木島櫻谷の作品《寒月》を酷評した漱石。漱石の酷評の真意は? それを探ってみるため、木島櫻谷と夏目漱石の年譜を並べてみました。それによってみえてくること。知っているようで知らない漱石の横顔も見えてきました。
*写真は主催者の許可を得て撮影しています。
【追記】2018.03.08 漱石が朝日新聞に入社した経緯
【追記】2018.03.08 妙なシンクロ、一致は偶然?
【追記】2018.03.08 師:景年の教え
【追記】2018.03.08 漱石の横顔
【追記】2018.03.08 漱石のアンドロイド
- ■夏目漱石の年譜
- ■木島櫻谷の年譜
- ■晩年の作品 大正~昭和
- ■同世代を生きた人たち
- 【追記】2018.03.08 漱石が朝日新聞に入社した経緯
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漱石が酷評をしたあと、櫻谷の活動はどのように変化したのでしょうか? それがきっかけで、櫻谷は画壇から離れた‥‥ といった印象を受けました。具体的には制作活動には、どのような変化がみられたのでしょう。あるいは、酷評をした漱石は、酷評前、どのような活動をしていて、酷評後、何か変化があったのかが気になり、調べてみました。
というのも、漱石は朝日新聞記者時代に酷評したというので、どうして朝日新聞の記者をすることになったのか、それまでは何をしていて、作家活動はいつから始まったのか。私は新聞記者のあと、作家活動を始めたのだとばかり思っていました。
ところが、分館長に「漱石の言葉を、美術界は、どう受け止めていたのか?」という質問をしたところ、「文豪はそういうふうにとらえるのか‥‥ といった程度。影響はなかった」と伺いました。
「文豪?」漱石は新聞記者だったのでは? 分館長のお話から、記者時代、すでに文豪だったことが伺われます。作品も発表していたということは、どんな作品なのでしょう? 漱石のことが気になり始めました。
また、漱石のイギリス留学のことは、南方熊楠を調べていた時にも出てきたのですが、時代的はタイムラグなどどれくらいだったのかも、気になっていたところでした。江戸から明治に変わる瞬間に生まれた人たちが、どんな人生を送ったのか。
全国に散らばる優秀な人材は、東大の前身と言われる「大学予備門」で一度は顔を合わせることになります。しかし、そこからまたそれぞれの人生が始まって自分の貫こうとする世界にはばたいていく。この時代の人の年譜を重ね合わせてみるとおもしろいかも‥‥と思いました。
そこで「木島櫻谷」と「夏目漱石」の年譜を、年代で重ね合わせ、同時代を生きた「横山大観」「南方熊楠」も加えてみました。
赤い部分が漱石が《寒月》の酷評をした1912年、大正元年です。
酷評の前後の2人の年譜を比較してみます。
■夏目漱石の年譜
〇朝日新聞入社
朝日新聞に入社して(1907年)5年後(1912年)のこと。漱石は記者時代を経てから、小説家になったのだと思っていたのですが、すでに「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「野分」をホトトギスに発表(1904)しており、文豪の位置づけであったことがわかりました。
その上で、朝日新聞に入社し、「虞美人草」などを職業作家として新聞連載するという立場だったことがわかりました。ジャーナリストとして活動するかたわら小説を書いていたのかと思っていたのですが、そうではなかったようです。
漱石の《寒月》への言及は、小説家「漱石」としての言葉でもあったのでした。
〇新聞社の前は
その前は、何をしていたかというと、成績も優秀だったようで、学校の教師として、点々としていました。
〇留学
英語教育法研究のためイギリスに留学(1900-1901) ちょうど、南方熊楠と入れ替わるように、旅立ちました。この時、パリ万博も見学していたようです。熊楠が長きに渡り、アメリカ、イギリスと渡航していたのに対し、漱石はわずか2年で帰国。それは精神的に不安定になってしまったからと言われています。
〇漱石とこころと病気
文豪のイメージの強い漱石。写真からも自信が満ちているように感じていたのですが、実は、子供の頃から家庭にトラブルがあり(黄緑)ました。高齢出産の五男、望まれない出産だったようで、母は周囲に詫びていたと言います。精神的にも追い詰められやすい生い立ちなども伺えます。
生家は、名家ながらも時代の変化で傾き、生まれてすぐに里子にだされました。その不憫さに姉がもどし、のちに塩原家の養子に。そこでもいろいろ問題があり、それはのちの新聞記者時代まで養父に無心されることに。
また3歳の時の疱瘡あとが残り、からかわれたという、精神的な部分で満たされていない幼少期を過ごしたことがわかりました。
黄色・・・精神面
水色・・・病気
環境に加え、体質も虚弱で、小さな時から、いろいろな病気をかかえています(疱瘡・トラホーム)大学時代は、腹膜炎で落第。そのことも精神的ダメージを与えたようですが発奮材料となって、以後、主席をとることになりました。大学で教えていた時に、厳しく叱咤したところ、その生徒が自殺をしてしまうということも。《寒月》を酷評した時期は、重い胃潰瘍をかかえ、手術をしたり、痔で悩まされていた時期とかさなります。
〇酷評後の活動は?
