いろいろ話題を振りまいた「マルセル・デュシャンと日本美術」 「美術は考えるんだ」というテーマの元、いろいろな人がいろいろに感じ、発信したものから目にとまったものをピックアップしました。
- ■美とは何か?
- ■アンディウォーホールとデュシャン
- ■キュビズムとデュシャン
- ■竹はレディーメイド? オリジナル?
- ■デュシャンと日本美術
- ■媒体
- ■新聞
- ■展示側の見解
- ■大喜利
- ■彼女の独身者たちによって
- ■参考
- ■関連
- ■媒体
- ■ブログ
- ■雑感
■美とは何か?
という大きな問いを世界に突き付けたデュシャンは、現代アートの父とも呼ばれています。
デュシャン(1887年生まれ)の問いは、やがて日本の民藝運動(1926年)にも繋がる世界的なムーブメントに発展します。
「日用品の中に美を見出す」そして「アートは見た者の目の中にあり、頭の中にある」
それはある意味、人間賛歌だと思います。
■アンディウォーホールとデュシャン
アートといえば、油絵の絵画がほとんどで、その表現をどうすか、ということが問題だった時期に、初めて、「泉」を提示したからこそ、エポックメーキングなわけです。
そのあとの現代美術の礎になった。レディメード(既製品)でも、見方を変えるとアートになるんだって。後の現代美術の巨匠、アンディウ
ォーホルの作品にもつながっていくわけです。
デュシャンの話を聞いて、まず思い浮かべたのは、アンディーウォーホール。私にはデュシャンよりも有名。
■キュビズムとデュシャン
デュシャンの最後はP マルセル・デュシャンと日本美術 10/14 - 人の金で美術館に行きたい
キュビズム。なんだけど、これが当時はキュビズムグループから拒絶されてスキャンダルになったって言うのを読んでびっくりした。
・大胆な動きの変化に抵抗があった
・裸体が階段を下りて行くという主題
・大きなブロック体のタイトルが非常識
キュビズムの階段を降りる女ですら、拒絶されていた。
一つの物体を多方面から見るのがキュビズム。それを動画にしたのはダメ。
デュシャンの弟を通して修正を求められる。
■竹はレディーメイド? オリジナル?
既製品を美術品とするレディメイド。頭が混乱してる時、展示の最後に日本でも同じとらえ方をした作品を観てガッテンした。千利休の竹の花入。どこにでもある物の中に美意識を持たせる。観る側の頭に挑戦状を突き付けられます。
— 沼澤栄一@沼ちゃん亀戸の電気屋 (@sakaedk) November 7, 2018
ガイドもスマホのアプリで聴きます。これも先端行ってるね。#デュシャン pic.twitter.com/mkA0A8m6lh
■デュシャンと日本美術
「ところでマルセル・デュシャンは既製品から美を見出していたけれども、日本は昔からやっていたよね」と千利休の茶器や巻物、竜頭の水墨画の複製品を並べてマウントを取ると言うものだ。確かに言われてみれば、竜頭の水墨画の複製から滲み出る違いによる美や、ただの巻物から美を見出す姿は、マルセル・デュシャンのONLY ONEが美の価値を決めるものではないという理論を肉付けする。しかしながら、あまりに日本パートの展示がおまけ程度にしかおいておらず、パワープレイ感が否めない。
しかしながら、美術展の観点から見た際に、これはある種有効な手段だと感じた。
展覧会とは、ただ作家や時代の作品を並べて紹介するものではない。どのように配置するか、どのように見せるかという《視点》が重要となっている。美術に詳しい人にも詳しくない人にも、普段気づかなかった美術の見方を美術展ないし美術館が提供し、人々に美術に対する興味を抱かせることが目的だ。
正直、デュシャンと比較するには少し無理があるのかなぁ…という印象でした。しかしながら国宝や重要文化財となっている作品もあり、それはそれとして、ぜひ足を運ぶ価値は大きいです。日本美術との関わりはとってつけた様で特にいらない。でも、展示品は一級品でした。
今回は「マルセル・デュシャンと日本美術」と題されているのだ。しかし、実際はデュシャン作品展示の後半部分に日本美術がほんの少し展示されているだけだった。デュシャン作品と展示された日本美術の関連を記す解説があるものの、美術ド素人の私にはどうしてもそれが無理やりのこじつけのように思えてしまったのだ。
