コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記

美術鑑賞を通して感じたこと、考えたこと、調べたことを、過去と繋げて追記したりして変化を楽しむブログ 一枚の絵を深堀したり・・・ 

■左脳と右脳でたのしむ日本の美 あなたは理論派? 感覚派? それとも・・・

サントリー美術館で、ユニークな展覧会が開催さています。「information or inspiration? 左脳と右脳でたのしむ日本の美」 あなたは左脳で見ますか?右脳で見ますか? 要は「理論派?」「直観派?」 その両方から展覧会を見て、2度楽しんでしまおうという今までにない試みの展覧会です。

注:ネタばれあり

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■あなたは右脳派? 左脳派?

この展覧会では、鑑賞する人が、美術作品を見て感動する場合、2つのパターンに分けられるのではないかという仮定で進められています。 

 
それをまとめると、次の表のような感じになります。

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感動には「左脳的、右脳的」な捉え方があって、それは「論理的、直観的」と置き換えられます。情報(infomation)をもとに感動するのか、印象(impression)で感動をするか。人はいずれかの傾向があるだろうという仮定に基づいた展示です。

 

 

〇さて、あなたはどちら?↓ 

情報を元に見る方は(左)の明るい白い壁の入口へ・・・・

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展示空間の壁は白で、解説がびっちり・・・・ 

 

 

理由など関係なく、心の感動を求め直観的にとらえる方は(右)の入口から 

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暗闇の中に、小さな小窓が・・・・ そこから作品を鑑賞します。 

 

〇どう選ぶ?

さて、ここで「どちらの入口を選ぶのか」 その選択も分かれると考えられます。逆張りを選択することもありそうです。

⇒自分の見方と同じ見方を選択
⇒あえて逆を選んでチャレンジしてみる
⇒いずれであっても、このような状況を与えらえたらそれに乗ってみる

 ということで、まずは情報のない状態で見る。

 

 

〇あえて逆を選ぶ? それとも・・・・

私の場合は、完全に「論理派」。しかし、最初から作品の意図や背景がわかってしまっては面白くありません。まずは自分で感じて考えてみるようにしています。その考えるプロセスが好きです。

どこまで作り手の気持ちに、自分は迫ることができるのか? 作品は何でできていて、どうやって作ったのか。何に使うのか。また展示にはいろいろな意図が込められています。展示側は、どんな意図をここに込めているのか。

それらを、今の自分は「どれだけ受け取ることができるのか」を試しながら見るというのが最近の鑑賞の傾向です。

 

〇「一粒で二度楽しむ」

同じ入館料を払うなら、2倍に楽しんじゃおうと思っています。展覧会の紹介で、一般的な鑑賞時間が示されることがあります。私は、時間が許せば、何度か違うモードで回るので、鑑賞時間を示すことができませんでした。

最初に想像して、あとで答え合わせをして「当たり~! やったね。私、読み取れるようになってきてるじゃない!」と喜ぶこともあれば、全く見当はずれなことも。

でも「作り手はそう考えたのかもしれなけど、こういうとらえ方があったっていいんじゃない?私はこう感じたんだから、それはそれでいいのよ・・・・」そんなことを思いながら見てきました。

特に、とらえ方が違っていた時のギャップを楽しんでいます。情報がないことでおこるとんでもない解釈それこそが面白いと感じるようになりました。

 

 

〇興味深い展覧会

最近の展覧会では、このような見方をしていたので、今回の企画には、とても興味を持っていました。「予習をせず、何にも知識のない状態で見る」のと「情報をもとに見る」という設定を、個人が選択する。

そこに脳科学のトレンドワード「右脳、左脳」という言葉に代表させているところにも、いろいろな意味で興味を持っていました。

(追記:2019.06.01)
 ⇒
〇右脳・左脳は似非科学
 ⇒〇言葉の上では認める多様性 心の中は?

