に構えた感じで「最近は、猫も杓子もシャガールシャガールって、ちょっとって感じなんですよね」と発した言葉。確かにあちこちにシャガールがありました。それなのに私は、シャガールのこと、名前を聞いたことあるくらい。なんだか芸術を語る人のまぶしさを感じた一方、ちょっと癪に障わってもいました(笑)私だって、「シャガールってね・・・・」そんなことを発してみたい。そんなわけで、理解してみせるわよ・・・と思いながら、平塚までわざわざ行ったんだろうと思います。

そうでないと行く理由がありません。

 

〇(1991)走り続ける第三舞台

昔は、話題の舞台は、見てました。舞台の観覧から離れて久しくなったところに、懐かしい第三舞台。まだやってるんだ。そこに「走り続けてる第三舞台というタイトル。ずっとあのノリで走り続けてきたのかしら?それとも、別の方向に方向に向かってるのかしら?難解だったけど、今なら、少しはわかるようになってるのかな?そんなことを思って行ったのでした。

 

 

■これ見てたの?

記憶に全くなく思い出すこともできない。でも、今なら、その価値がわかる展覧会もあります

 

〇(1993年)大ヴァチカン展

このパンフを見た時、ビックリしました。ナポレオンの三重冠、私、見てたってこと?

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そごう美術館にこれが来てた?もしかしてレプリカだったのかなぁ‥‥ 先日のショーメ展で見たのこれだったよね?

 

 

〇(1993年)ヨーロッパ風景画の流れ ラファエロからピサロまで

ラファエロも見てたんだという驚き。

つい先日、いろいろ調べて、やっとラファエロの位置づけが少し、見えてきたかなといったところ。

ミケランジェロあたりで、ちょこっと耳にしたことのある画家。ぐらいの認識。この人が何者のなか、イマイチよくわからず、よい機会と思って調べてみたけど、わかったような、でもやっぱりよくわからないと思った画家。

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ところが私、1993年。ラファエロとの出会っていたようです。しかも、チケットが2枚。誰と行ったのでしょう?あるいは、2回見たのでしょうか?何で2枚あるのかも不明。封筒の奥から、プレゼントの応募で当たったものだという通知が出てきました。た。

 

感性を磨くには美術館。とにかくなんでもいいから、手当たり次第、見ておけ~ そんな状況だったようです。

 

〇最初の説明から理解ができない

フライヤーの解説「ヨーロッパ風景画」の流れの解説を読んでみました。

風景画と言えば、「バルビゾン派」の画家の森の絵か、印象主義の光に満ちたセーヌ湖畔や睡蓮を思い浮かべるに違いありません。

1993年当時の自分の知識レベルを思い返して読むと、最初の2行でお手上げ状態です。美術がわからない。面白くない。と感じる理由がはっきりわかりました。

「〇〇を思い浮かべるに違いない」と言われても、思い浮かべるどころか、それ何ですか?という状況。そうした常識を踏まえた上で「風景を描くことの歴史に気づく」と言われても、ついていけません。

何を言っているのか、チンプンカンプン。調べてみようという気にもなりません。

 

高校時代、部活に力を入れ、最後の試合が終わる5月までは、受験勉強を一切してませんでした。引退して腰を上げねばと代ゼミの英語講座に行った初日のことを、思い出しました。

「この問題は、一般的にはこう答えがちです。しかしこれは、ひっかけ問題なので〇〇が正解です」と言われた時、スタートの出遅れを痛切に感じました。引っかかる前の基本にすら達していない。その基本がどこにあるのかもわからないのです。

これは、英語だけに限らないことを、すぐに理解しました。全ての教科において、今、自分が立たされている現状をつきつけられ、打ちひしがれていました。基本が身についていない状態で、こんな講習を受ける意味があるのか・・・と呆然としてしまったのです。

 

美術展の解説を読んでわからないという状況と、部活引退直後の受験講習会の衝撃が重なりました。自分が何を知らないかも認識できていないのです。美術の世界に〇〇主義、〇〇派という流れがあることすらも、理解していなかったと思います。ただただ、美術は難しい。近寄りがたい、高尚。そう感じていたことが、思い出されました。

 

