南方熊楠について、これまでの断片的な記憶と、絡まっていた糸をほどくための自分用メモ。
- ■南方熊楠を知ったのは
- ■粘菌との出会い
- ■大津絵と民族学 そして南方熊楠へ
- ■「万能の人」としての「南方熊楠」
- ■南方熊楠の思考法
- ■野生展で南方熊楠?
- ■科学博物館 「南方熊楠-100年早かった智の人-」
- ■粘菌とは何かが解明
- ■「和漢三才図」を写筆
- ■論文を発表しないのは
- ■南方熊楠の病跡学
- ■楽しみのポイントが違う
- ■熊楠の理解の変化
- ■企画展の感想
- ■追記
- ■参考・関連
- ■関連
- ■脚注
■南方熊楠を知ったのは
〇2005年 庭園美術館の「庭園植物展」で
2005年、庭園美術館で行われた「庭園植物記展」でその名に出会いました。その時は、何て読むのかもわからず・・・ 「なんぽう?」「みなかた?」「くまくす?」 変な名前… という記憶はあるのですが、それがどんな展示だったか、全く思い出せません。かすかな記憶の中に「イチョウ」「雄雌」「発見」「東大」というキーワードが残っていました。
その後、何度となく「南方熊楠」の名前に出会い、イチョウ関連の記憶から南方熊楠とイチョウについて探ってみるのですが、そのような研究の話は全くヒットしませんでした。最近になってやっと、その時、どんな展示がされていて、記憶に残ったキーワードが何であったのかわかりました。
〇キノコの研究で紹介
「熊楠」の展示は、キノコの研究に関する展示だったらしいことがわかりました。キノコを描いた絵が展示されていたことがわかりました。そう言われてみたら確かそんな記憶がよみがえってきました。⇒庭園植物記 幕末 植物画 図譜/植物写真 杉浦非水... - ヤフオク!
〇「イチョウ」の研究をしていた?
そして、イチョウの話というのは・・・
東大の写真技師(写生技師?)がイチョウの精子を発見し、論文にまでしちゃったら、他の教授たちにねたまれて辞職に追い込まれた話。
イチョウの雄雌を発見したのは、平瀬作五郎。「南方熊楠は」大学予備門(現東京大学)を出ているため、東大つながりで平瀬作五郎と混同したようでした。確か、熊楠のキノコの展示は隣どおしだったような記憶も蘇ってきました。庭園美術館のどの部屋だったかも思い出してきたような‥‥ 長年のもやもやがやっとスッキリしました。 ⇒「南方熊楠」との出会い 文化人、知識人の場合【*1】
■粘菌との出会い
〇キノコって何? 真菌? カビの仲間? ところで粘菌って何ですか?
ガレの《ひとよ茸》という作品について調べていた時に(⇒■エミールガレ:ヒトヨダケ文花瓶・・・自然の摂理と輪廻 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記)「ひとよ茸って何だろう?」その延長にキノコってそもそもどういう植物? という疑問がおきました。それを調べていた中に、粘菌という名の生物の存在を始めて知りました。そんな生物、これまで聞いたことありませんでした。
森の分解者(=微生物)と「キノコ」との関係について整理(上記より引用)
⇒【参考】キノコは3つのタイプに分けられる
*腐生菌 *木材不朽菌 *菌根菌
⇒【参考】「微生物」「ウイルス」「細菌」「菌類」「バクテリア」の違い
「微生物」>「ウイルス」
>「細菌」=「バクテリア」(ラテン語)
→ミトコンドリア
→葉緑体
>「菌類」>真菌類⇒カビやキノコ、酵母など真菌類
>粘菌
*菌類も微生物の一つ
(微生物=細菌、菌類、ウイルス、微細藻類、原生動物など)
⇒参考:菌類と細菌との違い
『菌』という言葉を、「細菌」と「菌類=キノコ・カビ」と
分けて考えるのは、生物学の心得のある人。
「菌類」と聞いてカビ、キノコをイメージするのは、生物学を知っている人。
では、キノコの位置づけって? って考えてしまうのは・・・・?
キノコも微生物に含まれるの?
何でも分けて分類して、定義で考えたがる人の思考(笑)
⇒森の掃除屋 = 森の分解者 ⇒土壌動物・微生物
1gの土の中に数百万の微生物
微生物=細菌・菌類
*「キノコ」という枠組みは、
「微生物」とは別のカテゴリーかと思っていました。・・・
「微生物」には、カビなどの真菌は含まれていると認識していますが、
キノコは(菌類だけど)「カビ」と違うカテゴリだと思っていました。
同じ「菌類」でも、「キノコは目に見える」「カビは目に見えない」
だから、グループは別。キノコは微生物とは別の範疇だと・・・
土1gの中に含まれる「微生物」の主なものは、細菌と菌類。
この「菌類」にキノコは含まれておらず、
土壌動物と同じような位置づけで考えていました。
キノコは微生物とは違う別カテゴリに属した森の分解者。
これが「腐生菌」という菌類の分類を知る前の認識。
つまり、キノコは、微生物だと思っていなかったという話でした。
やっと「森の分解者」の意味がわかった気分・・・(2016.2.14記)
【参考】⇒○きのこのチカラ: きのこ的生き方のすすめ
きのこのことを肩肘はらずに、理解できるように解説。
人によって理解へののアプローチが違う。
私もこの言葉によってなるほどとやっと理解できました。
「生産者」としての植物
「消費者」としての動物
「分解者」としての菌類・・・・「還元者」
この時の元になった疑問は、キノコって何か? 真菌ではあることは知ってます。でもカビと同じ仲間なのか、酵母とはどういう位置関係? 生物の系統分類からするとどこに位置するのか? 酵母って真菌なんだっけ? よくわからなくなってきました。
そんなところに、微生物というカテゴリに中に、「粘菌」という聞いたこともない生物が登場しました。なんだそれは? と調べてみたのですが、いまいちよくわからない生物。変形菌ともいわれているようですが、そんな「菌」は、私が学んだ「微生物学」の中には存在していませんでした。酵母も微生物学では扱われていませんでした。(のちに私が知っている微生物学の知識は、「病原微生物」という全体から見たらごく限られた範囲の中の微生物だったことを認識していきます)⇒【2017.12.27】粘菌という生物の位置づけ
〇変形菌(へんけいきん)
変形体と呼ばれる栄養体が移動しつつ微生物などを摂食する“動物的”性質を持ちながら、小型の子実体を形成し、胞子により繁殖するといった植物的(あるいは菌類的)性質を併せ持つ生物である。
これって「細菌」を意味しているってこと? 「菌」と名はついていてもどうも違うようだけど。じゃあ「真菌」のこと? でも「動物的」だっていうし、「植物的」だっていうし、変態するということなのか? 一体どんな生き物なの?
〇変形菌って、庭のニョロニョロしたもの?
そしてこんな写真を目にしました‥‥
これって、庭で見かけるあのニョロニョロしたものではないかと思いました。ところがその名称を失念してしまい見つけることができませんでした。その後、しばらくは、あのニョロニョロが変態したもの。と思っていました。そのうち名前もわかるだるだろう…と思いながら。
最近になってどうしても気になり正体を見極めようと、試しに「庭にいるニョロニョロしたもの」で画像検索してみました。なんと一発でわかってしまうのです。それは、「コイガイビル」でした。長年のあのモヤモヤがいとも簡単に‥‥
wikiphedhia
名前がわかる前も、これが「菌」? そんなわけないわよね。
でも粘菌は、「動物的」だったり「植物的」だったりするっていうから、「変形」してこのような形態になるのかもしれない。このニュルニュルしたものが変形菌の一種で、もしかしたら真菌なのかも‥‥(でもどう見てもこれが、真菌には見えません。しかしキノコが真菌の仲間であるなら、動物の形態にもなる真菌ということもありえるかも) とあれこれ考えるのですがその実態がつかめずにいました。
〇南方熊楠=粘菌研究者
この時に粘菌を調べていた時は「南方熊楠」の名を見ていたはずです。そこで「南方熊楠=粘菌研究者」と認識するようになっていくのですが、私が初めて「熊楠」を知った庭園美術館の展示の中に「粘菌」とい名の生物は登場していなかったと思うのです。「粘菌」という文字の記憶が全くありません。もし、あったとしたら、聞いたこもない生物にきっと反応したと思うのです。見逃してしまったのでしょうか?