確かに「時間」の捉え方として《階段を降りる裸体 No.2》と日本の絵巻物(今回は《平時物語絵巻》)を比較するのは(安易過ぎるが)納得もできる。
マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》(1937年)
しかし、「400年前のレディメイド」として伝千利休《竹一重切花入 銘 園城寺》と長次郎《黒楽茶碗 銘 むかし咄》が展示されているものの、解説を読んでも作品を観ても、頭の悪い私には「意味わかんない」のだった(^^;;;
もちろん、利休の美意識が革命的だったことはデュシャンに通じると言いたいことはわかる。でもね、展覧会とは展示作品からそれを鑑賞者に納得させるものだと思う。そして、多分、私が困惑したのは、美意識における革命という意味では同じでも、目の前にある利休(伝)&長次郎作品が決して「レディメイド」では無く、一点ものの「特注品」であることが抜け落ちていることの不思議さにあったのだと思う。確かにどこにでもある竹を使ったものかもしれないけど、同じ花入れ(「竹」は植物)は存在しないのだよ。長次郎の楽茶碗は「手づくね」なのだよ。
長次郎好きの極私的感想を言わせてもらえば、「便器」も「黒楽茶碗」も同じ陶器だからと言って一緒になんかされたくないものだわ
※追記:東博のチラシを良く見たら、下記の対比となっていた。だからと言って感想の変更はないので悪しからず(^^ゞ
☆Q.花入と便器の共通点は? 《泉》:《伝利休 竹一重切花入》
☆Q.日常品がアート? 《自転車の車輪》:《長次郎 黒楽茶碗》
で、最後に蛇足ではあるが、せめて室町からの美意識(例えば東山御物など)の流れと利休の美意識の違いを、花入れと茶碗の例からだけでも展示してくれた方が親切だと思った。なにしろ、観客は通常の平成館展覧会とは違い、圧倒的に若者や外国人の方が多いのだから。
外国の観者が、キャプションにあるような、ややむりくり感があるデュシャンと日本美術の関連付けに納得したのか否かはともかく、一般的な西洋美術とは異なる価値感から生まれた美という意味では、デュシャンの主張と類似したものを感じとってもらえたのかも知れません。
ところで、付属の日本美術も展示品は良かったです。
ただし、千利休の花入をレディメイドと言うなど、解説が強引な気が。今、アート界で起きている事件(バンクシーの絵画シュレッダー事件とか)は、すべてデュシャンが起点と言えます。
彼がいなければ「アイディア」を表現するアートは生まれなかったかもしれません。
美術史に大きな影響を与えたデュシャンの大展覧会は、今回を逃すと日本では当面やらないだろうなぁ…
でもなんでその後に利休や写楽なんだ?
日本美術とのリンクが全く見えなくて無理矢理感満載。
近美がやれば所蔵作品とのリンクもっと意味あるものになったと思うけど。過去の作品の貸し出しのお礼が云々とか
東博という場所でやる意義とかなんだか大人の事情が見え隠れするんだけれど
周りに人に聞いてもこの試みはかなり不評だ。
ただ、この後第二部で「デュシャンの向こうに日本が見える」って展示があったのは完全に意味不明だった。
シンプルな茶器や竹を切り取った花入れを「レディメイド」と言い張ったり。侘び寂びとは全然文脈違うじゃん。
歌舞伎役者の浮世絵の強調表現を「デュシャンもただ美化して描くのを拒みました」ってこじつけ感すごい。
絵巻物の異時同図法を「階段を下りる裸体」と合わせているけど、絵巻物は随時見て行くもので別に異時は同図にあるけど同時に見るものではないし。そもそも日本独自のものです!的な説明だったけど、西洋中世絵画に普通に見れるものだし。
なんで無理やり日本をこじつけで持ってきたのかわかんなかった。
そして「第2部」として日本美術とのコラボで一部屋。がしかし……「400年前のレディメイド」として手作り長次郎の茶碗とか、竹を切った伝利休の花入れとか出ている。曰くそこらにあるものに価値を見出すとかなんだが……ちょっと強引な印象を受けるぞ。レディメイドとは違くね?