その後、風景画がいかなるものかは、植物の趣味を通して理解しました。ボタニカルアートの講座を受け、その時、植物を描くことについての歴史の解説がされました。その中で風景画がどのように登場したかという解説は、目からウロコ。絵画ってそういう歴史があるんだ・・・ということを初めて理解しました。その後、写真の登場で絵画と写真の世界にどんな変化がおきたか。そこから、ボタニカルアートの意味とは?という解説があって、美術史には流れがあることを理解しました。風景画が登場するのは、歴史的な背景があることを知ったのでした。

 

 

■目的なく見ていてもダメ

こうして保管されていたチケットから、過去の鑑賞を振り返って見えてきたことは・・・

 

〇ただ、見ているだけではダメ

 一応「感性を身に付けたい」という目的は持っていました。しかし、漠然とした目的の中で、見ているだけでは、何も残らないことは明らかです。見たという記憶にすらとどどまっていませんでした。

最近は、「美術がビジネスに役立つ」と注目を浴びています。しかし、ただなんとなく、ビジネスにも生かせるらしい、生かせるかも・・・という感じで、見ていても、きっと何の役にもたたないのだろうということが、このことからも推測されます。

 

〇関連づけてみる

見たことも忘れている展覧会が多い中、いくつか覚えていたものがありました。また思い出せる展覧会もありました。それらは、なんらかの関心や興味を持って訪れたという共通点がありました。

これまでの自分の体験や、学びの何かと接点があった時、それに絡めて行ったものは、記憶を定着させることができています。

 

 

〇自分の興味の延長で積極的に見る

自分が知りたいことや、興味を持って行ったものについては、そこから何かを得ており、それが、今にもつながっていました。

チケットの中には残っていませんが、陶磁器の展覧会で、え~そうだったの?! という驚きが今も印象に残っています。

焼き物の産地がいろいろあり、知らないものも多かったのですが、記憶に残ったこと。それまで、古九谷は古い時代の九谷のことだと思っていました。が、肥前のものだと(不確か)聞き、トリビアでした。それは、焼き物に興味があったからこそ、残り続けたのだと思います。

その時さらに調べていれば・・・・「なぜ、肥前が古九谷なんだろう」「じゃあ、古伊万里はどうなんだ?」もっと広がったかもしれません。チラリと頭をかすめたような気はするのですが、調べるには至りませんでした。

(今、思えば、この時、インターネットはなく、調べるためには、図書館へ行くなどの労力が必要だったのでした。)

 

〇記録することの意味

その後、家庭にもパソコンが登場し、パソコン通信で情報交換をしたり、コミュニケーションをとるようになります。さらに、windows95、インターネットと世界が広がっていきます。

BBSから個人のHP、ブログ、SNSと移行するにつれ、パーソナルな記録媒体をネット上に、個人が簡単に持てるようになってきました。

それによって、個人的な記録も日記のように残せるようになり、調べることも容易になります。鑑賞の記録も、メモのような形で残るようになりました。それらを繋ぎ合わせることも可能となります。

この「記録する」といことが、記憶に大きく影響していると考えられます。その時に感じていたことが残り、見返すことができます。初期の知識レベルがどの程度だったかも判断ができます。

見てそのままにしていたのでは、何も残らないのは、1990年代初期の鑑賞が物語っています。行ったこと、その時に感じたことを文字で残してあれば、それを忘れてしまっても、あとから引き出すことができます。

ところが、その記録もwindow95の登場により、データの移行がうまく行えず、途中で消えてしまいました。美術館訪問記録も1995年から残っていますが、2000年までの記憶が全くなく、どうしたのだろうと思っていました。書きとどめていなかったという影響もあったと思われます。2000年を超えたあたりから急激に充実してきます。これは、個人用の記録メディアの台頭による影響だったのでしょう。

 

〇目的を持ってみる お土産を持って帰る 

こうして、一連の美術鑑賞を見てみると、見たあとそのままにしておかないということがポイントになりそうです。これは、学習するということでなくもよくて、一言でもいいから感じたことを自分の言葉で書いておく(今ならtwitterとか・・・・)