そして、私の中ではずっと「イチョウ」の「雄雌」を発見した人と思っていました。イチョウの「雄」の発見は、当時、大発見だったという記憶が残っています。主研究は「イチョウ」 サブが「粘菌」だと思っていました。その後「南方熊楠」に出会うたびに調べても「イチョウ」の話は出てきません。
しかし、南方熊楠は「植物学者」です。粘菌だけを研究していたわけではないはず。他にもいろいろな研究を多岐に渡ってしているという話もありました。「菌類」とはジャンルが違うけども、研究中にイチョウの雄雌のことも発見しているのだけど、埋もれているのだろうと思っていました。
〇雪村の波濤表現の先で「粘菌」に出会う
今年の夏。MIHO MUSEUMで行われた「雪村 奇想の誕生」を見た時に、波濤表現についていろいろ調べていました。そこで波濤は「蕨手文」という文が参考になっているという話があり、それらの波濤などは、自然の中に存在する螺旋がデザイン化されたものだということがわかりました。
そして螺旋というのは、自然界にいろいろ存在していて、「粘菌」も成長過程で螺旋を作るといったことに広がっていました。
〇衝撃の螺旋 衝撃の摂理 神の姿とは? ( 歴史 ) - 民族学伝承ひろいあげ辞典
↑ 粘菌の細胞が成長の過程でいつも螺旋になる
考古学の人が見たら、そのねじれと渦巻きはまるで装飾古墳の蕨手紋や渦巻き文だろう。粘菌細胞の記憶だとも言える
こういう話がやっぱり好きなんだなと思いました。自然界の現象や生物の形態、それらが文様となって表されてきた。そんなつながりが面白いと思う・・・・ 原始的生物に刻み込まれている螺旋や渦巻きの記憶。それはDNAの螺旋につながる。螺旋構造というのは、大きく広がるための形でもある。⇒【*1】
蕨手文の渦巻と波濤表現。そして「粘菌」のねじれの共通性。こんなところにも粘菌が登場してきました。そして自然界のこのような法則性がデザインを生み、紋様となり、それが波濤の表現として引き継がれていくという面白さ。この時には、粘菌=南方熊楠 という認識になっていました。
■大津絵と民族学 そして南方熊楠へ
さらに、大津に訪れ、全く関係のないことなのですが、「大津絵」とはなんぞや‥‥ということが気にかかっていました。大津に行った時は、気にとめいなかったのですが、戻ってきてから、泉屋博古館美術館分館の「浅井忠の京都遺産」で展示された「大津絵」を見る機会がありました。大津絵が発端となって様々なな思考の広がってゆくのですが‥‥
■大津絵からの繋がりや広がり - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
大津絵と民藝運動のことを調べていたら、「柳田國男」の名前とともになぜか、「南方熊楠」の名前が登場してきました。どういうこと? 南方熊楠は、「粘菌の人」「植物学者」という認識だったのに民俗学? 柳田國男と知り合い? と改めて調べていると、なんだか植物学だけでなく民俗学者でもあり、万能の人だったらしいということが見えてきたのでした。
改めてwikipedhiaを見ると‥‥ 最初から、民俗学的なことは書かれていました。しかし、その部分には全く興味を示さないため、目に入ってきていないのです。自分の知っている「植物学」の側面、知りたいことしか見ていないのでした。大津絵という民芸品から民藝運動、民俗学と興味の糸が伸びた先に、南方熊楠がまた存在していたのでした。
■「万能の人」としての「南方熊楠」
1月にラスコー展がありました。その時、 青山ブックセンターで、ホモ・サピエンスと芸術~縄文人とクロマニョン人と岡本太郎からさぐる芸術のはじまりの講座がありました。その際に、配布されたパンフレットの中に、「南方熊楠」に関するセミナーがあるのを目にしていました。それは下記のような講座の申し込みでした。
てんぎゃん(天狗さん)、 博覧強記、超人、超脳力者、奇想天外な巨人、在野の学者、博物学者、先駆的エコロジスト、自由人、世界に認められた在野の学者、学際的博覧強記を誇る天才、時代の枠を越えた巨人、大怪人、不思議探究家、自由のたびびと、こどもの心をもちつづけた学問の巨人、世界に通じた偉大な学者、謎の天才学者、自然保護運動の先駆者、奇人、人間博物館・・・
このあたりから熊楠がいくつもの顔を持つ人であることを認識し始めた頃だと思われます。
(やっぱりここにも、イチョウの話はない‥‥ と思っていました)
みなさんにとっての、南方熊楠はどんな人物でしょうか?
ぜひ、本レクチャーを通じて、自分にとっての南方熊楠を探してみてください。
私にとっての「熊楠」はずっと「植物学者」でした。最初はイチョウの人、それが粘菌の人に変わり始めました。しかし、それだけじゃなかったんだ。レオナルド・ダ・ヴィンチのような人だったみたい。なんだか面白そう‥‥
しかし講座の内容が濃密すぎます。しかも、今回で7回目。これはついていけない。基礎知識がなさする。と躊躇しているうちに、講座のことも忘れ申込損ねていました。
■南方熊楠の思考法
そんな経緯をたどりながら、少しずつ南方熊楠の名が近づいてきました。そして、学生時代の学び方、資格試験のための勉強法について書いた記事にコメントをいただきました。
その時に、始めて熊楠の学びや思考という視点からとらえる「南方熊楠」像を知りました。それがどんな学びだったのかということに非常に興味を持ちました。
〇ボーダレスな情報収集
南方熊楠は、「植物学者」という認識で、ちょうど、民俗学の人でもあるらしいということを知り、さらに哲学など守備範囲が広い。そのボーダレスな思考というものは、どんな構造をしているのか‥‥
ちょっと調べてみました。その時に見たのはたぶんここだったのではと思うのですが…
ここでボーダレスな「知」について語られていました。神話、哲学、生物学、仏教といった境界を持たない縦横無尽な知の世界にいた人。私はこれまで、一部を見ていただけだったことを理解しました。その境界のない広がりはどのように形成されているのでしょうか。
〇時代が生んだ人?
その一方で、熊楠がいつの時代の人なのか、理解していませんでした。往々にして万能の人と言われるのは、学問体系がまだ未分化の時代の人たち。博物学が発達してきた時代の人。「万能」というのはその時代の学問体系が混沌としているから作り出されているという側面があると認識していました。
レオナルド・ダ・ヴィンチは別格として、シ―ボルトが医師であり、植物学者であり、役人的な役割を担っていたりしました。 まだ、北斎も細かな植物画を描き、知りたい欲求は人体の解剖までするようになります。絵画と医学が分かれていない時代は、知的欲求、好奇心の強い人はみんな解剖をしています。
学問が未分化であるために、ある程度の知識ある人や好奇心旺盛な人の「知」は、ボーダレスとなり縦横無尽に走り抜けることができるのだと理解していました。博物学が広がっていく時代の知識階級は、一種の何でも屋状態。熊楠も、そんな時代の一人だと、思っていたのです。
明治になって学問体系が整備されてくると、枝は細かく分かれてくるので、なかなかそういう人は出現しにくくなってくるのだと。そんなわけで、熊楠も当然、幕末の博物学が流行した時代の人なのだろう‥‥と勝手に思っていました。名前からも時代性を感じるし‥‥ 熊楠の生きた時代が、そういう時代だったのだと‥‥(のちにそうでは、なかったことを知るのですが)⇒【*2】
やっと、ここにきて、南方熊楠の概要がおぼろげながら見えてきていたのでした。なんだか熊楠のこと、知りたくなってきました。何かを調べる時には、ジャンルを問わず、関連する全ての情報を集めて、そこから何かをつなげて広げていった人。やっと自分の中に「南方熊楠」という人間が実体を持って入ってきた気がしました。
■野生展で南方熊楠?