デュシャンの芸術の考え方を、日本美術ではやっていたというように取り上げる展示は、それなりに工夫されていて面白いと感じた。
これは「芸術とは目に映るかたちの美しさや心地良さのあるものである」という大雑把かつ間違った認識を無意識に鑑賞者に植えつけているとしか思えなかったです。
彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも | | K&FACTORY Architects Office
じっくり作品群を見た後、同時に展示された日本芸術の展示も素晴らしく、松嶋キュレーターらしい批評精神により、日本芸術と西洋芸術との比較による、空間や時間概念の違い、表層には表れていない日本人の中に根付いている感覚を浮かび上がらせています。これも興味深かった。日本芸術部分の展示は国立東京博物館の作品群から今後も企画に合わせて入れ換えられていくとの事です。
■媒体
《泉》が公開されたときには、非難の声が巻き起こったという。こんなのはただの既製品で作者は何も創造していないし、何より下品じゃないか!《泉》を巡る議論は、デュシャンの自作自演という話もあるほどで、彼の虚実ない交ぜの企みはどこまでも深くて複雑だ。なんとも「食えない人物」である。
実態や機能よりコンセプトやコミュニケーションが尊ばれ、既存のものを組み合わせる編集は新たな価値を創造する手法として確固たる地位を占め、オリジナルと複製の差は、テクノロジーの進歩でますます曖昧になり、SNSや画像投稿サイトの登場でアーティストと観客という主体論も既に無意味なものに見えてきてしまっているのが、今の世の中だ。
日本美術はオリジナルに価値を見出さず、代々コピーを繰り返してきたと指摘していた。それはそれで間違いではないけれど、いまさらデュシャンと同じだと新発見したように喜ぶものでもないだろう。日本美術がまだモダナイズされていなかっただけで、デュシャンはモダンアートを否定した結果、図らずもプレモダンに近づいたというだけの話だ。もうひとつ私見ながら付け加えると、日本美術にはトンチの系譜が息づいている。利休もそうだし、仙厓も芦雪もそう。戦後では河原温をはじめ、高松次郎、赤瀬川原平、関根伸夫と、みんな発想がトンチやトリックではないか。むしろそこがデュシャンと通底しているように思えるのだ。
■新聞
昨日の #エクスマ劇 の冒頭で教わったデュシャン。研修が終わって自宅に戻ると新聞記事にも特集されていた。ますます興味が深まる… #デュシャン #レディメイド #千利休 pic.twitter.com/J7GVNOvN3g
— 山本やすぞう☆大河ドラマ税理士 (@yyamamotokaikei) October 25, 2018
■展示側の見解
購入してきた既製品にサインをして、芸術作品として「意味づけた」ことが、人々に大きな衝撃を与えたそう。デュシャン本人は既成概念を壊す目的はなかったのかもしれませんが、「ミケランジェロのような芸術家が自らの手で作った唯一無二の作品を鑑賞することが、それまでの芸術でした。そのなかで、デュシャンはモノを作るということではなくて、作家がモノを選ぶ行為自体を芸術制作としたわけです」
展示室に掲げられていたキャプションによれば、「デュシャンのレディ・メイドは、量産された工業製品を使用することで”一点限り”の美術品の価値を否定したといい、それは、利休が、日常でありふれたものにある美を示し、無から無限大の価値を生み出したのと通ずる」と説いて、この《竹一重切花入》を展示しています。量産の工業品の代わりにありふれた竹を切って、花入にした利休のセンスは、元祖レディ・メイドだというわけです。なるほど鋭い視点であり、確かに思想としては通じるところがあります。しかし、長次郎の黒楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を使わずに手で捏ねて造るもので、それは紛うかたない一点限りの作品であり、同じ形状のものが沢山製造されたものとは異なります。厳密にいえば、竹にしても個体差があり様々な形状をしているため、ありふれた竹を使っているとはいえ、同じものは二つと存在せず、その意味では、《竹一重切花入》でさえも一点限りと言えなくもありません。
■大喜利
「デュシャンなら何やってもありで、怒らないだろう」みたいな考えが透けて見えたのが気になった。
■彼女の独身者たちによって
■参考
〇ブロガー
撮影OK、大喜利も! 特別展「マルセル・デュシャンと日本美術」で芸術を考える - いまトピ
〇
デュシャンで考える
〇ライターインタビュー
芸術の秋だから。"考える"アート入門~特別展『マルセル・デュシャンと日本美術』~ | WIZOOM-ウィズム-│20代の「知りたいコト」を発信する情報メディア
《むかし咄》という銘がついたこの茶碗は、利休が「理想の器」をオーダーメイドしていた京都の陶芸師・長次郎(生年不詳~1589)が手がけたもの。のちに秀吉に「楽」の印を賜わったことから「楽焼」「楽茶碗」と呼ばれている。