 

また、この展示空間が、想像を超えるものになっていました。美術館という空間の中で、両側面を、表裏一体で見せる構造が実現されていました。試行錯誤の末、考え出さた展示模型を「サントリー美術館ニュース」で、立体的に見た驚きといったら・・・・ 

この展示空間、すごい!! これ、画期的な展覧会になりそう。「情報を元に見る」「感覚で見る」という2つの見方の提案をすることは、できると思うのです。それをこのような「形として」見せてしまう発想がすごいなぁ‥‥

 

何も知らずに、どれだけ読み解けるか。あるいは、その時におきたギャップが面白くて、それを楽しんできました。最初に情報を知ってしまうと、見方が固定されてしまい、せっかく自由な発想をできる余地を阻害してしまいます。それは、とってももったいないと思っていました。一粒で二度おいしいという状況を、自分自身で作って鑑賞していました。

今回はそれを展覧会のコンセプト据えて、さらに空間の構成からも体現させてくれそうです。とても大きな期待をしながら待っていました。 

 

〇他の人は、どう選ぶのかな?

ところで、鑑賞する側は、どちらを選ぶのでしょう? 日本人は左脳派が多いと聞きます。ということは、左から見る? しかし、こういう設定を与えられた状況下では、多くの人が、右脳派、直観で見るんじゃないかなぁ‥‥・

しかし、来場者は、この企画コンセプトを把握して来館する人ばかりではないはず。全く知らずに入館した人は、どちらを選ぶのだろう。企画の意図を知らない場合、何も考えないので、動線の流れに沿った右に行くような気がします。あるいは、利き足、利き目ということも選択に影響するかな?

 

こうして「どちらを選ぶのか」ということ対しても、他の人はどう選ぶのかと想像しています。しかも、見る側のシチュエーションや、その人の物事のとらえ方で、選び方も変わるだろうと思いながら・・・・ 

果たしてどちらが多いのでしょうか? 鑑賞中もずっと気になっていました。閉館間際、入口で案内をしているスタッフさんに伺ってみました。

 

「初日、一日、だけですが、現状では、どちらが多かったですか?」

 

入口で解説をして、どちらかを選んでいただくのですが、迷っている方には、「黒から見るのをおすすめ」と若干の誘導をされていたそうです。ということは、必然的に「黒=直観型」から見る人が多いのかと思いきや、初日の1日目では、半々ぐらいだったそうです。

 

私は、最初から、黒から見ると決めていました。このような企画を見に来る方たちは、黒派が絶対的に多いと思っていました。果たして今後、どのような結果になるのでしょうか・・・・ 

そんなことを考えて見ている自分は、まぎれもない左脳派なんだなぁ‥‥と改めて自覚させられていました。

 

 

〇まずはざっと流す

黒の右脳コーナーからスタート。最初は一切、撮影せず、とりあえず、全部を流して見ることに専念します。この流して見ることにも、ポイントを置いています。なるべく立ち止まらないように意識します。

ところが、それでも、立ち止まって見たくなることがあります。それは、私の心をとらえたということ。その時は、その気持ちに逆らわず、見たいだけ鑑賞します。写真が撮りたくなったら撮影もしながら・・・・

流して見ることを主眼に置いているのに、立ち止まりたくなるのは、作品にそう思わせる力があるということです。あるいは、何か気になることがあった時、または、以前から、見たくてやっと出会えた作品なども、足を止めさせます。

「流して見る」と決めているのに、ひきつけられる。それは、そこに感じる何かがあるということ証です。

 

 

 

■感じるままに見た記録

何も知識を入れずに見て、そこで何を感じたか、何を考えたかを、とりとめなく記録していきます。(⇒何も情報を入れずに見たい方は、飛ばして下さい)これはあくまで、私が見たファーストインプレッションにすぎません。しかし、個人的にはこの部分をとても大事にしています。初めて見て感じたことというのは、すぐに忘れてしまいます。
 
鑑賞後、いろいろな情報が加わると、それによって、どんどん印象は書き換えられてしまうことを経験してきました。最初に感じていたことを、すっかり忘れてしまうことがしばしば。それを忘れないために記録しておこう思いブログを始めたという経緯があります。
最初に何気なく感じた何か。それが作品の核の部分であることも、よくあります。
 

〇光の反射

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まず目に飛び込んできたのは、反射した光が映し出されています。下を見ると、四角いガラスのお重が置かれています。蓋を開けて置いたことで、底面のカットガラスの模様が投影されていることがわかります。

この作品は、何度か見ています。あの時と、あの時と・・・・ またご登場ね。再会した気分です。

これを最初に見た時の驚きを思い出しました。ガラスでお重を作っちゃうんだ。重ね合わせの技術はどうなっているんだろう。しかし今はそんな驚きは、いずこへやら? 