六本木で「野生展:
ところが、日曜美術館のアートシーンで紹介されていました。その内容はタイトルから受けた展示のイメージと全く違いました。その中に、まさかの「南方熊楠」「粘菌」というキーワードが・・・・・ そんなこと想像できませんでした。この「野生」という意味はそういう意味だったのか。「飼いならされない感覚と思考」というのは、そこにつながるのか‥‥と、タイトルから想像していたのとは、全く受け取り方が違っていたのでした。
#野生展 粘菌をモチーフにしたガラス作品 自然の中に忽然と現れる有機体。人間にとって心の土台となる「野生」について問いかけてる? 博物学者・南方熊楠の発見や発明は、ジャンルを超えて広がる。それは本能、知性でもある野生の力が創造性を豊にするということらしいhttps://t.co/ETYOrLbAFl
— コロコロ (@korokoro_art) 2017年12月17日
ここで、粘菌をこんな風に見せてるんだ‥‥ 粘菌のこと、まだよくわかってないからこの展示からも、何か理解できるかも‥‥
そして、同時に行われる科学博物館の 「南方熊楠-100年早かった智の人-」を一緒にみれば、より理解ができるかも‥‥
ということで、まずは、科博の「南方熊楠-100年早かった智の人-」 に行ってみることに。
■科学博物館 「南方熊楠-100年早かった智の人-」
科博の常設展で、「南方熊楠-100年早かった智の人-」が開催されることを知り、楽しみしていました。訪れたのは初日・・・・・ タイトルの「智の人」。きっと、熊楠の頭の中を知ることたできるかもしれない! と思っていたら、まさに熊楠の頭の中を、あの手この手で紹介されていました。
〇南方マンダラ
仏教のマンダラもふまえた熊楠の頭の中、思考 「南方マンダラ」
平面だったマンダラをホログラムを使って立体的に見せているのは、画期的なのだと思います。このマンダラを解説していると思われる文章 ⇒【*3】
〇熊楠の取り組み Kumogle
〇熊楠のデータベース
〇熊楠の情報処理
〇「十二支考 虎」の思考チャート
なんだかこれだけ十分、満足してしまいました。
■粘菌とは何かが解明
そして、ずっとその存在を知りながらも、なかなかつかみどころがなくよくわからない存在だった「粘菌」 いろいろ解説を見るのですが、結局のところこの系統図の情報が欲しかったのでした。「粘菌」はどに位置する生物なのか。やっとこの情報に出会えました。
〇粘菌の系統図
真菌との関係。動物であり、植物でもあるというのはどういうことなのか‥‥ やっと見えてきました
〇変形菌ライフサイクル
(やっぱり粘菌の変化の中に、あのニョロニョロはいないんだなぁ‥‥ あれはいったいなんなんだ‥‥と この時も思っていました。)
■「和漢三才図」を写筆
そして熊楠は、8歳の時に「和漢三才図」を写筆したとあります。
いつもなら、そんな情報を見ても、そうなんだ‥‥と思うだけです。ところが、今回は、「和漢三才図」にえらく反応していました。これ知ってる! 静嘉堂文庫美術館の「挿絵本の楽しみ」で見た! 確か百科事典みたいなもので、昔、中国で書かれたものを日本にもってきて編纂したんだよな‥‥ それは、なんていう名前だったかなぁ。
科博の展示をその部分を見ているのに、なぜかここの撮影を忘れていました。静嘉堂で撮影していなかったかなぁ… あら、ここでも撮影していない。確かにその時「和漢三才図」と言われてもなんだかわからないし、興味も持てませんでした。そのあと、時代背景や流れをまとめた時に、そういう本だったのか‥‥と知ったのでした。
あれこれ探したのですが、クマさんが、撮影されているのをお借りしました。
出典:南方熊楠生誕150周年記念企画展 南方熊楠-100年早かった智の人-@国立科学博物館 - 常温常湿希望
この記憶力について、中沢新一は「カメラののような記憶力・描写能力」と記しています。⇒【*4】
〇「挿絵本の楽しみ」からつながっていた熊楠
そして、その本について、まとめたんだよな‥‥と思ってみると、
■「挿絵本の楽しみ~響き合う文字と絵の世界~」(静嘉堂文庫美術館)・・・内覧会レポ - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
↑
黄色で示したことに、興味あれば、ここで展示されている「挿絵本」と関連性がみつかり、面白いですよ。ということを表した図です。そしてオレンジ色は、その時代の背景。このような背景があって、こんな挿絵本を生まれ、それらの裾のはこんなふうに広がっています。という関連を自分なり繋げてマインドマップみたいなものを作っていました。
〇復稿マップ
ちょっとこれ、南方熊楠の流れの解析と似てませんか? ヽ(^o^)丿
そして「挿絵本の楽しみ」をまとめていた時に、南方熊楠が模写した挿絵本として「和漢三才図絵」との関連性を示していたのでした。そしてこの本が、中国の「三才図会」や日本で作られた「訓蒙図彙」が参考になって作られているという流れなども記していました。中国の挿絵本が、日本へどのように影響を与えていたのか‥‥ その時系列的な関連も一覧にしたなぁ・・・・と思い出しました。
■「挿絵本」を「中国と日本」を「年代別」まとめ「時代背景」や「中国からの影響」を一覧に
挿絵本と言われる本が、中国から日本に入ってきて、日本で親しまれるようになってきた。その時間的なタイムラグってどれくらいなんだろう。いろんな物が融合してできているという断片の解説がされているけど、これを図式して把握したいと思い、年表形式の関連図を作り始めました。
途中、これらのマップや表を作っていて、こんなことをして何の意味があるのだろう…… そんな思いが正直よぎっていきました。でも、今、「挿絵本」という歴史の書物を前に、これまであまり興味のない美術品が、日本に来て、いろいろなものと影響しあって形を変えて、参考にされて新しいものを生んでいる。ということを、「流れ」として理解したいと思いました。
今、それを記録しておかないと忘れちゃうし、すぐに次のあらたな興味が出てきてしまうので、まとめる機会を逸すると思ったのでした。何かに役立つとか意味がないかもしれないけど、今、やっておかないと‥‥
しかし、役に立つのか‥‥ と思う一方で、必ずどこかで役に立つということは、これまでの経験から確信もしていました。
現に、こうして、熊楠につながったわけです。すっかり忘れていましたが、あの時、まとめたなぁ‥‥ という記憶が、「南方熊楠」にたどり着きました。
2017年の4月、静嘉堂の「挿絵本の楽しみ」が行われた時に、私の中で熊楠は「智の人」「万能の人」という存在に変わっていたこともわかります。百科事典のような挿絵本を模写していたんだ‥‥ということを何からひっかけたのかわからないのですが、拾い上げていました。(そのころ、生誕150年ということで、「南方熊楠」の話題がどこからともなく耳に入ってきていたような気もします。)
しかし「和漢三才図絵」という言葉は、それらを記したブログの中に登場していませんでした。始めてこの名前を見てもそれが、どんな書物であるか全く想像ができません。そうなると興味の対象からは外れてしまうのだということもわかりました。でも記憶の片隅には残っている・・・・
■論文を発表しないのは
〇「狂気に陥らないため」ってホント?