あるいは、何か一つでいいので、見た展覧会から、自分が得た知識として、持ち帰ってくる。こうした意識的なアプローチが必要だったとわかりました。

展覧会から、何か一つだけ持って帰ってくる

ただ観るのではなく、今日のお土産、戦利品はこれ。と意識的に鑑賞することが大事だと思うようになり、実践してきました。

それは知らなかったことを知ったという新しい「知識」でもいいし、「感情」でもいいのです。

 

〇自分の成熟、キャパシティー、ステージがある

年を重ねることも必要だと感じさせられます。

どうしても若い時の「知」や「経験」は未熟です。特に、知については、自分が属している世界の「知」に大きく傾倒しています。絶対に偏りががあると思うのですが、それに気づいていないことが多いのではないでしょうか?私もそうでした。「知」の範囲も狭いのです。

知の体系があってそれがどのような構造で、全体はどのような姿をしているのか。その全貌はなかなか姿を見せません。自分が属している世界に、留まってしまうから。外にも広い世界があって、そこがどんな姿なのかなんて、その存在すらも知らないので、気にもならないのです。(科学に「人文科学」「社会科学」があることを、若冲展の頃に知りった状態。)

ところが一つの趣味や学びで、深く掘り下げると、その先に、何かわからないけども、ぼんやりとしたものが見えてきます。また別の興味からも、別の何かが見えてきます。それらは、なんとなく、似ているような気もするのです。

こうして、年齢を重ねると、自分の興味や体験、訪れる場所も広がり、知らず知らずのうちに積み重なり、深く掘り下げられいきます。いろいろな方向へ伸びて、厚みが出ます。すると、それまで独立していた世界が、どこかでつながり合っているということが視界が開けるように見えだします。

 

 

〇つながり合う「知」 水脈は同じ

2018年に見た、「世界を変えた書物展」の展示に、そのイメージをビジュアル的に示されたと感じたものがありました。

 

いろんな方向から追いかけた先にあるのは、なんだかわからない「哲学」という世界なのではないか? それは、2000年過ぎた頃に「理解する・わかる」ということは、どういうことか・・・ということを探っていて見えた扉でした。

 

時を経て、次のような言葉に出会い、その意味が染み込むように入ってきます。

白洲家の娘婿が、家族の仲間入りをして、正子さんから言われたこと・・・

わたしも中学の歴史の本から始めて、勉強しなおそうとすると、正子からこう言われた。
「それも良いけど、あなたそれなら、何でも良いから一つ、好きなことに集中して井戸を掘りなさいよ。そうすればそれうち、地下水脈にたどり着くの。そうすると色んなことが見えてくるのよ」

 

自分が興味を持ったことを掘り下げる。すると地下水脈にあたる。その水脈は、いろいろな水源から集まってきてるので、流れ出た水源ともつながっているのです。

 

興味の幅が広がっていくと、全てはどこかでつながりあっているということが、感覚的に見えてくる時があります。それは何か一つのことを、集中して掘り下げた時点で、その全体がおぼろげに見えることもあります。

学生時代、体のことを掘り下げたら、広大な世界が広がっていて、つながっていることに気づきました。しかしこれは、体だけじゃなく、他の世界も同じような構造になっているのだろうという想像ができました。

今、歴史、美術史の入口に立ったところです。部分、部分の歴史的出来事は、壮大なサイクルの中の一部で、それぞれつながりあっているということが、今なら想像できます。それがわかっていると歩みも早くなるような気がします。

 

 

〇興味あることを掘り下げる

全てはつながりあっている。今では、それを当たり前のこととして受け入れています。しかしそれに至るまでは、時間がかかっていたのです。それさえも、忘れそうになります。

一度、一つのことに集中して掘り下げた経験があると、次は比較的早く水脈が見えてくるように感じられました。いろいろなことに手を出しても、似たような世界として共通性が見えてきます。

義務感で見たり、なんとなく見るのではなく、好きなもの、興味のあること、知りたいと思うことを、つながりで見ていく。すると「物事の理」のようなものが見えてきて、哲学的な世界にたどりつけるように思います。

 

 

 