その後、いくつかガラスのお重を目にしました。自分の中で、ガラスでお重を制作することは、そんなに珍しいことではなくなりました。初めて見た時と、受け止め方が、変化しています。

その時、作品の背景は、確か鏡だったと記憶しています。鏡面に反射したお重がいくつも、重なってなっていました。キラキラとシャープな輝きで、硬質な印象だったような・・・ 今回は、内部のカットガラスの散乱した光はとても柔らかく、カットの様子を伝えています。(⇒infomation(情報) 左脳コーナーを見てわかったこと *1

 

 

〇意味不明・・・

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これは、何でしょう? こんなフォルム、見たことありません。そして赤いバック。作品よりも、赤のライトで展示されていることの方が気になります。展示をされた方は、きっとここに意図があるはず。それは何だろうと探っています。作品よりも、展示意図の方に興味が向きます。
 
赤いライトのためか、作品の素材感が、かき消されてしまい、何でできているかわかりません。情報が読み取れないことが、作品への興味を阻害してしまうのでしょうか?すぐ隣へ移動。(⇒左脳コーナーの解説でわかったこと *2
 

〇香合のコーナー 

このコーナーの最初の展示は、鳥の形をした蓋物の香合。写真、取り忘れました。

この鳥の置物を見て、私は、すぐに香合だと理解しました。それは、これまでの鑑賞経験によるものです。2年前だったら・・・・ 香合の存在すら知りませんでした。

単に置物だと思ったはずです。「知識」ってこういうことなんだなと思いました。そして知ってるということは、興味を深める時と、逆に作品への興味も薄れさせることもあるようです。それ以上、見ることなく次の展示へ。あとから、まとめて黒の「impression」のコーナーを撮影をしたのですが、撮影されていませんでした。 

 

これは、裏の左脳コーナーからみた写真です。

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次からはなんとなく似たようなものが登場します。 

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*クリックすると大きくなります。

 

(左)蚊取り線香でも入れるのかな?でもこの時代、渦巻きの蚊取り線香はないはず・・・・ 現代版蚊取り線香入れで、こんな形のもの見たことあったなぁ…

 

(中)中央がくぼんでます。昔の枕の形のような形をしてます。でも、上部には穴が空いてるのはなぜ?この穴、何に使うんだろう。今の時代でいうと、高級漆塗りティッシュボックスケースケースって感じ。

奥の方に解説があるのが見えます。あちら側が、左脳、論理派のコーナーなのね。これを見れば、何かヒントになりそうだけど、それはあえて視界には入れないように、自分で考えることに。

どうやらここ一帯が、香合関連品のような感じがしてきました。そういえば、和歌の中に、あなたの香が・・・ なんて下りがあり、髪の毛や衣服に香を焚いていたという記憶がよみがえりました。髪の毛に香を焚くのは、枕を使っていたのかも・・・・と理解しました。

 

(右)丸い穴がいくつも開いてます。なんだろう。ここに何かを刺して使うのかな?これについては、香合だとは思わず、私の知らないこの時代の風習(占いとか)があって、ここに何かを刺して使ったのだと思いました。⇒*3

右脳側から見る側面には、比較的大きな螺鈿で蝶が描かれています。日本の螺鈿細工は、細やかで繊細に施されることが多いのですが、これは大胆で派手な使い方をして目立ってるなぁと思いました。

 

 

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これ、何をするものか私、知ってます! 香を焚いてこの上に着物を置いて、香を移すものです。その知識があるから見てすぐにわかります。しかし初見で、これが何であるかは、絶対にわかりません。「香を焚く」 日常にそういう生活習慣があることすら知りませんでした。

知っているかいないか。その違い。当時の暮らしを知らないと、どんなに想像をめぐらしてみても、これが何であるか、理解することは絶対にできません。

蒔絵の様々な技術も、一度、理解すると、どんな方法が使われているのかもなんとなくわかってきます。

 

この香炉を見た瞬間、このコーナーが香を扱ったエリアであることを確信しました。どの作品か忘れましたが、ほのかに香りがしたような気がしました。香を焚いて香りの演出をしているのかな? ここは香のコーナーと確信した瞬間、香を感じました。それは単なる気のせいだったのでしょうか・・・

 

