根津美術館の《燕子花図屏風》と東博の「名作誕生」で展示されている《八橋蒔絵螺鈿硯箱》 両作品は『伊勢物語』の「東下り」八橋が元になっています。伊勢物語って何? 東下りって? 八橋って? という方は、ぜひ両方をご覧になると理解が深まるのでお勧めです。
*写真の撮影、掲載は、主催者の許可を得て掲載しております。
- ■『伊勢物語』がベースになった《燕子花図屏風》
- ■和歌をもとにしているらしい
- ■「名作誕生 つながる日本美術」で取り上げられていた「伊勢物語」
- ■東博「名作誕生」 第3章 古典文学につながる
- ■「伊勢物語」 第9段「東下り」とは
- ■伊勢物語とはなんぞや?
- ■感想
- ■まとめ
- ■伊勢物語 最初の出会い
■『伊勢物語』がベースになった《燕子花図屏風》
《燕子花図屏風》の解説には
引用:ニッポンの国宝100 vol3より
『伊勢物語』の第9段「東下り」の一節に基づいて描かれたと言われ、そこで詠まれた歌が紹介されます。
以前、根津美術館では、屏風とそれに関連する歌にスポットをあてた企画が行われたこともあったようです。
「国宝 燕子花図屏風ー歌をまとう絵の系譜」根津美術館〜5月15日(日) https://t.co/PdqAvubJFp 古来より歌と絵は密接な関係がある。この《吉野龍田図屏風》の画中の短冊には吉野と龍田川、桜と紅葉が歌われている。 pic.twitter.com/mRXvAOfCuf
— 鈴木芳雄 (@fukuhen) 2016年4月12日
《燕子花図屏風》の元になった「伊勢物語」が絵巻の描写された部分が展示されたようです。
このような古典に由来する話を見ても、今まではお手上げでした。
・『伊勢物語』はどんな物語なの?
・何段まであるのかしら?
・9段はその中でどんな位置づけで、何が書かれているの?
・「東下り」って一体何を意味するのでしょうか。
・それぞれの段にテーマがあるのだろうけどどんな流れなのか。
皆目見当がつきません。こんな状態から、それを理解して、この歌の意味を理解するのは無理と思いました。
ちなみに今年の解説はこちらです。
2018 根津美術館 《燕子花図屏風》
どんな企画展で見るかによっても、何に注目するかが変わります。最初に「伊勢物語」と「和歌」との関係を見せられても、もしかしたら拒絶反応を示していたかもしれません(笑)
他の作品を見ていても、古典が参照されたという解説が出てくると、いつも脇に置いて見ないふり‥‥ そのうち何かきっかけがあれば、理解できる時が来るだろうからと気長に待つことにしていました。(しかし、多分それはないだろうと…心の中で思っていました。)
■和歌をもとにしているらしい
その後、「東下り」で読まれた和歌が、どんな和歌だったのか紹介されているのを目にしました。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
「かきつばた」という韻を踏んでいるようです。しかし、歌は紹介されていても、その意味の解説にまでは触れられていません。
やっと、その意味を記載されているのをみつけました。
唐衣を繰り返し着てよれよれになってしまった「褄(つま)」、そんな風に長年つれ添って親しく思う「妻」があるので、その衣を永らく張っては着てまた張っては着るように、はるばる遠く来てしまったこの旅をしみじみと思うことだ。(『古今和歌集』〈新日本古典文学大系5〉新井栄蔵ほか校注 岩波書店)
引用:根津美術館の「燕子花図屏風展」を激オシする3つの理由 | 是なまがつおより
しかし、その意味がわかっても、《燕子花図屏風》とどういう関係があるのかまでは、わかりません。9段とこの歌との関係も‥‥ どういう状況で詠まれた歌のなのでしょう。こういうことって常識なのでしょうか? みんな理解して見ているのかなぁ‥・と思いながら。
■「名作誕生 つながる日本美術」で取り上げられていた「伊勢物語」
〇留守模様という表現
《燕子花図屏風》を見た翌日に、東博で行われた講演会に参加しました。登壇された3名の方がそれぞれに、「私の3点」として紹介されました。その中のお一人、河野元昭先生が、《八橋蒔絵螺鈿硯箱》を3番目に推薦され、伊勢物語との関係を、《燕子花図屏風》とともに解説されました。
つながる日本美術 特別講演会に参加。笑いの絶えない講演会、楽しかった~ 予習もバッチリ!? 昨日、根津で燕子花図屏風見学したら、東博に八橋蒔絵硯箱ありとの情報。本日、河野先生お勧め作品の2番目が、この作品。側面を広げ展開図で見ると全体像がよりわかると恩師の研究を紹介されました。 pic.twitter.com/miPwzkdETa