■知識か 感性か・・・・

〇どちらでもいいし、両方を使いわける

知識で見るか、感性で見るか。そんなことはどっちだっていい

2015年の「琳派400年 京を彩る」を見た体験によって私の答えは出ていました。
(さらに遡ること、2007年国立新美術館開館記念「大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産の時に、新聞屋さんから2枚のチケットをゲットしました。その時、「知識なし」「知識あり」の2つのパターンで見ることができる!と喜んだ記憶があります。両方の視点で見るというのは、元々、自分の中に存在していたようです)

 

個人的な好みは、予備情報は入れず、あれこれ想像しながら感性で見て、そのあとに情報を見るというスタイル。どれだけ背景に迫れたか、あるいは、どれだけギャップがあったか、自由な発想を知識に邪魔されずに見て楽しみたいと思います。

でも、知識から見てもいいわけで、どちらかにとらわれず両方から見ればいいことだと思っていました。先に知識を入れて持ってしまうことでおきる先入観は、情報をリセットして空にするテクニックを身につければ解決します。

 

〇感性だけで見ていると、自ずと知識が必要になる

しかし、感性だけで見ていると、ある時、知識がないという壁にぶつかります。理解への限界を感じ、自ずと知りたいと思うようになるもの。(宗教画やアトリビュートなど)それからでも遅くはないし、自然に身についていることもあります。必要に迫られれば知識は身につくものです。

「感性を身に付けたい」と思って、鑑賞を始めましたが、いくら見ていても何にも感じることができない長い時代がありました。

その後、「感性は知識」という言葉に出会い、何かが開花したように感じました。絵を見るために必要な情報。「最低限、必要な知識がある」ことがわかってから、飛躍的に面白くなりました。そして、絵を語るための言葉も必要だと理解していきます。

 

〇「感性は知識」と理解してからの変化

何も知らずに見ていましたが、美術館のパスポートを使って見るようになってからは、ただブラブラ通り過ぎてくるだけなのに、自然に知識が蓄えられていきました。

それは、そこまでの時間で、少しずつ、意識されずに、美術の知識が蓄えられていたからだと思います。自分では気づいてはいないので、知識なしで見てるつもりです。しかし、以前、本当に何も知らない状況とは違っています。

「無意識の知識」の延長にある、「関連情報」として見ているため、何かと反応して記憶にとどめられていったのではないかと考えました。

 

〇基礎は、様々な場面で必要になる

部活を通して感じたこと。スポーツと美術鑑賞も共通するプロセスがあると思いました。できなかったテクニックがある日、突然、できるようになる瞬間が何度となくありました。その理由がわからなかったので、記録ノートをつけて探っていました。

そこでわかったのは、基礎体力が必要だということでした。脚力、腕力、手首のスナップ、体の柔軟性、瞬発力など、これらの基礎が充実したからだと思われます。基礎体力が伴っていない段階で、高度なテクニックをいくら練習してもできないのです。

最初はできなくても、繰り返すうちにある日、突然、舞い降りてきます。運動も学びも同じ。基礎が充実すると、突如、開けることがあります。

これらのことは、新たなジャンルを理解するときの、セオリーだと理解するようになりました。

 

パソコンを使うようになって、いろいろトラブルがあります。しかしその状況をサポートに伝えることが最初はできません。状況の把握ができていないことも一因ですが、それを伝えるための基礎用語を知らないのです。

また新しいソフトを使い始めて、こんなことをしたい。と思ってもそれが何という機能か名称を知りません。そのため調べることもできないのです。その世界を理解するには、その世界の言葉も理解しないと、調べることすらできないことを理解しました。

鑑賞によって感じたことを表現する時、同じように、美術界の基本用語を知ることで、伝えやすくなるというのも同じことだと思いました。

 

〇いろいろな考え方に触れ試してみる

絵をどのように見たらいいか。いろいろな考え方があります。それらにも触れてみます。自分の考え方に凝り固まらない。ということも、大事だと思いました。

今なら、いろいろな方がいろいろな形で、鑑賞方法を紹介してくれています。鑑賞を始めた初期のインターネットに、そんな情報はありませんでした。

「感性を磨くには?」という方法も、長い間、調べ続けていました。しかし自分の感覚にフィットする方法がありません。

そこに、やっと感覚にフィットする、感性の磨き方と出会えました。それは同じような世界にいる方の言葉で、感覚的な言葉ではなく、実践的な理屈を伴うものでした。

それに出会ったあとも、その時々で、条件を変えて、いろいろな方法で見ています。

 