すると、最初はなんだかわからなかった下記の置物も、素性が見えてきます。これらは香合だったようです。

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〇似て非なるもの

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ずらりと並ぶ瓶・瓶・瓶・・・・ 一見、同じもののように見えます。しかし、よ~く見ると若干違います。

 

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(左)首のカーブの形状が違います。
(右)口の大きさ、高さも違います


量産品で、同じように見えても、昔は、個体差がかなりあった。そこには、まだ手作りの部分が残っているから? この材質は何だろう。光の透過性がなさそうだから、ガラスではないな。でも、古いガラスは透過性はなかったから・・・・ しかし、画一的なものが作れるようになっているようなので、時代が下ってるはず。だとしたら、透明なガラスは作れます。ということでこれは陶器でしょうか?でも、口の部分が銀色です。これを陶(磁)器で作るとしたら、上塗りするのでしょが、その銀は、内部まで銀色をしているようです。どうやって作るんだろう。

 

〇料紙絵と書の分業 

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これは、言わずもがなで理解。ドーサ引き、金泥(?)、書、落款。こういう見せ方ができるのか・・・・・ 

 

 

■直観で見るってどういうこと?

サントリー美術館は、会員になっているので、今回、展示された作品の中には、過去に見たものもいくつかあります。これはあの展覧会で展示されていたということまでわかる作品もあります。

そのため、その時に得た知識を引っ張り出して、見てしまっています。何も知らずに見てるつもりなのですが、一度、見たものは、何も知らない状態ではありません。

ということは、ここまで見てきたのは、直観で見ていると言えるのでしょうか。

そんな疑問を抱えながら、直観の黒のコーナーで感じたことを、言葉に書き出してみました。この量を見ると、作品の前でじっくり見ているように見えます。が、流し見なので、一瞬のうちに、頭の中を駆け巡ったことです。

自分でも、わずかな時間で、結構、いろんなことを考えていたのだな・・・・と思いました。

そして、ここまで見て感じたことは、直観ではなく、論理で見てるのだと思いました。過去に見た何か、知っている知識、聞いた話にアクセスして、今、目の前にある作品と共通するものを引っ張りだしただけなのです。 

「感じていること」なのではなく、知っていることと照合しているだけ。「直観で見る」というのは、ここから、さらに真理(?)のようなものを瞬時に引き出すことなのでは? と思っています。

 

このように、最後はいつも「直観で見る」という言葉の「定義」に陥るのでした。たぶん右脳派の方は、感じたことを言語化する必要はなく、感覚として体感すればいいと思っているのではないかと思いました。

 

◆直観とは?

次のようにとらえていました。

「瞬時に引き出した感覚。その裏で、過去の経験や知識、見聞から、論理的に高速処理して導き出した結果。高速処理のため、論理的に導いたと感じてはいないことが多い」

そのため、今回のテーマである「論理的に見る」ことと「直観的に見る」ということは、実は私の中では同じこととしてとらえていました。

知っているかどうか。ということは、鑑賞において、とても大きなファクターです。しかし、「知っている」ということと「感じている」ことは違うととらえています。

同じように、何も知識を持たずに見たとしても、鑑賞者の経験値、知識が違えば、読み解きにも違いがでてきます。しかし、これは知識なので、「知っているか」「いないか」の違いにすぎないと思っていました。

 

「作品から感じること」と「作品から読み解いた事実や背景」 

 

後者は感じたことではないと思っているので、今回「直観的に見たつもりでも、引き出されてきたことは、自分の感覚ではない」と思っていました。

 

 

 

■全く知らない作品を見たら・・・・

知っていることによって受け止め方が変化してしまう。では、初見の作品を見た時にはどのように見るのでしょう。

このコーナーの最後の作品が、初めて見る作品でした。  

 

 

うわ~ これは何? 美しい!! 