その後、漱石は、どんな作品を残し、どんな活動をしたのでしょか? なんと4年後に胃潰瘍が直接の原因で亡くなっていたのです。最後、また、精神的に参っていたようで、リューマチも発症していました。亡くなる3年前の作品があの有名な「こころ」だったことを知りました。
文豪のイメージがあって、強い人。と思っていた漱石だったのですが、知らない横顔がたくさん見えてきました。「櫻谷を酷評した」というエキセントリックなエピソード。それによって、漱石の生い立ちや心情から読み取れる何かがあるようにも思えてきました。
■木島櫻谷の年譜
〇生い立ち
漱石の10年後に誕生。櫻谷の父は、狩野派の絵師の弟子、内裏造営障壁画制作にも名を連ねるほど。和歌、絵、茶の湯に造詣が深く、知識人、芸術家の来訪が絶えない家庭で、16歳には、景年に弟子入り。
〇画業
5年後の21歳からは、各賞に出品、受賞を毎年繰り返し、名実ともに実績を残す。
◇漱石との比較
漱石の同年代のそうそうたる面子に加え、10歳下の若き画家の活躍。新しい時代に向けて、それぞれが表現するエネルギーを爆発させようとしている時、漱石は、イギリスに向かっていました。しかし、気持ちは追い付かない。自分が滞在する前には、熊楠がネーチャーへの発表などの実績をあげていました。日本では、自分より10歳も若い画家は、どんどん実績をあげ認められている。
漱石の教員としての経歴。しかし他の華々しい同時代の中の実績と比べると、単なる教師経験にすぎません。どこかに焦りのようなものがなかったのでは? と想像されました。
そこにもともとの病気がちな体質や、家族のトラブルは、メンタルにも強く影響していた・・・? 幼少期のからかいなど、精神形成に大きく影響していたのでは? と感じさせられました。不自由なく育ち、才能を伸ばした櫻谷に対する反感?
〇文展入賞
美術展が文展という形で新たに文部省の管轄となりました(1907) 櫻谷は、第一回から入賞を続けます。漱石その文展が始まる年、教職を辞し、朝日新聞に入社するという妙な一致を見ます。(同じ管轄にいるのがいやだったとか?)
ちなみに、1911年 漱石は文部省からの文学博士号授与を辞退しており、その翌年、1912年、《寒月》を酷評をしたという、漱石にとって、文部省に対して、何か思うとことがあったのでしょうか?
〇漱石の酷評後
漱石の酷評によって、櫻谷はどう変化したのか?
その翌年は、文展の審査員になり、さらに出品を続けます。そして1920年には、帝展が始まり第二回からは審査員を努めるなど、漱石の酷評などどこ吹く風といった感じです。
1929年の10回までは審査員。11~14回までは、作品を出品しています。この間、54歳~57歳で、1938年62歳で亡くなる5年前までは、第一線で活躍しているように見えます。
会場流されているホームビデオは、ちょうど、この時期にあたり、55・56歳の頃です。
昭和に入ってからは、世間とは遮断して、隠遁状態といういうように伝えられるのですが、帝展にも出品、全くその印象は感じられず、伝えられるイメージとどう整合性をつければいいのか、今でも迷ってしまいます。
この時の作品は、「厩」と「角とぐ鹿」動物たちの実にやさしい表情が見られます。
〇櫻谷の評伝について
櫻谷も晩年、精神的に・・・ といったことがささやかれているようです。しかし、残された作品となくなる5年前のビデオ。
そこからその片鱗を読み取ることが私にはできません。心から安らかな時間を過ごしているように感じるのです。
年譜の後半期、大正から昭和の活動を、図録から書き出しました。
ご覧のとおり、没年の最後まで制作活動が行われていました。画壇から一線をひくと言っても、コンスタントに制作活動が行われています。強いて言えば、若い時は、筆が早く、1年に何作品も制作していたことから考えると衰えていると言えるのかもしれませんが…
昭和の作品については、制昨年が特定されていないようで、大正~昭和になっていました。
■晩年の作品 大正~昭和
《菜園に猫》大正〜昭和時代 《鹿の母子》大正〜昭和時代
《雪径駄馬》大正~昭和 華鴒大塚美術館 《渓上春色》大正~昭和 華鴒大塚美術館、
■同世代を生きた人たち
漱石と大観は、1歳違いでほぼ同年代。同年代のよしみというか、同じ明治いう荒波の時代に生を受けたという連帯があったのでは? と‥‥ 文展で大観vs景年という構図があれば、大観を推したくなる? また東京vs京都 となると、東京中心を支持したかった?