論文にせず収集に徹したのは、熊楠自身が癇癪持ちであることを自覚し「狂気に陥らずに済んだのは図譜の作成が精神を安定に保つ手段だった」と語っていました。
ちなみに熊楠が図譜を制作し続けたのは「キレやすい性格の精神を安定させるため」だそうです☺️
— 虹はじめてあらわる (@nijihajimete) 2017年12月18日
第二集はパネル展示ではあるものの本邦初公開。 pic.twitter.com/nga3jp3xat
しかし「この話、本当のかな?」って思って見ていました。表向き、そういうことにして語っていたのではないかと・・・ 本人が日記に書いていたり、語ったりした情報は、一次情報なので、信頼に値するものとされます。しかし、直感的に、これ、本心ではないのでは・・・・? そう感じられることがあります。熊楠のこの言葉も、それに匹敵するような気がしました。
大英博物館でのぶつかり合いも、熊楠は、権威や認められるとかそういうところへの興味がなかったからではと感じられました。論文を書いて、そこで新種発見という名誉を得ることに血眼になるよりも、新しい品種を捜している「行為」や「そのプロセス」が好きだったのだろうな・・・・と。
参考:大英帝国博物館をやめた理由
人種差別的な一面もあったもよう。そんな経験も、すべてがフラットで平等という思考を形成したのかも…
あるいは、論文発表のための必要な手続きや時間ももったいないと思っていたのかもしれません。そんなことしている時間があったら、フィールドワークをして一つでも新しい品種を見つけた方が楽しい。
あるいは、新種発見のための一分、一秒を争う競争社会のようなものが嫌いだったのではないか‥‥
熊楠は子供みたいなところがあって、負けず嫌い。アメリカのカーティスや、イギリスのバークレーが6000点の標本を送ったという話に対抗意識を燃やしていたように、数で負けたくないと発表はしないけども、採取することに意味を見ていたとか。
あるいは、後年の熊楠の情報収集をして発表に至るプロセスを見ると、論文発表において行われる既存の研究法だけでなく、もっともっと、広い範囲の情報を網羅した上で、民俗学的なこと、宇宙のこと、仏法なども加えながら、総合的にまとめたいと思っていたのではないかと思ったり。
科学論文発表の形式は、コンパクとにまとまった一側面にすぎない。熊楠が提示したい世界とは違っていたのでは?とか‥‥
こうした自分が追い求めるスタイルを貫こうとすると、情報集めだけでも膨大な時間がかかってしまう。発表なんてしていたら、時間が足りない。それよりはまずは、新しい品種を見つけることに集中しよう。それを提示しておけば、あとから時代がそれを追いかけて何らかの価値を与えてくれるだろうから。
とあれこれ想像してみるのでした。
〇肩書の世界が嫌い
次のような言葉を発していたようです。
また外野では次のような声が、あったと書かれています。
上記の中に、新種を採集しながら命名せず、論文発表しないのは無責任。分類法に基づいた知識の普及、論文を発表しないのは植物学者とはいえないと批判されていたとあります。
そのような捉え方をする権威の世界や発表の場が嫌いだったのではないでしょうか? おそらく次々に新品種をみつけてくる熊楠を研究者は、苦々しく思っていたのでは?
⇒【*5】
当時の植物学会がどのようなところであったのか。下記のエピソードから推測されます。庭園植物記展:ぶんじんのおはなし:So-netブログより
東大の写真技師(写生技師?)がイチョウの精子を発見し、論文にまでしちゃったら、他の教授たちにねたまれて辞職に追い込まれた話。なんて話をしていたと思ったら、シーボルトがあじさい(”あぢさゐ”と書くのが本当だそうだ)に自分の愛した女性の名前(お滝さん=>オタクサ)をつけてしまったことを植物学者の牧野富太郎が文句を言った話に飛んじゃう。ちなみに牧野富太郎は、自分の発見した笹に、自分の奥さんの名前をつけたそうだ。。。
しかしそんなことを言及してしまうと、また、いろいろ摩擦がおこることは目に見えています。だから、自分の癇癪を表向きの理由としたのではないかと思いました。
論文発表をしなかったのは、それをすることに価値を見ていなかっただけの話。その世界が嫌いだっただけと思いました。そしてラスコー展に付随して行われたセミナーで、海部氏がホモサピエンスは、できるけどしない遺伝子がある。あえてできることをしないとう選択をしたグループもいたと。熊楠はできるけどしないことを選んだグループの遺伝子を持っていた・・・と。
熊楠は、「いかにまとめ上げるか」を提示しています。それは、後半の展示で提示されています。できないわけではない。できるけどしなかっただけ‥‥
〇昭和天皇との交流
昭和天皇より、熊楠にご進講の依頼が。⇒昭和天皇へのご進講・ご進献 – 南方熊楠記念館
私の記憶では、昭和天皇は生物学の研究をされていらっしゃいましたが、論文発表は避け、ただただ、生物観察に徹したという話を聞いたことがありました。そういう部分で、シンパシーを感じての依頼だったのでは? と思いました。が、調べてみると、結構、発表はされているようでした。⇒【*6】
〇むやみに新種を探すことに価値を見出さず、"新種さがし"をむしろ軽蔑
(2018.01.10)
アーサー・リスターの基本的姿勢は、自然が示す多様性を考察するにあたって、微細な違いを重要視して種数を増やすのではなく、同一の種が内含する多様性の幅広さとして理解することを目指す、いわば統合指向の分類学であった。
熊楠の説明によると、粘菌分類学へのアーサー・リスターの貢献は、同一種に個別に複数の学名(異名同種)が与えられているような混乱を、広範にわたる標本精査により整理したことにある。熊楠自身も、むやみに新種を探すことに価値を見出さず、"新種さがし"をむしろ軽蔑していたのである。彼の「新種ぎらい」の背後には、全体が見えているもののみが種として判別できるという彼のこだわりがある。
「新種に限らずあらゆる種のあらゆる個体が種としてではなくその個性において関心の対象とすべきである」
「属--種--変種--異態という分類のレベルは、海面変化によって陸続きとなってはまた別れるような島々の関係に似ている。遠く隔たった属は、深い海底によって隔てられており、海面が相当低くなってもつながることはない。はっきり隔てられた属は、すでにはっきりしているので、今後そこに新たな発見がされる余地はそれほどないだろう。しかし、一つ一つの島に分け入っていけば、そこには広大な未知の世界が広がっている」
論文を書かない‥‥といった話を聞いた時、上記のことが頭をよぎっていました。新種発見の功績を競いあうあまり、細部の違いを新種登録されるようなった。そして同種なのに、季節の違いによる形態の違いが、違う種類として登録される弊害が出てきた。
という意味で、リンネの分類は大きな功績があったのだけども、その細部の違いによる分離の意味を問うていたのでは? という気がしていました。
このノートを見た時に、そうは入ってもちゃんと基本は押さえて学んでいたんだ・・・となんだか感慨深いものがありました。
→南方熊楠展:タイトルのAn informant-savantは造語だが、時に「智の提供者」として、時に「智を提供してもらう者」として生きた熊楠をよく表している。生物学の分野において知識も近代型論文を書く能力も持ち合わせながら、なぜ自らは発表せずに「智の提供者」となったのか。ここが今回の展示の鍵。 pic.twitter.com/jQR7wxkclr
— 虹はじめてあらわる (@nijihajimete) 2017年12月18日
今回の展示の鍵・・・・・ この言葉がずっと引っかかってました。ご本人はどのように理解されたのかに興味深々‥‥
〇参考:良い”論文というものは査読つき学会誌に掲載されるものなのだろうか?
「自然科学」と「人文科学」の論文評価の違い。人文科学側からはそう見えるのか‥‥
「自然科学」側からは・・・・・ 実存主義、本質主義のとらえ方に似たものを感じられました。
■南方熊楠の病跡学
〇「てんかん」という病気と熊楠
熊楠は、「てんかん」だったという記載が、会場の中にありました。この「てんかん」という病気について、今の熊楠研究の中では、どのような受け止められ方をしているのでしょうか?