〇バックグランドの差 

「知識なしで鑑賞する」 と一口に言っても、その人のバックボーンとなる知識があって、それまでに蓄積してきた経験の違いもあります。

 

「知識ゼロで見る」・・・・・ それは、それぞれ同じ条件ではないのです。

 

鑑賞する作品や画家のこと知らなくても、様々な知識や経験のある方は、持っている知識を駆使して総合的に判断したり、推測されます。何も知らないのになぜ?と思ってしまうのですが、それは当然なのかもしれません。

多くのものを見たり聞いたりしていれば、見識も深まり、初見でも理解が深いのでしょう。何も知らないと言いながら、そこから何かを引き出す力があります。

それは、これまでただ漠然と見てきたからではなく、何等かのつながりを意識し、関連付けで見ているのでは?と思うようになりました。新たなものを見た時に、これまで見たものと共通性を見つけ、過去の経験から、関連するものを芋づるで引っ張りだすことができるため、考察や推測を加えることができるのではないかと考えました。

たくさんのモノを見て、聞いて体験することは大事。しかしただ見ているだけでなく、一つのものをどれだけ深堀してきたか、そこから関連付けていったかというバックグランドが、大きく影響しているように思います。

 

 

■興味のない美術に興味を持つことはできる?

〇興味がわくきっかけは何?

全く興味のなかったものに興味を持つ。そこには、どんなきっかけや感情、状況があるのか・・・・ということについて、ずっと興味を持って記録もしてきました。

私自身、過去にいくつも、全く興味のなかったこと、むしろ嫌いと思っていたことを追いかけてきた経験があります。深堀したくなるのは、個人の気質の部分もあると思うのですが、「全く興味のなかったものに興味を示す」という状況がどういう状態なのかがわかれば、「人が興味を持つ」ということにアプローチできるのではないか。そしてなによりも自分自身の興味の対象も、増やしていくことができると思いました。

 

〇自分と、作品や画家の間に「関連」をみつける

今回、平成の美術鑑賞を振り返ってわかったこと。人が何かに興味を持つ時というのは、自分の知識や経験やその時の感情など、対象との間にになにがしかの「関連」を見つけた時、その対象への興味が誘発されるということでした。

 

私の場合、美術鑑賞の最初のきっかけは、本を出したい。そのためには感性を磨く。その方法が美術鑑賞でした。この時、出版したいという気持ちと、美術鑑賞の関連性が全くありません。そのためにしなければならない義務のように鑑賞をしていたように思います。結果、全く何も残りませんでした。

 

美術鑑賞を初めて、面白いと思ったのは、モネの描き方に科学あったこと。そこから「印象派」に興味を持ちました。他の画家はどういうふうに描いていたのか。またいろいろな「なぜ」がおこり、「印象派」を様々な角度から見て理解したいと思うようになりました。

その時、印象派が、産業革命という歴史によって生まれたということを突き止めました。(その時の私の感覚としては・・・) 絵画は科学だけじゃなく、歴史とも連動している。ということは、哲学の入口にも行くはず。(美術の前に植物に興味を持ていて「人はなぜ花を育てるのか?」という命題から、哲学の入口にたどりついたという経験があったから・・・・ 人の体の時も同じでした) 物事の先には、哲学的な世界がある。関連のつながりをおいかけると全てつながりその先は同じ。だったら美術って面白いかも。いろいろな世界に広がっていく可能性がある。それは、私が今、苦手、興味がないと思ってる世界にも、橋渡ししてくれそう・・・・ そんな期待を感じたのでした。

とりあえず「印象派」と名のつく美術展は全てコンプリートするぐらいの気持ちで見ていこうと思いました。印象派だけでいいので、徹底して理解すれば、いろいろな広がりがあるず

すると、その先には「人体」という本来の自分のフィールドがあったり、光学という科学があったり・・・ どんどん引きづり込まれていったという経緯があります。

 

美術の入口のキーワードは、「モネ」「印象派」。自分が知っていることとの関連で見ていくと、興味は持続します。そこから「人体」「レオナルド」と関連の枝や根が伸び始めました。それらは時にからんだりしながら、新しい花や実をつけ始めます。その実が飛んで、また、新しい木の小さな芽が吹きだします。