このデザインは切子ガラスのカッティングが施されています。どんな素材に施したのでしょう。金属のようです。黒のボディーに光があたって、様々にカットされた角度が、光の輝きを変化させて目に届けます。

場所を移動しました。すると、黒だと思っていた場所が、光り出しました。逆に光っていた場所が黒くなります。白い色が黒になったり、黒が白になったりしています。

 

 

転じて、目に見えている色というのは、絶対的なものではない。あたる光、見る角度によっても変化する。モノの見方の基本を授けてくれてるような気がしました。

こうもとることができます。「黒」を「-」や「自分が受け入れられないこと」「間違っていると思うこと」に置き換えます。「-」に感じていたことも、見る角度を変えれば、「+」に転じることができる。

見方を変えたり、光の当て方を変えれば、違う景色が見えてきます。今、自分が見ているものは、決して絶対的なものではありません。この状態を、そのまま鵜呑みにして受け入れてはいけない。黒と白も、その間の中間色もある。「+」か「-」かだけではない。

ちょっと哲学チック・・・・・(笑)

 

私が思う「感覚で見る」というのは、こういうことだと思っています。作品に施された技術や、そこに込められたものから、自分なりの悟りのようなものへと昇華させることではないかと。

悟りというと仰々しくなりますが、見たままや、知った知識だけでなく、そこから、自分なりに消化して、何か別の意味に置き換えること。生きる上での真理のようなものにつなげること。そんなふうに思っていました。

そのプロセスを、瞬時に与えてくれるのが直観的な感動。一見、ひらめきのように感覚的に見えます。でも、そのひらめきに至る論理が、必ずあると思っているのでした。何もないところに、直観も、ひらめきもないと思うのです。素材がなければ、ひらめきようもないはず。ただ、それを意識されていないだけ。

 

ところでこの作品名は何でしょう? 何を表現した作品なのでしょうか? 制作の意図は? 今の時代に作られたものです。美術作品とはちょっと違うような気がします。技術解説のために作られているような・・・・ (⇒情報(infomation)コーナーの展示 *4

 

 

■作品は見る人の心を写す

見ている人の心や考え方を作品は写し出すと言われます。

まさにそれだと思いました。何も情報のないところから、自分の見方を引き出す時、初見なら先入観なく見れそうです。

しかし、初見で知識がないと思っていても、見る人のバックグランドがあり、経験や見聞が投影されます。それはまるで鏡のようです。

この作品は、私の物の見方を、顕著に映し出していると思いました。

全く何も知らないで見ているつもりでも、このカットを見た瞬間、切子ガラスのカットデザインであることは理解できています。

また、目に見えているという現象は、そこにあたる光の反射であることを、物理化学の原理としてとらえています。ガラスのカット、素材、角度、光、波長、反射、網膜、視神経、伝達、脳 そんなことが美術作品を見る時、潜在意識の中に組み込まれていることを感じ始めていたところでした。この作品は、そうした自分モノの見方を、はっきり意識させてくれるものでした。

作品を見るという行為が、いつの頃からか、光の反射としてとらえるようになってきてます。今は、その過渡期なんだということを理解させてくれました。

 

直観で見るゾーンを先に選んでみていても、結局、論理で見ることからは、逃れられないということも感じさせられました。

一方で、既存の評価された価値にとらわれずに、モノ選びができていたことを確認できました。全く知らなかった「根来塗」と出会い、それに価値を感じて、即決しました。

それは「impression」だったのかなぁと思うのですが、やはりその裏には、そう判断をさせる、これまで見てきた経験や、機能や技術、価格メリットなどを総合判断して、「買い」という直観を与えてくれたのだと思うのです。

また、技術解説のように見えた作品に一番、心を動かされたりと、 自分の基準で見る目というのも、育ってきているように感じさせられています。

 

■関連

                   論理派、直観派の融合地帯? ←次

 

 

■脚注

最初、印象(impression)から見ましたが、そのあと情報(infomation)から見た感想を「脚注」でレポートしてます。

*1:■01 手仕事で刻まれた幾何学の輝き

 infomation 左脳コーナーから見た図 

印象(impression)側で見た時は、蓋が開いていたのに、こちらは開いていません。同じ作品を両面から見せていると思っていたので、どういうこと? どういうトリックを使ってるの?と考えてしまいました。

同じお重を見ているのに、片側から見ると蓋が開いていて、片側からは閉じている・・・・

どうすればそんなことができる? 作品の高さも違います。おかしい・・・ 何か視覚のトリックがあるはず・・・ 間に鏡を斜めに置いてるとか・・・ あれこれ考え込んでしましました。

よくよく見ていたら、違う作品であることがわかりました。なんだ、違うものだったのか・・・・ 先に見た初の作品の蓋が開いていたことが、私にはとても印象にに残っていました。それは、投影されたカットを見せるために、わざわざ蓋をあけたと理解していたので、とても重要なことだと思っていたからです。それなのに、反対側の蓋は開いていない!  