8歳で「和漢三才図絵」を覚えて写したと聞いた時、私は病的なものを感じました。この記憶は写真を撮影したような記憶というのは前出のとおりです。⇒【*7】 おそらく、病跡学的なとらえ方もあるのだろうと想像されました。しかし今の精神医学では「てんかん」は神経疾患となって、はずれています。そうした精神医学の世界の病気のとらえ方の変化する中で、病跡学は変化しているのかいないのか。
〇実は病気に対して客観的な目を持っていたのでは?
「てんかん」という病気が熊楠にどういう影響を与えているのか。癇癪持ちで人とのコミュニケーションに問題があるように語られています。しかしそれは誇張された部分もあり、実は、語られているほどのものではないのではないかと感じていました。
〇病気との関係
癇癪持ちで寄行がとりだたされますが、実際にはそれほどのものではなかった。と松岡正剛が語っていました。
ところが奇行の噂のわりには、詳細年譜を見ても評伝に当ってみても、奇行が派手だったという印象はない。ときどき腹を立ててポカリとやったり、悪態をついたというくらいなのだ。それでも本人は、癇癪持ちだったからそれを抑えるために書物や博物に耽るようにした、と殊勝に書いている。
なんということか。癇癪持ちを抑えるだけではこうならない。だいたい文体が奔放すぎる。ハイパーポリフィニックで、屈託がない複相感に充ちている。
おそらく熊楠のこれらの話は、誇張が含まれ、尾ひれがついた逸話となって広まっているように思います。熊楠は至って冷静で、自分を客観的に見ていて、「癇癪持ち」という性格的な気質を、うまく使いこなしていたのでは? 言いたいことを言うための手段として‥‥ 自分は癇癪持ちだから‥‥ と一般的には言えないことを発するために。
〇「てんかん」は今は、神経疾患
「てんかん」という病気が、今はとらえられ方が、以前とは全く違っているということからもそれを推測しました。(てんかんは2013年のDSM5からはずれ、神経疾患になりました https://www.syaanken.or.jp/wp-content/uploads/2012/05/143p12-16.pdf … )
〇「狂気」と「平静」の使い分け
そして、才能のある人というのは、精神的なものをかかえていたとしても、比較的、自分自身のことを客観的に見ていたように思うのです。ある意味、病的な部分をうまく利用していて、「狂気的な部分」と「平静の部分」を行き来してる。それを使い分けているのではと思っていました。
〇昭和天皇へのご進講
キャラメルの箱に入れて粘菌を献上。やはり変人、変わり者と、側近も驚きます。当時(昭和4年)、神であった天皇に献上するものは、桐箱に入れるのが慣例でした。それなのにキャラメルの箱とは! しかし天皇は気にすることなく、のちのちに思い出として語っていたそう。
私は、てっきり、あの小箱のキャラメルの箱かと思ってました。ところがとっても大きな箱でした。こんな箱、一般には手に入りません。これは特別にどこかから調達したもの。何等かの手をつくして手に入れたものであることが伺えます。きっと、これを選んだ「熊楠」なりの理由があるはずだと思いました。
次のような記述を見ました。
熊楠が天皇に差し上げた、その粘菌を入れた箱。同じものの写真が残っている。そこには「森永キャラメル」とある、たしかにそう書いてある。なんと熊楠さん、粘菌をキャラメルの箱に入れたんですね。天皇は一向に気にしなかったらしいが、側近は一瞬「ギョッ」としたらしい。ただし、熊楠さんだってちゃんと考えてる。桐の箱も用意したのだが蓋が開きにくく、自分が愛用しているキャラメルの箱にあえて替えたらしい。娘さんによれば、小さい箱ではなく問屋用の大きなもの。
「父はよく粘菌入れとして愛用していましたが、もちろんこの日使ったのは新しく買ったものですよ」(『南方熊楠』河出書房新社)
「日本人は何を食べてきたか」第8回 南方熊楠 アンパンが常備食だった愛すべき科学者|食の安全|現代ビジネス
変人と伝えられる逸話の裏には、しかるべき理由があったわけです。天皇陛下に標本をお見せする際に、慣れない桐箱で手間取ること避け、開閉に手間どらない慣れた(常時それを使っていた)キャラメルの箱を使ったということだったのです。
そしてご進講の様子を語る侍従の言葉があります。
「かねて、奇人・変人と聞いていたので、御相手ぶりもいかがと案ずる向もあったが、それは全く杞憂で、礼儀正しく、態度も慇懃(いんぎん)であり、さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり、また日本人らしく皇室に対する敬虔(けいけん)の念ももっておられた」
〇「自分が心に病を抱えていることを知っていた」
それを感じさせるレポートがありました。
公開講座:南方熊楠の新次元 第一回「南方熊楠の夢と思想」レポート | 明治大学 野生の科学研究所
熊楠は夢の世界に深く入り込んで、人知の極みまで到達できる人でした。ロンドン時代の友人知人は、「熊楠には詩的熱中、情熱がある」「人間世界と物質世界の率直で公平でしかも私心のない観察者である」また一時期神社合祀反対運動で協働した柳田國男も「書物の世界の同化していくことができる人」などと熊楠を評しています。膨大な知識を持ちながら対象に無私無欲の没入ができる人、体全体で対象をつかみとり不思議を開く人、熊楠の姿が浮かんできます。
中沢所長は熊楠の病跡と学問の関係を論じています。熊楠は「自分が心に病を抱えているとよく知っていた。学問をやっていたおかげで発病しないで済んだと自ら記しています。粘菌を中心として、民俗学や生命、思想、心についてなど『物、事、心不思議』を自在に動く彼独自の学問に熱中することで、外れそうになっている精神の輪をつないだ」(中沢)
「自分が心に病を抱えていることを知っていた」
自分の病を客観視することができていた。病気を理解していた。だから「学問に熱中して発病しないようにした」のではなく、意識的に行き来をしていたのではと思うのです。自然観察に長けていた熊楠ですから、生物としての自身の観察も、客観性を持ってみつめていたはず。癇癪を起している自分を、もう一人の自分が観察するように‥‥ ですから、自分の状態を意図的にコントロールすることもできたと思われます。
というか、そういうまどろっこしいことではなく、もともと、集中して没頭していることが、単に好きだった。それだけにすぎないのでは? と思えるのででした。そうしていることが熊楠にとっての生きがいだった。そんな、ごくごく純粋で単純なことだったのではないのかなぁ…と思うのでした。
「他の人と違う学問の構造を持つ」
他の人と違う学問構造と価値観を持っていたということではないか‥‥
学会に規定のスタイルを踏襲した論文を発表して認められる。ということが、学問の世界の構造ですが、そんな型にはまった発表ではなく、もっと広く、世界すべてをひっくるめてとらえて考える。それらは、こんなことや、あんなことともつながっている。でも、それは平等でフラットで、そうした平衡を保ちながら、繰り返されている。というところを落としどころに向かう学問の構造を目指したのではないかと思われました。⇒【*8】
「知恵泉」の再放送を見て、とにかく自分の求める対象物に熱中していることが好きだったんだなぁ‥‥という思いをより強く感じさせられました。自分が権威となったり、新種の発見をして発表することが大切なことなのではない。市井の人たちとの語らい、その中にある「智」を拾い上げながら、自分の新たな「智」へ昇華していくこと。「智」の中に存在していたヒエラルキーもフラットにとらえて、全てが同列に並びつながっていること。それを追い求めていたんだなぁ‥‥と。
〇「現実」と「想像」の行き来
そして芸術家がとらえる「現実」と「想像」についてこんな話が‥‥
自我 機能を分析した報告も注目を集めた。それによると「芸術家は現実との関係を自ら引き離し、想像世界に没頭できるが、また現実に戻ることができる『自我の弾力性』を持つ」という。
上記は現役の27人の 芸術家にロールシャツハテス トを施し、その特徴から自我 機能を分析した報告とのこと。
ロールシャッハテストについては、現在、科学的妥当性への疑問や回答結果の分析に高度な技術を要し効率が悪いとされており、DSM診断が行われるようになってからは用いられなくなったテストと聞きます。それを踏まえた上で、芸術家が現実の世界と想像の世界を行き来をしている。熊楠もこのような状況にあったのでは? と思ったのでした。
〇「ゲシュヴィント症候群」「サヴァン症候群」では?