幼少期環境が、メンタルやモノの考え方の基礎を作った部分は大きかったと思われます。この時代に生まれた、大観、熊楠など、比較的長生きだったので、漱石も長きしているのだろうと思ったら、49歳の早逝でした。
経歴は、漱石も華々しいですが、結局は、大学を出て教職についたというだけ。(⇒最終的には、東京帝国大学の講師)一方、10歳年下の櫻谷は、22歳から受賞を重ね、世間にも広く認められている状況。その間に、漱石は英国留学しますが、現地で精神的に参って帰国。1904年に、漱石は坊ちゃんなどを発表。櫻谷は、文展にも着々と実績を重ねていますが、漱石はホトトギスへの投稿ぐらい。(←といっても、世間からみれば素晴らしい実績です。しかし華々しい同世代の活躍を考えると…)なにがしかの思いがあったのではないかと思いました。
そして、なによりも、「小説家、漱石」であるとうこと。やはり、ものを作る人の感性は一般には理解できない一種、独特のモノがあるはず。漱石には、クリエイターとしてのもののとらえ方があり、それがあの酷評なのではないかと。精神的にデリケートな人が、あの、一見、暗く見える竹を見たとしたら・・・・ 得も言われぬ感情がこみあげてきて、それに何かを感じて、それをあの言葉で表現したのかもしれません。
私が一番感じたのは、櫻谷の巧みに計算された遠近表現でした。まだ、まだ、西洋の遠近法になじみにない日本人にとって、この奥に引きづり込まれていく感覚というのは、一種、独特のものがあったはず。これを面白さと捉える人もいれば、ある種の怖さと捉える人も当時はいたのだと思いました。
学芸員さんが、「私たちはこれを見ても、こんな構図は見慣れてしまっていますから、そんなに驚きはないと思いますが、これを始めて見た人たちは、本当にびっくりしたと思います・・・・・」と、おっしゃっていました。
今の私たちは、これらの構図は、見慣れてしまっている。ここを忘れているというか、生まれた時から、当たり前に存在しているのだと思いました。(生まれた時から、スマホがあってそれを知っている世代と同じような感覚)今、見ている、遠近法は、すでに消化されたあとの遠近法であるという視点に気づかされたのでした。
【追記】2018.03.08 漱石が朝日新聞に入社した経緯
漱石がなぜ、朝日新聞に入社したのか。その経緯が詳しく朝日新聞のサイトに掲載されていました。
東京帝大講師で教授が目前だった夏目漱石が、東京朝日新聞社に転職したのは40歳のときだった。
「創作に専念したい」という強い思いからだ。だが、権威ある地位、安定した職場を放り投げ、当時はベンチャー企業といってもいい新聞社に、中年すぎからの転職である。
覚悟がいる。条件を詰めねばならない。漱石は弟子を介し、こまかい取り決めを問い合わせた。
漱石は、新聞という文字の力を借り、ジャーナリズムを通して、自分の価値観を問いたかったのでは? と思っていたのですが、当時、新聞はまだベンチャーだったとうのは、意外なことでした。世に問うジャーナリズムを目指していたわけでなく、創作に専念したかったらしいことがわかりました。
また、入社後の新聞社内のごたごたにまつわる話
ここで興味深いのは
自らの存在意義をこのように語っていました。
新聞記者になったのは、どこかで櫻谷を意識している部分があって、ペンで櫻谷を論評する‥‥ という気持ちがあったのでは? なんてことを考えてしまったのですが、そういうことでもなかったようです。
【追記】2018.03.08 妙なシンクロ、一致は偶然?
〇漱石の落第と熊楠の落第
1886年(M19) 大学予備門で、南方熊楠は数学で落第しサンフランシスコに行くことに。一方、漱石もこの年、腹膜炎を患い、試験を受けることが出来ず落第。これを契機に頑張り、以後、主席となりました。
また熊楠が算術に興味が持てなかったのと同様、櫻谷も、 簿記や算術に興味を持てず京都府立商業学校予科中途退学していました。以外に才能を持った人は、算術苦手な人は多いのかも?