— コロコロ (@korokoro_art) 2018年4月14日
そこで紹介されたのが「留守文様」という日本美術の表現方法でした。
〇描かず想像する妙
この歌は「伊勢物語」の東下り「三河八橋」で詠まれたもの。工芸品に「八橋」と「燕子花」があしらわれていたら、当時の教養人は、伊勢物語のこの歌を思い浮かべ、モチーフにしているのだと想起して楽しむことが、洒脱な遊び心だったということがわかりました。
さらに転じて、燕子花だけ描いた屏風を見て、ここに「八橋」の存在をイメージし、伊勢物語の東下りの一節であることを理解する高尚な当時の遊び心だったようです。
〇会席料理に見た「留守文様」
高尚なお遊びとのことですが、「留守模様」を感じ取るという経験を私もしたことがあります。昨年の5月。海北友松展に行き、祇園の「迦陵」というお店ででランチしました。そこに出てきた焼八寸を見て思っていました。(⇒■祇園 迦陵 花見小路で会席料理 - )
奥の橋げたは八橋じゃない? ってことは燕子花 がその周りに咲いていることをとを意味しているわけね。つまり5月を表しているってことなんだわ! と思いながらいただいていました。
八橋から、見えない燕子花を想像して、5月の季節をイメージしていました。光琳は燕子花だけで「留守文様」を表現しましたが、「八橋」だけでも「留守文様」効果があるのです。
昨年は、上記の八寸を見て、宇宙を感じて、茶の湯で感じた宇宙と重ねていましたが、今年は「留守文様」ということを知って、自分も知らぬうちに、それを感じとっていたことに気づいたのでした。
■東博「名作誕生」 第3章 古典文学につながる
講演会を聞いて、鑑賞に向かいました。三章でまさに、「伊勢物語」と「源氏物語」を取り上げていました。
↑ フライヤーより
古典文学で心に残る場面というのは、その場面を思い起こさせるモチーフがあり、それらを組み合わせて美術工芸品として愛されてきたのだそう。
「伊勢物語」からは「八橋」「宇津山」「竜田河」が取り上げられていました。
かきつばたが咲き乱れる沢に橋が描かれていれば「八ッ橋」
蔦と楓に彩られた山道は「宇津山」
という共通認識がされていたと言います。そして場面から派生するイメージが絵画や工芸表現として用いられたとのこと。
留守文様・・・・人物を描かず、物語を想起させるモチーフだけで描くこと。
参考:特別展『名作誕生-つながる日本美術』(東京国立博物館で開催) | みどころ | インタビュー「一木の祈り」
■「伊勢物語」 第9段「東下り」とは
〇旅の途中で詠んだ歌
東国に下る歌人 在原業平一行が、三河国の八橋で一面に咲く燕子花に心打たれ、はるか遠くまで来たこと、置いてきた妻を思い歌を詠んだ‥‥ その歌が、
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
(何度も着て身になじんだ)唐衣のように、(長年なれ親しんだ)妻が(都に)いるので、(その妻を残したまま)はるばる来てしまった旅(のわびしさ)を、しみじみと思うことです。
引用:高校古文『唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ』わかりやすい現代語訳と品詞分解 / 古文 by 走るメロス |マナペディア|
やっとつながってきました。
八橋の一帯は、川の流れが8つに分かれておりそれぞれに橋が渡されていたそうで、そのため八橋だったようです。
〇教養 たしなみとしての「伊勢物語」
当時、京都の公家や寺社、裕福な聴衆は、教養、たしなみとして「伊勢物語」を知っており、「八橋」「燕子花」といえば「東下り」というように思い浮かべる素地があったのでした。光琳も町衆ですが、学問、芸事に精通いた趣味人で、素養を身に着けていた人です。
そして、一足飛びのチャレンジ。燕子花だけを描いて、東下りを想起させようとしたのだということがわかりました。これが「留守文様」なのでした。
〇そぎ落として見えないものを想像
モチーフの元となった「伊勢物語」の「東下り」「八橋」のアイコンは、ほぼそぎ落とされ「燕子花」だけ。そこれが粋であると同時に、そこからメッセージとして受け取ることができるクライアントとの出会いにも光琳は恵まれたのだと思いました。
だから、もう一つの「八橋図」は橋を描き、タイトルにも八橋と解説したのだと理解しました。
↑ wikiphedhiaより
■伊勢物語とはなんぞや?