企画展に行く前に、熊楠の驚異的な記憶力を、「ゲシュヴィント症候群」や「サヴァン症候群」だったのでは? という指摘があるのを目にしていました。
しかし、展示会場にその文言はありませんでした。
この病名(?) ちょっと怪しいかもという直感が働いていました。今の精神医学では多分、使われていない病名のような気がする。(⇒【*9】)やっぱり 思ったとおり、脳神経クリニックの院長がつぶやいています。
ゲシュヴィント症候群は心理学の仮説としてはありかもしれないが、
安易に実際の診察に取り込むのは注意を要する。
側頭葉てんかんは一括りにできるものでなく、
多種多様な症状があり、個人差が大きい。
非専門医が不十分な検討で側頭葉てんかんと短絡的に
診断してしまうことは軽率であり、忌むべきだ。
ひとりひとりの症状、脳波、血液検査を医学的に分析していく
ことが重要で、そこに先入観、偏向が介在してはいけない。
ゲシュヴィント症候群という用語自体が廃れつつあるだけになおさらだ。
・南山堂医学大辞典(1981年 第5刷)
「ゲシュヴィント症候群」「サヴァン症候群」の記載なし。
・MSDマニュアル 家庭版 医療者向け ともに記載なし
おそらく上記のつぶやきは、下記の書籍に対する専門医としての進言ではないかと推察しています。
著者プロフィール
京都大学医学部卒、内科系大学院修了 医学博士宇和島市立病院名誉院長
刊行が1996年。今の精神医学とこの当時の精神医学の診断は全く違います。腎臓疾患がご専門のようです。どんなに精神医学の新学説に目を入れていて、人文学領域に長けていても、私は、餅屋は餅屋だと考えます。
そして医学界には、精神医学領域と、一般医学界には、深い溝や偏見があるという話を耳にします。意識無意識にかかわらず、精神医学に対して、偏見の目がどこかにあると。精神疾患に対して一番理解を示さなければならない医療スタッフですが、同僚がうつ病を発症した時などは、厳しい目が向けるという話も目にしたことがありました。そんなこれまでに見聞きしてきたことから、一般医学の世界から精神医学を語るのは難しいのではと思ってしまうのでした。⇒【*10】
アマゾンの書評でも、最初に結論ありきで話が展開されているという指摘がありました。
本の構成として、ゲシュヴィント症候群への言及が唐突で、最初から意図された書き方なのか疑問が残る。また、それもあって理解が不十分なような気も。
読まずに語るのは大変失礼ですが、やはり精神医学の観点からの知見を知りたいと思いました。機会があったら読んでみようと思います。
参考:書評・近藤俊文著『天才の誕生』 より
てんかんは、現代の医学では、精神分裂病や躁麓病などのいわゆる内因性精神病のカテゴリーからは除外されていて、脳の器質的疾患と理解されているという(P.178)。
【追記】(2017.12.27)上記にて「てんかん」が現在、除外されていることについて言及されていました。
参考:近藤俊文著『天才の誕生・あるいは南方熊楠の人間学』の誕生
著者は精神科は専門でないと言いながら、近年の学説を存分に用いて、文科系論者では決して立てない視点から、的確な論証を行っている(に違いない)。そして「人間学」にとっては、こうした人体学的照射が必要な所以を、控え目ながらも確信をもって述べている。
文系論者には語れない視点に立つことはできると思うのですが、真の精神医学的な論考ができるかと言ったら‥‥ と感じていることをとりあえず、読む前の感想としてここに記しておくことに
参考:
〇講演「症例クマクス」中沢新一 | 明治大学 野生の科学研究所
〇南方熊楠顕彰館「中村古峡」展・開催中 | 近代日本精神医療史研究会
〇ゲシュヴィント症候群 ( 子どもの病気 ) - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害・特別支援教育) - Yahoo!ブログ
〇ゲシュヴィント症候群: 南方熊楠(みなかたくまぐす) ( メンタルヘルス ) - Dr ミカのメモ帳: 脳・栄養・心 (発達障害・特別支援教育) - Yahoo!ブログ
■楽しみのポイントが違う
熊楠の楽しみは、結果なのではなく、プロセスなのだと思います。
〇過程を楽しむ
それと同じと思われるヌイプレジェクトの作家の活動を日曜美術館で見ました。作品を作ることが目的なのではなく、作っている時間が楽しい。その積み重ねが作品になった。根気よく作ったのではなく、楽しい時間の積み重ねだった。
#日曜美術館 「糸から生まれる『無限の世界』よりhttps://t.co/6yhZOKFrHy
— コロコロ (@korokoro_art) 2017年12月24日
作品を作ることが目的なのではなく、作っている時間が楽しい。その積み重ねが作品になった。根気よく作ったのではなく、楽しい時間の積み重ね。熊楠も同じなのかなと思った。#南方熊楠
熊楠と同じ境地なのだと思いました。
〇楽しむことは本質、才能
楽しむことは、本質にたどり着く。
— 文田聖二 (@fumitaseiji) 2016年7月20日
本質を意識したり、気づいたりするだけで、脳が喜び生き返る。
絵を描くとき、ものやもの事を思い込みや観念でとらえている人と
本質でとらえる訓練をしている人とでは
描く線に違いがでる。 pic.twitter.com/8LXjCySfNs
楽しいことが才能。
— 文田聖二 (@fumitaseiji) 2016年6月29日
継続すること、継続してしまうことが重要で、何よりも説得力がある。
目的意識ではなく、そうしたいからしてしまうこと、
自分を突き動かしている「欲求・衝動」を与えられたものだと考えると
寸暇を惜しんでやってしまう好きなこと楽しいことが才能。
■熊楠の理解の変化
熊楠がどんな人であるか・・・・ 私自身、2005年に出会ってから、12年の年月がたち、その間に、随分と認識が変化しました。
〇2006年(18年) 企画展「南方熊楠ー森羅万象の探求者」
開催催されたそうです。
日本の科学者技術者展シリーズ第4回 南方熊楠 −森羅万象の探求者−
この時は、「森羅万象を探求する自然科学者」として紹介されたそうです。このころは、まだ科博の常設展示を知らない頃で、アンテナには全くひっかかっていませんでした。まだ、美術鑑賞もそれほどでもない時期でした。南方熊楠と聞いても、行っていたかどうか‥‥
生誕150年の今年、南方熊楠の見直しを‥‥とご挨拶が。
〇2017年「南方熊楠-100年早かった智の人-」
情報を収集・蓄積し、操作、処理した「情報提供者」
近年では情報を収集・蓄積し、操作、処理した「情報提供者」として評価されたとされています。
■企画展の感想
〇「情報提供」とは何か?
熊楠は「情報提供者」なのか‥‥ それではちょっとお気の毒では?(笑) と思ってしまいました。それだけはないものをいっぱいもたらしてくれたように思います。
情報提供だけでなく、それをいかにまとめあげるのか、そのプロセスも示してくれました。最初の情報収集の段階でも、研究分野の範囲のことだけにとどまらず、人文関連の情報までも、垣根なく収集したことが示されています。
隠花植物研究時代に取集した人文系の情報
それらの若い時からの基本アプローチは、晩年の「虎」の研究で花開きます。自然史系と人文系の両方の情報を集めていきました。
これらの混沌としたとりとめない状態を、いかにまとめあげていくか。その手法が丁寧に示されており、展示からも、単なる情報提供者であること意外にも示していたと思うのです。
〇「操作」「処理」も含めた情報提供
しかし解説を改めてみると「情報提供」が意味していることは、「操作」「処理」されたものまで含めて「情報提供」ととらえていることがわかりました。
個人的には、「操作」「処理」されたものは、もう「情報」ではなく、その人のオリジナルな「創造」と思いたいです。
南方熊楠の情報提供の「操作」「処理」された部分は、情報という枠を超えたものであると。そしてその「操作」「処理」の部分の手法、考え方が、「智」とは何か。「学ぶ」ということはどういうことか。その本質に至るための方法を示してくれているのではないか。
〇「智」とは何か?
