「落合陽一 、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然」 なんでしょう? このタイトル。タイトルからしてよくわらない。わからないけど、わからないなりに、自分の解釈のしかたもあるはず。会場の解説パネルを、まずは見ないで、何を受け止められるのか試してみることにしました。
■落合陽一って何者?
落合陽一‥‥ 以前から気にかかっていた人。最初に見たのは、サンジャポ。黒服着て、ハットをかぶって「現代の魔術師」とか言ってる。何者なんだ? 科学者だって? キワモノみたいに思ってました。俗に言われるテレビに出てる研究者は‥‥ と内心色眼鏡で見てました。
でも、短い発言がよくわからないなりに鋭いと感じられたし、なんか深いって思った。只者じゃなさそう。経歴を見たら‥‥ 情報学群、情報メディア創成学類って? 2007年設立。そういうことなんだと、納得したら親近感が湧いてきました。
■横をかすめていく人
科学とアートの融合。これからのアートを考えた時、落合陽一さんの言葉が目の前を何度となくよぎっていきました。
これからの芸術・・・・ そして科学
「新しい芸術文化の未来」 個人的には、新な時代が生み出していく科学やテクノロジー。それらと芸術がどう融合し新しい世界をつくりあげていくのかということに興味を持っています。こんなことも、芸術? こういう美のとらえ方もあるんだ・・・という全く新しい価値観が、これまでになかった科学という力を得て生まれてくる未来像に関心があります。
■告知:第11回 shiseido art egg」によせて(資生堂ギャラリー) - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記より
ブログ内検索をしてみると、科学と芸術の融合を考えた時、猪子さんと落合さんの存在が目に止まりました。同じ方向性の人と捉えていたようです。タイムリーにも、twitterで、落合さんと猪子さんは、同じなのか‥ という話題が出ていました。実際に作品を見ていない時は、同じ方向性に見えてしまいました。でも、見たら違うことは明か。
■思想、哲学も視野に入れた科学
落合研究室は、科学はもちろん、思想や哲学も扱うと聞きます。それは科学を扱う人にとって必要不可欠なこと。しかし学生時代、そちらの分野は、避けてしまいがち。今頃になってその重要性に気づいたわけですが‥‥
「わび」「さび」「幽玄」の世界を科学を使って表現しているらしい。今だに侘び寂が何かもわかってないし、「幽玄」も雲をつかむよう‥‥ でも、数年前と比べたら、少しは感覚的につかめてきたようにも思います。
科学を使ってその世界をどう表現されているのでしょうか?
■展示「Imago et Materia」
幽玄を扱った展示(正確にには違うようですが‥)が、4月に行われていました。行きたいと思いながら、行く機会を失してしまいました。
展覧会のタイトルは、ラテン語で、「イメージと物質」
その間にある表現の可能性を探求する中で、日本語的な「美」を言語化すると「幽玄」となる。この言葉は、
・「幽」は、「イメージ」(Imago )=移ろうかすかなこと、
・「玄」は、「物 質」(Materia)=根源的で確かなこと
上記の日本的な視覚的部分をなくしてしまったら・・・ どのような視覚表現になるのか‥‥ を示そうとした展示と理解。
次のような展示に至ったようです。
・「質量なく移ろう五感のイメージ」
→(物質としての存在、実体を伴わずに、五感を刺激し移ろうこと?)
。「解像度の奥深さがある物質」
→(本来は見えなかったとされるものが解像度を上げることで視覚化される。つかみどころのない感覚的なものが解像度を上げたことによって見えてくる現象?)
上記のような展示を考え続けた結果、壊れやすく消えやすいもの(物質?)を用いるという制作スタイルが確立。それによって、工業化社会と大衆メディアによって均質化され薄まり(⇒再現性が高まり、いつでもどこでも同じようなものを見ることができるということ?)ビジュアルとしてのモチーフがなくなってしまった状態にもかかわらず、幽玄への憧れは未だ残っている。そんな日本的な美的感覚と身体性を見ることができるだろう。
(参考:Yoichi Ochiai Imago et Materia|落合陽一 映像と物質 | ART & SCIENCE gallery lab AXIOM|)
つまりは「幽玄」ということばからイメージされる日本的な視覚イメージはあるのだけれども、それをなくしてしまって(これが漂白?)、機械的なテクノロジーを目の当たりにしながらも、なぜかそこに「幽玄」を感じてしまうことから逃れられない日本人としての感覚。身体にしみ込んでしまった感覚からは、逃れられない。そんな展示だったのかな? と想像していました。
落合陽一が作り出す、日本らしさを取り除いてしまった「幽玄」の世界。見て見たかったなぁ・・・と悔やんでました。
■ 落合陽一 、山紫水明∽事事無碍∽計算機自然
またいつか機会がないものか‥‥と思っていたら、下記で紹介されました。
今回のテーマも茶室とか「幽玄」が関係しているようです。詳細を見てしまうと先入観を持ってしまうので、ざっと目を通しただけで、場所の情報を参考に訪れてみました。
本題に入る前に、前置きが長くなってしまったので、一旦ここで中締め。(続)
■これまでの落合陽一さん関連
〇いつの時代にも表れる
そしていつの時代でも、こういう方は存在しているのかもしれません。
岡本太郎などもその一人なのでしょう。縄文という土器の写真を芸術的に切り取り、考古学の標本的な資料の世界に、違う価値観を提示しました。カハールに対して「芸術的な解釈だ」と言われたのと同様、岡本太郎が縄文土器を撮影すると、違ったものに見えると考古学者に言われていたという話を思い出しました。今や、縄文がアートの一つのジャンルとして認知されるに至りました。
科学とアートを融合させることのできる存在。両方の能力を持ち合わせ、さらに広い知見を持って物事に取り組む。何年かに一度、そういった人が現れるように思います。今でいうと、落合陽一さんや、猪子寿之さんなども、そんなお一人なのかなと思いました。
■科学と芸術の融合 より
科学の世界には、赤須氏のように人文の世界を行き来できる科学者がいます。
最近、ミケランジェロについても、単なる解剖学的な考察ではなく、哲学的、人文科学的観点からも考察をされた篠原 治道氏の『解剖学者がみたミケランジェロ』を目にしました。科学の世界にも両刀遣いの方がいらして、科学的にも、哲学的にも納得させてくれる解説をされており、 おもしろさを感じていました。最近注目の落合陽一さんも、哲学的観点からメディアアートを語ることができる方だと聞きます。
■思考:南方熊楠から心に浮かぶよしなしごとを‥‥(自分用メモ) - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
⇒⇒科学とアートの垣根を壊す21世紀の魔法使い【本の紹介003】『魔法の世紀』落合陽一 - のらりくらり、ブログ
その他にも、科学の領域を踏まえつつ、哲学、人文科学もふまえたアプローチをする人たちが登場しています。人文科学の住人を説得できる力を持っている方がいらっしゃいます。ところが、美術の世界から、科学をふまえて語る人に、まだお目にかかっていません。(知らないだけなのかもしれませんが)美術の世界から科学を理解し、この世界を語るとどう見えるのかも興味があります。