〇櫻谷も漢学を学び「論語読みの櫻谷さん」とあだな
儒医・本草学者・写生画家だった山本渓愚に儒学・本草学・経文漢学を学ぶ。元来、文学少年だった桜谷は「論語読みの桜谷さん」とあだ名されるほどの愛読家。昼は絵画制作、夜は漢籍読書の生活。
一方、漱石も漢学を学ぶため、2年中退しながらも、それを悟られないために、学校に通うふりをしていました。漢学私塾二松學舍に入学しましたが、数か月で退学。夏目家の再興を担わされたという忸怩たる思いがあったと考えられます。
櫻谷、漱石ともに漢学を学びましたが、その環境は違いました。
〇漱石の酷評の年、櫻谷は土地を取得
桜谷は大正元年9月に衣笠の土地を買得。建物は翌年大正2年から大正3年にかけて順次建設されました。56歳で京都の衣笠村に移り住んだあとは、隠棲生活を送ったと言われています。 漱石の酷評との関連も想像されます。ところが、文展は10月。土地はすでに9月に取得されていたのでした。
【追記】2018.03.08 師:景年の教え
これだけの画家が、メイン舞台から消えたのは、師の執拗な「推し」も一つの原因との記載を見ていたのですが、景年の教えというのは、これまでの徒弟制度を破る斬新な方針でした。(どこかで見たのですが失念)
◆今尾景年
明治10年(1877年)第六回京都博覧会でも「牧童図」で銀賞を受ける。この頃から「花鳥画譜」の制作を志し、博物学者山本章夫に指導を受けるほど科学的かつ精密な写生を重ねた。
〇櫻谷の緻密な描写は、師匠譲り?
景年の必要以上の推しが、櫻谷の生き辛さを招いたと思ったのですが、この経歴を見ると、大観の画風の方向性に、自分の生き残りの問題とは関係なく、意を唱えたいというのもわからないではないと思ってしまいまいました。
そして、個人的に好ましいとと感じる作品は、こうした博物学的、科学的にも確かに裏付けらえた基礎があった上での画業であること。その基礎を感じることができると共感ができる。ということをやはりここでも確認ができました。
【追記】2018.03.08 漱石の横顔
私が知らなかっただけなのかもしれませんが、漱石は苦労人であったこと。それによって作品が生まれたという側面をあるようです。イギリス留学も途中で帰国することになりましたが、それによって、『倫敦塔』といった作品を生み出しました。自身の根幹を形成する考え方に触れられたようです。
「自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てた」(私の個人主義)と感じた。それは「自己本位」の目覚めであった。
漱石は留学の大きな成果である「個人主義」の考えをしっかりと右手に握りしめ帰国したのである。(ロンドン漱石記念館館長・恒松郁生)
出典: 足跡をたどる | 漱石と朝日新聞 | 朝日新聞まるごとガイド
留学時に、直接的な形としての結果を残すことができなくても、何等かの形で、潜在的な変化をおこし、その後の礎となったようです。
結果を残せなかったかた人が、帰ってきて「ロンドンに行った、滞在した」ということだけが唯一の心のよりどころとなって、ロンドン帰りであることが、自尊心を保つ唯一の砦のような状態になっていたのでは? なんて思ってしまったのですが‥‥(笑)
また、パリ万博も見ているということが、「世界における日本」というものを肌で感じてきたという自負。これまた、日本が、いかにあるべきかという持論の形成と、時代の流れをどう折り合わせいくか…
「自分は諸外国を見てきた生き証人」であることが、精神と肉体を患いながら揺れ動く中で、唯一、自らを保つ糧となっていたように感じられたのでした。
【追記】2018.03.08 漱石のアンドロイド
漱石というのは、実際に思っていた人と違っていました。そんな漱石がアンドロイドとなって再現されているようです。
文学研究というのは、今までバラバラだった文学のイメージを、アンドロイドに集約させ、文学研究がさらに進むツールとしての活用できるとのこと。弟子たちの記録による漱石の行動などが入力されているとのこと。
漱石の様々な側面入力・・・・ しかし、私が今回調べて、新たに知った漱石の側面。このアンドロイドからは、全く感じさせられませんでした(笑) 既存のイメージどおり、漱石って、まさにこんな人だったのだろうな? という印象でした。
文学には興味がなくて、「小説」って多分、一冊も読んだことがないように思うのですが、漱石の人生と重ねて、どんな小説が書かれたかというのは、ちょっと知りたくなってきています。
櫻谷作品を非難した漱石。そんなところから、漱石作品への入口が開くかどうか‥‥