世の理を知る。つきつめていけば、すべてはつながりあっている。そしてそれらはみんな平等であるということ。そのことを学びながらたどり着くための方法を、伝えようとしていた。それを自分でみつけていくことがいかに楽しいこどであるかを・・・・
時代が南方熊楠に追いつき、熊楠の頭と同じようなインターネット空間というものを人々が体験できるようになりました。そこで、やっと熊楠の頭の中の概念が理解できるようになってきたのだと思います。
おそらく、博物学が発達した頃の人や、さかのぼること、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの頭の中も、熊楠のようだったのではないかと思うのです。しかし、レオナルドでさえも、その自身の思考を、ビジュアル化して残していないはず。しかし熊楠は、書籍を編纂する上でメモとして残していた。あるいは、究極の「南方マンダラ」それが偉業だったのではないかと思いました。知を求めていれば、手法としては大なり小なりたどりつくことができるアプローチ法。
何を楽しいと思うかは、人それぞれ。人の評価や人の価値感に惑わされず、自分が楽しいと思えることをみつけて歩いていく。(評価されることが楽しい、価値があると思える人は、そこに向かえばいい)自分の「好き」をみつけて、ある時は、掘り下げ、ある時は広げたり‥‥ それが「楽しい」と思えること。それが「智」「知る」ことの本質的なこと。「学ぶ」とはどういうことかを教えてくれたのだと思ったのでした。
〇その先にあるもの「南方マンダラ」
そうやって学んだ先に何があるのか、どんな世界があるのかを示しているのがあの「南方マンダラ」なのだと思います。
南方マンダラについて⇒【*11】
きっと、これが私たちの既成概念を超えた、新しい「智」の世界。まだインターネットのような具体的なシステムでビジュアル化されていないため、まだ理解はできないないけど‥‥ ここたどり着くにはあと何年かかるのか‥‥
■追記
【2017.12.27】気が付けば熊楠と同じ手法?
これまで断片的だった熊楠に関する情報。そして「南方熊楠-100年早かった智の人-」や熊楠に関する情報や、これまでのtwitterのつぶやきから、専門家であるなしに関係なく、気になったものを集める。これは熊楠が、専門家ではなく地域の人にあれこれ聞いて歩いたことにも通じるのかもしれません。現代版の井戸端会議の収集法といえるかも(笑) そしてこれまで自分が得た知識からのつながりひっぱりだして、そこから「南方熊楠」という人物をより理解していく。その面白さ。熊楠が示した手法を用いて、いろんな人がいろんな形で熊楠を理解しようとしているようです。個々の興味によって熊楠のどんな部分にスポットをあてるかの違いも興味深いです。
#南方熊楠 論文にせず収集に徹したのは、癇癪持ちを自覚し「狂気に陥らずに済んだのは図譜の作成が精神を安定に保つ手段だった」と語る。
— コロコロ (@korokoro_art) 2017年12月24日
参考:file:///C:/Users/hh420/Downloads/Honbun-6092_12%20(1).pdf
本人が語る一次情報でも本当かな?と思うことがある。これ表向きの言葉じゃないかと思った
天才の誕生―あるいは南方熊楠の人間学 1996年刊行https://t.co/MBt2TKVoGk
— コロコロ (@korokoro_art) 2017年12月24日
精神医学・神経科学的知見の統合を通して描き出した独創的かつ秀逸な考察「ゲシュヴィント症候群」という人格的構造を浮き彫りに
プロフィール
京都大学医学部卒、内科系大学院修了 医学博士宇和島市立病院名誉院長
【2017.12.27】南方熊楠を特別視しない 他にもいる
私もそう思いました。南方熊楠と同じ思考でアプローチした人は、他にもいる。画家も追いかけていくと、同様の思考をしています。粘菌を知るきっかけとなったガレも、まさに南方熊楠と同じ思考を持った人だったと思うのです。その他にも、何人もの画家がそのようなアプローチで作品を制作していることにたどりつきます。
学びにおいて、何かを求めていれば、必然的にこのようなアプローチに達していくもので、私の回りにも、こういう学び方をする人は、何人かいます。
ただ、網羅できる範囲の違い、深さ、広がりには各段の違いがあるわけですが、学び方の本質というのは、同じだと思うのです。
〇灘高校の国語教師の教え
灘高校で有名な、小説「銀の匙」一冊を3年かけて読むという授業もまさに南方熊楠のモノのとらえ方、考え方と同じです。
◎東大合格激増させた灘校伝説教師の授業は文庫本1冊読むだけ│NEWSポストセブン
◎伝説の98歳灘校教師が教科書の代わりに『銀の匙』選んだ理由│NEWSポストセブン
「“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい」
「スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから」
「私の信条は、『高く、広く、明るく』です。
目標を高く、視野を広く、生活は明るく暮らしていきたいと思っています。私は好きなことをがむしゃらにやってきました。皆さんも自分がいいと思うやり方を見つけて、それを迷いなくやり遂げていってほしい。自分がこうだと思うものを見つけて進めてほしい。誰かのマネをする必要もないし、逆にいいなと思えばマネをしてもいい。とにかく自分がやりたいことをやる、ということが大切。自分が好きなこと、やりたいことをどんどんやりなさい」
〇志村史夫の思考
また、文系理系を問わず横断的な知でものごとを捕らえる物理学者 志村史文という研究者にも出会いました。
■思考:学ぶとは? 考えるとは? 知識の融合 - コロコロのアート 見て歩記&調べ歩記
〇だれもが入口にはたどりつける思考
熊楠が特別なわけではない。ただ、網羅した範囲がとてつもなく広く深く、そしてその思考をビジュアル的なメモとして残したということが特筆点なのだと思いました。
多くの人がその思考法に達することはできる。それがどこまでの範囲を網羅できるか。
また、その人たちにとっては、これらのアプローチはごく当たり前のことになって生活の一部になっているため、特別のことと思っておらず、それを理論として考えたり、図式化したりといったことは、考えないのかもしれません。そんなことを感じさせられました。私でも、範囲はごくごく限られてはいますが、国試の勉強をしていた時に、そのようなとらえ方の入り口に立てたわけです。
参考:熊楠生誕150周年記念展レポ – Edupreneurs – Medium
↑ 自分も同じこと考えていたと語る人
〇KJ法が同じようなもの?