花入に負けず劣らずフツウだが、陶器ならではの土の風合いや素朴さ、手びねりだからこその温かみや丸みが、確かに何とも言えない。
「花入然り、茶碗然り、彼は高価で華美なものが主流だった茶室という公家や武家の社交場に、質素な茶器を持ち込みました。それは、もとは王侯貴族のためにあった展示室に既製品を持ち込んだデュシャンと同じなのです」
もっとも、利休の認めた茶器が結果的に「一国一城に値する」と言われるほどの高価な「ブランド品」になったことは皮肉な話であるし、その「ブランド力」を誰よりも買っていた秀吉から切腹に追い込まれたとも言われる最期は、悲劇的でもある。
それでも、利休が大成した「わび茶」は「三千家」(表千家、裏千家、武者小路千家)が継承する茶道の一大流派となり、その精神は「無作為の美」として後世に語り継がれる伝説となった。
実は、この「無作為の美」にもデュシャンと通じるところがある。花入れなら、「どの竹を切ろう」とも「この竹をどう切ろうとも」とも意識せず、そもそも「どんな花入れにしよう」とか「イイ花入れをつくろう」とかいったことすら考えない。あらゆる邪念を徹底的に排除したずーっとずーっと先にあるかもないかも分からない。そんな「美」だ。なんだかレディメイドの「選択」から自身の「好み」を排除した過程と似ていないか。
「ポスターで《泉》と《花入れ》の共通点を問いかけたのは、何か決まった答えがあるからではなく、こういう風に自由に考えを巡らせてもらいたかったからなのです。日本人は“デュシャンだ”“利休だ”と言われると、拝まなければならない気持ちになってしまいがちですが、《泉》の感想が“白くてツルツルしていてキレイだな”でもいいのです。もっと肩の力を抜いて、好きなように楽しんでいただけたらと思います」
〇論文
デュシャンにおけるコピーの問題——レディ・メイドを中心に
■関連
〇【完全解説】マルセル・デュシャン「観念の芸術」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術
〇【作品解説】マルセル・デュシャン「泉」 - Artpedia / わかる、近代美術と現代美術
〇【ART】マルセル・デュシャンと日本美術@東京国立博物館 | てるみん ~エンターテインメントな日々~
〇「アートとはなんぞや」デュシャンの便器が教えてくれたこと|BIGLOBEニュース
〇美術史を変えた1つの“小便器” 一体どんな意味があったのか? - ログミー[o_O]
■媒体
〇デュシャンの「便器」を利休の「花入」が迎え討つ「美の競演」:フォーサイト編集部 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト
〇「アートとはなんぞや」デュシャンの便器が教えてくれたこと | 文春オンライン
〇ご存知ですか? 4月11日はマルセル・デュシャンが「泉」について、妹にウソの手紙を書いた日です | 文春オンライン
〇6 何が問われているのかを考える | 美術鑑賞を楽しむ6つの手がかり | 中学校 美術 | 光村図書出版
■ブログ
〇デュシャン《泉》の芸術哲学的考察 ―ダントーに 沿いつつダントーを超えて―
〇デュシャンの「泉」について - 現代美術は勉強すればおもしろい
〇マルセル・デュシャンの「泉」。で、なんでこの便器がアートなの?? | 大黒貴之 彫刻のない美術館
〇ギャラリー ときの忘れもの : 新連載・石原輝雄のエッセイ「マルセル、きみは寂しそうだ。」第1回 - livedoor Blog(ブログ)
〇『百年の《泉》 便器が芸術になるとき』 : Living Well Is the Best Revenge
〇マルセル・デュシャンと日本美術(続き)。 - 流山子雑録 『酔睡胡乱』
〇マルセル・デュシャンと日本美術(続き×2)。 - 流山子雑録 『酔睡胡乱』
〇マルセル・デュシャンと日本美術(続き×3)。 - 流山子雑録 『酔睡胡乱』
〇マルセル・デュシャンの便器が変えたもの - チェコ好きの日記
〇「マルセル・デュシャンと日本美術」@上野・東京国立博物館 - ワニ狩り連絡帳
〇現代アートを作った天才 マルセル・デュシャン - TENSAIS | 天才に学ぶお金の稼ぎ方
〇【美術展】『マルセル・デュシャンと日本美術』:偉大なる現代美術家作家の解説回顧展 - メモスト
〇マルセル・デュシャンとは - 大倉 冨美雄 の デザインエッセイ 〜OK Design〜
〇東京国立博物館「マルセル・デュシャンと日本美術」展感想 - Mal au coeur
〇上野で世界一有名な便器を観てきた(マルセル・デュシャン展) - 酒と旅と漫画と日ハム
〇マルセル・デュシャンと日本美術(東京国立博物館): 春波浪雑記
〇マルセル=デュシャンに便器の作品があるんですが、あんなもんど... - Yahoo!知恵袋
第二部の日本美術との比較がおかしくねえ?