 

「見る」という行為には、こうした先入観、思い込みが大きく影響します。この展示は「同じ作品を右脳、左脳で両面から見せている」と理解してしまうと、全てがそうだと思ってしまうのでした。

同じ素材で、同じようなカット、お重という共通点によって、全く同じ道具と思い込まされてしまいました。

人間の認知、感覚の面白さだと思います。私は「infomation」のコーナーで、印象(impression)を感じることになったのでした。

 

それぞれの作品名を確認してみると・・・・ 両方とも《切子蓋付三段重》です。 ん?同じものってこと?写真を見比べてみても、明らかに違います。狐につつまれたようです。 

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 そして、▲上の作品、てっきりお重だと思っていました。よくよく写真で見たら底面に反射して、お重に見えていたことが判明。もしかしたら元はお重で、一の重だけ展示しているのかもしれません。 

 そういえば、最初に見た時、底面のカット加工を反射させるとき、2段目、3段目の底面の影響は受けないのかな? とふと思っていたこと思い出しました。

結構、いろんなこと考えながら見ていたのね・・・・

 

 

【追記】2019.05.31

上記の左の写真、よく見たら、重なり合っておらず一重だとだと判断してました。ところが・・・・この写真では、お重に見えます。撮影した写真が、実物と違うように見えてしまったのです。また、情報側から見るお重は三角おにぎりのような形に見えました。写真のアングルや影で全く違う違うものに映る。同様なことをデュシャン展でも経験しました。
( ⇒〇【追記】(2018.11.17)十字の穴はどこに? ああ勘違い
今回は、撮影アングルによって、ベースラインの見え方の変化していました。

記憶では、このガラス作品、お重だったはずなのに、他の部分は登場させず、待機してるんだ・・・ それは、底のカットをより見せるためにあえてそうしているのだと自分の中で整合性がとれると、納得してしまうのでした。見誤ることの一因がこんなところに・・・・  ところが、これもまた、撮影のアングルによる見え方の錯覚だったようでした。

 

*2:■根来塗

「inspiration」左脳の白いコーナーの解説。
この漆器「根来塗」だとわかりました。

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今春、「根来塗」の椀を買っていました。和歌山の根来寺で作らた漆器なのですが、その時、私は「根来塗」を知りませんでした。漆器の産地は、比較的、把握している方だと思っていたのですが、これまで聞いたことがありません。秀衡塗のようにメジャーではないけども、隠れた産地がまだまだあるのかもしれません。
 
摩耗によって剥げたら、下地として塗った漆の色が’(黒)が出てくるので、それが道具の味になるといわれました。しかしその手法、他の産地でも行われているんだけどなぁ…と思っていたのです。すると、今の有名な産地の大元が「根来塗」だと聞きました。
 
昔、根来寺で学んだお坊さんが全国各地に戻って、その技法を元に、それぞれの地域の塗りとして発展させたと聞きました。

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断片で聞いていた情報が、このパネルの解説で統合されていきます。全国の有名漆器の大元なのに、その名を耳にしないという理由は、秀吉に制作された漆器が焼き払われてしまったこと。そして根来寺も衰微してしまいます。それに危機感を覚えた僧侶が全国に散らばって「根来塗」を伝えたということのようです。今、名前を聞かない理由がわかりました。
 
昔から今に伝わる有名な道具もあります。しかし、このように、優れた技術が歴史の狭間で、失われてしまっているものがあることを、美術作品を通して知るきっかけになります。
 
気に入ったお椀が欲しいと思い、結構、時間をかけて探していました。私が選ぶポイントは、日常の粗い使用にも耐えられる作りであること。それを担うのは、二度塗りしてあり、剥げても下地が浮かび上がりそれが味わいになるようなもの。きれいに塗られたものではなく刷毛目。この考え方で作られた山岸厚夫さんの椀を第一選択候補にしつつも、他にはないかと探していました。
 
ところが、自分が求めている機能の大元となる「根来塗」を目にしました。この出会いはちょっとしたサブライズです。あまり知られてはいないけども、モノ作りの源流にたどりついた気がしました。しかも、知名度がないためなのか、価格的にも値ごろ感がありました。
モノを購入するときは、結構、吟味するので、見たものをいきなり購入することはまずありません。しかしこの時は、これに決めました。そんなゆかりのある「根来塗」と、このような場所で、こんな形で再会するとは、ちょっとビックリ!
 