やっと、一番最初のスタートラインに戻ってきた感じです。
・定家本によれば全125段からなる。
(⇒ようこそ 伊勢物語ワールドへ こちらに125段の概要がありました。
⇒1段はもっと長いと思っていましたが、それほどでもないようです)
・ある男の元服から死にいたるまでを数行程度の仮名の文と歌で作った章段を連ねて描く。
・内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたる。
・単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語
伊勢物語は一人の男の一生を追う物語。(←これをまず知りたかった)その男は、自分は京にいない方がいいと思うようになります(なぜ? その理由は?)。そのため、東国に住もむためによいところがないか探しに行くというのが第9段の「東下り」。(全体の中で、どういうお話なのか‥‥ ここがわからないと雲の中にいる状態)
その道中、川が8股に分かれて流れる八橋という場所に、燕子花が咲いていた。そこで弁当を食べていたら、じゃあ、「かきつばた」の韻を踏んで歌を詠もうじゃないか! ということになり、その一人が詠んだ歌。それが、張りのあった唐衣が体になじんでしまうほど、長旅をしてきた。その間、妻を京に置いて、さびしいなぁ・・・ということだったのでした。
そのシーンがこちらになります。
引用:特別連載 「海を渡った日本の至宝」第4話 「八橋図」を待つ「燕子花図」|地球の歩き方編集部・取材&日記
↑この軸が「名作誕生」でも展示されています。
■感想
〇日本絵画史を代表する絵
根津美術館の作品解説によれば、「江戸時代のみならず、日本の絵画史全体を代表する作品といって過言ではない」と記されています。そういえば、京都で行われた「国宝展」の表紙は《燕子花図屏風》でした。
国宝展 図録
(心の声は、数ある国宝の中で、これが表紙に選ばれるんだ・・・って思っていました。いつもなら、見たことがある作品の解説は、学芸員さんによってどんな違いがあるのか、必ず見るのですが、国宝展では、他のことを追うので手一杯。燕子花図屏風の解説を読む余裕もなかったし、このころは、興味も薄れていたことがわかります。)
(話題がはずれますが、東大の方が紹介した勉強法の一つ、アンダーラインを引かないのだそう。私は引くことに意味を感じています。その時にどこに関心があり、何をとらえていていたか。逆に何をとらえていないかが、こうして振り返った時にわかるのが面白いので)
日本絵画史全体を代表? 以前だったら、これが? 所有館の自負も大きのでは? と思ったと思うのです。今なら、それがわかる気がします。
〇八橋のもつ意味を知る
琳派においてたびたび描かれてきたという「東下り」の一節。その中でも「八橋」は日本の美術史上、重要なモチーフとして何度も描かれてきたことを今回、知ることができました。工芸の意匠として用いられていることを、《燕子花図屏風》を見たあと「名作誕生 つながる日本美術」を見ることでより理解が深まりました。伊勢物語「八橋」が持つ意味もわかってきました。
〇「光琳と乾山」「名作誕生」をつなげて見る効果
「光琳と乾山」「名作誕生」のつながりに言及されている方もいらっしゃしました。
スタッフです。東博の「名作誕生」展と根津美術館の「光琳と乾山」展とを銀座線でハシゴすると、光琳の八橋蒔絵硯箱と燕子花図屏風が見られる、というステキなことに、今日気がつきました。
— 室瀬和美 (@KazumiMurose) 2018年4月13日
単に作品つながりだけでなく、「日本の文学」と「作品」とのつながり、その中でも八橋がいかにモチーフとして題材となっていたかが理解できます。
〇八橋からの広がり
そういえば、京都の八橋は、八橋の形を模したのでしょうか? きっと、東下りの八橋をモチーフにしているはず。と思ったら、その説と、琴の八橋検校の琴という説あるようです。聖護院八つ橋のパッケージは、燕子花に八橋です。
〇「東下り」は既知だった!