興味のつながり、関連で見ていくと、勉強するという感覚ではなくなり、楽しくなってきます。

 

〇興味が沸いたら見ればいい 

美術鑑賞に興味のない人が、興味を持つために、何かしかけなどはあるのでしょうか?それは、無理だと思いました。

見てみたい、面白そう、何、それ? そういう自発的な気持ちが伴っていなければ、いくら見ても、何の変化もしないことがはっきりわかりました。

見たいと思えるまで待つ。最初は、人が一杯、行くから、評判だからでもいい。見たいと思うことがまずは大事。そしてせっかく行ったら、自分の立場や経験、知識など、何かつながることがないか探しながら見る。これも義務感にならないように・・・

自分が興味を持っている世界との関連をみつける。美術作品というのは、世の中のいろいろなことが盛り込まれていて、考えさせてくれる要素を一杯、秘めたものだと感じるようになりました。そんな広がりを持つ美術作品の世界と、見る人が持っている世界、なにかしら重なり合うものがあるのではないかと思います。

なかったら・・・・ また次の機会でいいわけです。極論を言うと、心から見たいという気持ちがなく見ても、意味がなさそうです。

 

 

〇いつになっても初心者の怪?

好きでも、嫌いでもないシャガール美大生らしき2人連れが、分かったように語っているのを数十年前、目にしました。ちょっと癪に障ってました。なんだか、私たち、美術を知ってますって感じ(笑) じゃあ、私だって理解してみせるわ。そんな感情がきっかけで、でかけるというパターンもありました。いつか理解したいと思い、それが今につながっています。

あの美大生は、どういう意味で言ったんだろう。その裏にはどんなことがあるのか。いつかそれを理解できるようになりたいと思い続けています。

 

初心者からみると、美術を語る人って、ちょっと、鼻持ちならなく見えることがあります。高尚な芸術を理解している私たち・・・・みたいな。

こうして、鑑賞記録をまとめながら、いまだに、わからない。難しいと初心者意識で語ります。それは初心者なのでしょうか? かなり鑑賞歴のある方も、何もわかっていないんです。と語ります。

そんな自分を含めた人たちを、昔の私が見たとしたら・・・・ 「ちょっと嫌みじゃない? 長年、美術鑑賞してるのに、初心者面してる。あんなに見てるのにわからないとか言ってるし・・・」って(笑) 

真正の初心者から見たら、今の私だって、わかっている人に見えてしまいます。本当に何も知らない初心者の頃の私には、知るものの驕りのようにも見えてしまうでしょう。

美術をいかに見るか。悩みながら、もがいていたかつての私からは、少しでも体験があって見ている人は初心者ではないのです。

一方、「無知の知」。人は、いつまでたっても、わかるということはありません。したがっていつまでも初心者だと思っているわけです。立ち位置が変わると、見え方も変わります。 

立場の違いによって捉え方が違うことも、美術は教えてくれます

 

〇「人ごと」から「自分のこと」へ

美術展に行ったら、私の戦利品はこれ! を意識して獲得してきます。そしてその次は、その戦利品に付随する画家や作品、美術展に行ってみます。関連で展覧会や講座に参加をすると、目的もおのずと出てきます。

「目的を持って参加する」と言われると小難しくなりますが、関連で見ていけば、それが目的になるので、戦利品として意識して持って帰ってきます。

一つの戦利品から糸を伸ばして、そこに肉付けをしていくと、だんだん面白くなります。

 

最初は、人が行くから、誘われたからという「人との関係」からスタートしてもいいです。今度は、「自分との関係に変えて能動的にみる」「自分の経験とつなげる」など、「自分の知っていること」と何でもいいから、つなげてみるよう意識します。それを繰り返していくと、美術鑑賞は思いもかけないものとつなががる面白さが出てきます。発見が楽しくなり、興味も深まっていきます。

きっと、地下水脈が見えてくるはずです。 

 

 

思うままにとりとめなく、長々書き連ねてしまいました。
最後までお読みいただいた方がいらっしゃいましたらありがとうございました。