もしこの作品が「漆」であることを最初に認識できていたら・・・・ この黒い部分は、「根来塗」と同じ手法の下塗りだと理解できたと思います。マイナーな塗りと思っていたので、和歌山から広がったどこの産地なんだろう? と考えたと思います。
 
あるいは、最初から「根来塗」とわかっていたら、あまり展覧会でお見掛けすることがなかった塗りが展覧会で扱われている!と感慨もひとしお。この作品の見方が変わったはず。少なくともスルーはしなかったでしょう。
 
赤いライティングは、下地の黒をより浮き立たせるためだったようです。私にとっては、赤い光が邪魔で、素材をわからなくしているし、この作品の色もわかりにくくしていると感じていました。あえて黒を引き立てるために、作品と周囲の光を同じにしていたのでした。
 
このように、最初に感じた「何で赤く照らしているのだろう」というのは、この展示の肝の部分でもあったのでした。
 
ふつうの照明で展示され、漆作品であることが伝わってきたら、下地に黒が使われていることも理解でき、もしかしてこれ「根来塗」だったりして? あるいは、別の地域で発展した漆器なんだなと思えたかもしれません。そんなことを思いながら、左脳側の展示を見ていました。
 
一方、この作品の形、あまり見たことないなぁ。なんだろうと思ったはずなのに、その情報については、これ以上、興味には至りませんでした。もし過去に見たことがある形だったら、関心を持ったかもしれません。あるいは「瓶子」という言葉にも触れたことがあったら・・・・・

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きっと、このあと、どこかでこの形に出会ったら、そういえば、サントリー美術館で、この形、見たことある! と思って、ここに戻ってきて、確認をするのだと思います。
 
そして漆制作の化学反応

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これまで、漆器づくりでこのような情報を見たのは初めてです。でも、今回はあまり興味は引かれませんでした。それは、「根来塗」の由来の方がずっと興味深かったからです。「根来塗」を知っていたということも大きな影響を与えていると思います。
 
 

*3:香道を思い浮かべる

ここで、なぜか香道を思い浮かべていました。茶道、華道、柔道、剣道… 日本にはいろいろな世界を「道」へと昇華させる文化があります。そんな中「香」も道として極めています。そんなことを知ったのは、ホテルで提供された浴衣の文様が気になって調べた時のことでした。その時、日本には、まだまだ私の知りえない、雅な文化があるのだろうと感じていました。そのため、この穴は、香道と同じように、私の知らない世界の道具だと理解していました。

 

左脳側の展示を見たら、こんなパネルと展示が・・・・ 

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思い浮かべた 源氏香そのもので、枕もあたり~

 

穴は髪の毛に香をつけるためだったのでした。 

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裏側には、源氏香之図の透かしが入っていました。枕のようなカーブがなかったため、別の目的用途の箱だと思ったようです。 

香道との出会いにについて  ⇒■(2017/06/22)  /  [06/17] 静嘉堂文庫美術館:

こんな経験があるので、この箱も新たな文化との出会いかと思ったのでした。 

*4:16《薩摩切子 紅色被皿》  

あれ???? 紅色? 皿? どう見てもこれは、紅ではありません。この黒の中に紅をみつけよ! というもっと深いメッセージが込められているとか? 皿といえばお皿に見えなくはないですが‥‥ モノの形はいかようにも変わるということでしょうか?

と考えていたら、情報(infomation)コーナーに展示されたこの作品の名前だったようです。

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どうやら、そこに施されたカットテクニックを拡大して見せた展示のようです。

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もしかして深読みしすぎ?(笑) この展示は、技術の展示で、美術作品とはちょっと違った位置づけだった? いずれにしても、私にとっては、今回の展示作品の中で、初めて「impression」を受けたと感じた作品です。

以前から感じていたことではありますが、私の心を動かすのは「技術」であり、そこに自然科学の原理が見え隠れしていて、逸脱するような齟齬がないこと。さらに、そこから哲学的なことまで啓示してくれる作品に、「impression」を感じるのだと思いました。