「東下り」も琳派でよく用いられたモチーフ・・・・・ とわかると、つながりました! 鈴木其一展で、東下りをモチーフにした軸を、鈴木其一と守一の親子の軸で見比べていたのでした。
鈴木其一展 図録(p248)
この時は、道中、富士山を見ていつくしんだ光景ととらえ、昔から富士は日本人の心のよりどころだったんだなと思っていました。「東下り」が何かは、気にならず、参勤交代のようなもので、定期的に京と江戸を行き来をしているのだと理解していました。この展示のに対する興味は、描表装に目が向いており、親子でどう描き方が違うのかの方が、私の中でウェイトが高かったのでした。
こちらの解説も、当時は全く見ていませんでした。今見直すと、その内容を理解することができようになっています。
他にも其一はこのような軸も描いているようです。
鈴木其一《業平東下り図》。主人公が京の都を去る『伊勢物語』「東下り」の段。富士山を振り返りながら旅路を進む本図も繰り返し描かれた題材。古典が琳派の画家にとって重要なテーマだったことがわかりますね。(山崎)@山種美術館 #文化遺産 pic.twitter.com/oMmHNZLdC1
— 山種美術館 (@yamatanemuseum) 2015年9月9日
〇日本文学のモチーフを知ることによる広がり
文学が日本美術に影響を与え、モチーフとして取り入れられているということはなんとなく理解はしていていました。しかし個々の作品がどんなものかわからないと、内容と一致させることができません。
しかし、「伊勢物語」は、モチーフとして代表的なもので、どんな作品で、どのようなことが書かれているか理解が深まると、文学由来の作品にも目がとまるようになりました。現に、其一の図録で「東下り」を探していても、これまでスルーした絵に目が留まっているのです。
伊勢物語でよく取り上げられる部分が、他にも 「宇津山」「竜田河」があると知ると、こちらにも興味が向き始めました。「つながる日本美術」の後期は「宇都山」をとりあげ、下記の《蔦細道図屏風》が展示されるそうです。
この作品は、初めて《燕子花図屏風》を見た時に見た屏風で、よくわからないなりにも、大胆で何か心惹かれた作品でした。最初に見てから3年。文学的な解釈はこれまで無視して来ましたが、やっとスタートラインに立てた気分。ぜひ、見に行きたいと思っています。
■まとめ
文学的なものがベースにある絵画は、一生、理解できないかに思っていました。でも、きっかけだったり、展示の企画によっても興味を持たせてもらえることがあるものなのだと思いました。
嫌いなものを無理に食べる必要はないと思っています。しかし、ちょっとしたきっかけを見逃さずうまく利用すると、絶対無理! と思っていたことがそうではなくなることを今年は体験できました。
「日本の空気を読む」という気質は、何もないところから読み取るという文化も影響しているのではないかと思われました。描かれていないものから、その先に存在するものを読み取る。果てはイメージだけで勝負。
描き手の鑑賞者へ挑戦状のようでもあります。鑑賞者もそれにこたえられるようにお互いが切磋琢磨して文化が形成されてきたことが見えてきました。このような文化、歴史が、日本人の根底に流れているのかもしれません。
■伊勢物語 最初の出会い
琳派関連の書籍を見ていたたら、始めて観た琳派展「細見美術館 琳派のきらめき」の図録の中に、伊勢物語の色紙がありました。
いい寄る男を女性が断る場面を対角線上に男女を配置することで、効果的といった解説があったのですが、伊勢物語はどういう関係なのかと思っていました。
「伊勢物語」がよくモチーフに取り上げられているということでつながりました。
当時は、教養やたしなみとして「伊勢物語」が用いられたのでした。
このシーンは、伊勢物語 第75段 「大淀」でした。