で、今回の展覧会ではデュシャンそのものより物議を醸しているのがこの展示の第二部だ。「デュシャンの向こうに日本がみえる」とのことだが……。ハッキリ言おう。みえません! 以下パッとわかるおかしいポイントを挙げておこう。
何でこんなわけわからなん展示を・・・・?
当然だが東京国立博物館は美術のプロである。これらの展示はおかしいとわかってやっているだろう。ではなぜこんなことをやっているか。それはデュシャンと同じく謎掛けをしようとしているのではないか。デュシャンが『泉』でアートフォーラムを試そうとしたようにトーハクも俺たちを試そうとしているんだ! ただ単に展示を鵜呑みにするのではなく積極的に考える美術鑑賞をさせるためにわざとおかしなパネルを置いて、「それっておかしくねえ?」という思考を誘発しようとするのがこの第二部の目的に違いない!既存の芸術観念を疑ったレディメイドと同じく、美術館の展示も疑われるべき対象だと言いたいのですね!だからこの第二部は
, -――- 、
/ ヽ
| ノ ー | 全然おかしくありませーん
■雑感
企画者のとらえる日本美術と、ちょっと違う気がする・・・・と思ったのは、多くの人が感じているのと同じでした。ところが、なぜこんなに賛否の「否」の部分が話題になっているのかが理解できませんでした。
それは、「自分が感じたことと違う」ということをどう受け止めるか。展示は企画担当者のとらえ方の一つと思っているから、そういうとらえ方もあるわけね。というようにしか思いませんでした。
「美術展は、正しい情報を提供する場ではない」ということを、ある時から、理解したから。美術展というのは、企画者の考えに基づいて企画されたもの。その解釈が正しいかどうかは問題ではなく、一つの見解を提示する場。そのように、とらえるように変化しました。そのため、賛否がいつになく聞こえてくることに、一種の違和感を感じていました。
これまで、美術展をどうとらえてきたかを改めて振り返ってみました。確かに、かつては美術館が提供する情報というのは、精査され検証も加えられていて正しいものなのだと思ってました。(なんか変・・・・と思いつつも)ところが、ある展覧会で、明らかにおかしいと思う解説があり、関係機関に問い合わせてみたことがあります。すると、その記載は間違いであることがわかりました。訂正の申し入れをしないのかという質問に対して、それぞれの解釈がありますから・・・・という返事がきて、外野がとやかく言うことではないと悟りました。
この件で、美術展というのは、必ずしも正しいか情報が提供されているわけではないということ。企画者の捉え方の発表の場なのだと理解するようになりました。
またあえて間違った(?)情報を展示して、考えるよう仕向けるという展示にも遭遇したことがあります。おかしい、変・・・って感じることがポイントで、そこから、自分で考えていくことが大事なんだと思うようになってきました。
ある人にとってはおかしいかもしれないけども、また別の角度から見たら正しいということもあるかもしれないです。あるいは、企画者がそのように解釈したのはなぜなのかと想像しながら、理解をするというのも、一つの見方なのだと思っています。
美術の解釈はいかようにも解釈ができ、正解、不正解はないもの。と思えは、どんな解釈を提示されても、それはそれとしてとらえて、自分で考えればいいと思うのでした。