熊楠の基本的な思考って、KJ法と同じだって思いました。比較的、同じような思考をしてる人っているような気がすると思った理由がわかりました。KJ法と似ているから、そのテクニックを身につけている人は結構、いるはずです。ブレストにしても、情報整理をするにつけても、とにかく思いつくものを洗いだ出す。それらから、似たようなものをグループ化して関連づけていく。
この方法論を確立されたのが、文化人類学者、川喜田二郎氏。アルファベットの頭文字だったと今更ながら知りました。この方法、ご自身で作り上げたのでしょうか? もしかしたらどこかで熊楠の思考に触れてそれに誘発されていたりするのか・・・
しかし、このような思考法を持っていた人は、他にもいたはず。そこに方法論として確立できて世の中に広げることができたことが功績なのだと思いました。
私がKJ法を知ったのは、30年ぐらい前のことです。インターネットはまだ普及していませんでした。その時代から漠然と身につけてそれがいつの間にか、知らないうちに、自分の物事のとらえ方、考え方として置き換わって、自分のとらえ方のように思っていたのでした。
【2017.12.27】粘菌という生物の位置づけ
生物の系統のどこに位置するのか‥‥ それがずっとわからなくて、その先に進めませんでした。これはいつものことなのですが・・・ 今回は、熊楠に、そういう既存の学問様式にとらわれた考え方がダメだと言われた気分。粘菌は、どこの位置にも位置付けられない。そんな生物らしい。そこに生命にの根源的なものがなあり、オスメスでない中庸的な視点、状況によって形を変えることで、生き延びていく。そんな視点に立つようになったらしい。とどこかで見たのですが… (見つかりました⇒【*12】 )
そして微生物という概念についても捉え直させられました。生物や人体、医学を捕らえる時、自分のかつての学びの中に、その事象が存在していたかどうか。それをもとにしながら判断するのが、第一段階。知識の中にない場合は、新知見なのかどうか・・・・・ しかし、それで判断できないことが非常に多くなっています。栄養や健康、コスメ製品の科学的な話は、聞いたことのない話ばかり。
ある時、やっと気づきました。私が学んできたのは、病態に関する人体の仕組み。健康体がより健康になるためのメカニズムというものについては全く知らないということに‥‥ 乳酸菌飲料の菌も、知っている菌もあるけど、ほとんどが聞いたことがないものばかり。微生物学に真菌、リケッチア、マイコプラズマ、ウィルスが存在しているけども、真菌のグル―プにキノコはない。考えたら当たり前のことなのですが、真菌にキノコは含まれていなかったけど‥‥ とずっと思っていました。
粘菌も同様。自分の学びの中に、粘菌という存在はありませんでした。それは、いったいなんなんだ・・・という長年の疑問。私が学んできた微生物学は「病原性微生物学」だったという単純なことにやっと気づかされました。そこで扱われるものは、限られたものにすぎなかった。そして、動物か、植物か… といったそういう概念で捉えるのでなく環境によって変化する生物もいる。そんなことを粘菌という名の生物がいることを知って初めて知ったのでした。
【2017.12.31近代科学と古代仏教の統合
テーマ「南方熊楠」のブログ記事一覧 たけさんの魂のマンダラ /ウェブリブログ
西欧近代科学の論理と、古代仏教の論理とを統合することによって、生きている現実をとらえるのにより適わしい方法論を創出しようという壮大な試み
(人の身体の仕組みを追いかけた先に、科学を超えた神秘を感じさせらえた国試の勉強をしていた頃に、神のようなものを感じた感覚に似ているような‥‥)
■参考・関連
〇人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜現代人が見習うべき唯一無二の思考法(中沢 新一) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
〇【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。(和歌山県)
〇 “ÁW No.36 南方熊楠 ---- 境を超える探究者
バックナンバー
〇国立科学博物館 南方熊楠の企画展を開催 | 月刊「事業構想」事業構想ニュース
造語「informant-savant」に込めた意味
【症例】
〇 講演「症例クマクス」中沢新一 | 明治大学 野生の科学研究所
【粘菌】
〇粘菌は「生きた哲学概念」
人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜
現代人が見習うべき唯一無二の思考法(中沢 新一) | 現代ビジネス | 講談社(3/6)
【マンダラ】
〇明日への視座(23)南方熊楠の曼荼羅論 社会学者 鶴見和子 さん
〇 『南方熊楠 100年早かった智の人』@国立科学博物館 - Sightsong
〇発想法 - 情報処理と問題解決 - : 総合的方法を実践する - 企画展「南方熊楠 -100年早かった智の人-」(国立科学博物館)-
〇破天荒な天才学者<南方熊楠>(1)|hakuju-nakashimaのブログ
〇「アタマの引き出し」は生きるチカラだ!: "粘菌" 生活-南方熊楠について読む-
■関連
国立科学博物館「南方熊楠 -100年早かった智の人-」 | インターネットミュージアム
■脚注
一般人が、私と「熊楠」との出会いは・・・と語ったところで、それが何か? と思ってしまいますが(笑) 私と「南方熊楠」の出会いは‥‥ とはじまる文化人の出会いは面白い! やはり知識人と「熊楠」の出会いは一味違います。それなのにやはり、みんな「南方熊楠」をなんて読むのかわからず、「なんぽう?」「くまくす?」悩んだのは、私と一緒。物書きだってこうした個人的なことに触れてるから、私も書いていいんだ‥‥と思わせてくれたのが下記の文章でした。
〇中沢新一:人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜現代人が見習うべき唯一無二の思考法(中沢 新一) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
〇松岡正剛:1624夜『南方熊楠全集』南方熊楠|松岡正剛の千夜千冊
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*2:■幕末から昭和の人
シ―ボルが来て、博物学が普及し始めたころの人。シーボールと一つ違いの其一。北斎や酒井抱一、「喜多川歌麿」「小田野直武」「伊藤若冲」そして「平賀源内」「伊能忠敬」「一茶」などが活躍していた万能な人がひしめいていた時代の人。
そして明治を迎え‥‥神社合祀反対運動していたと思っていたら、昭和天皇にご進講し、キャラメルの箱で標本を献上・・・という話を聞き、江戸時代から昭和まで生きていたの?・・・ どれだけ生きていたんだと思ったら、生まれは 1867年(慶応3年)明治維新の前年です。江戸の最終年に生まれ、明治・大正・昭和を生きた人。 1941年(昭和16
ーーーーーーーーーーーーーー
*3:■人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜
現代人が見習うべき唯一無二の思考法より
熊楠の抱いた着想を展開していくことによって、私たちは新しい科学、新しい学問を創造していくことが可能です。偉大な思想は最初の一歩だけが決定的です。熊楠はその一歩を確実に踏み出しました。
公開講座:南方熊楠の新次元 第一回「南方熊楠の夢と思想」レポート | 明治大学 野生の科学研究所
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*4:■講演「症例クマクス」中沢新一 | 明治大学 野生の科学研究所
近所の蔵書家の家に通っては和漢三才図会(当時の大辞典)を読み、家に帰って一字一句正確に、図までも書き写したと言われています。このカメラのような記憶力・描写能力は、後に博物学、人類学、考古学など様々な研究に生かされ、大英博物館勤務中にも熊楠は斬新な研究を発表していきます。
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*5:■新種発見の宝庫の場所を手に入れた熊楠
知恵泉で、人の踏み入れない熊野の森。その地形や環境からも、そこは新種の宝庫だったと語られていました。そいう場所をみつけ次々に新しい種を発見する熊楠は、打出の小槌づちを掴んだようなもの。しかし、その場所に他の研究者はプライドもあるでしょうし踏み込むことはできない。そんなジレンマがあったのでは?
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*6:■皇室関係の研究
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*7:■試験10分前の記憶力の高まり
学生時代の試験勉強で試験開始10分前は、文字を覚えるのではなく、まとめたノートを映像のように覚えていたという記録がありました。この能力が火事場のバカ力ではなく、ずっと維持できれば、熊楠のように書き記すことができたのか?!(笑)
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*8:■参考: 講演「症例クマクス」中沢新一 | 明治大学 野生の科学研究所
観念の高い部分と猥談のような低俗な部分がシナプスのように一気に結びつきあらゆる領域に繋がっていく、その瞬間に想像力が炸裂しているからです。(驚くことに、熊楠もまた身体と首が乖離する「首抜け」感覚の体験者でした。)
ここでいう「首抜け」感覚とは違うかもしれませんが、身体と首=頭(=思考)を分離させるという感覚を、私は解剖実習の時に体験してると思いました。目の前にある献体に対して、怖いとかという一切の感情を、体から切り離して向き合う。心(=頭で考えること)を体から切り離すという感覚です。(⇒■解剖に対する当初の受け止め方)
あるいは、金縛り状態。頭はクリア起きているけども、体は眠っているため硬直状態。これも一種の「首抜け」ではないかと思うのでした。(2017.01.11記)
熊楠が拠り所としていたのは、動植物の世界に強く結びついた自身の名前でした。当時の紀州では「熊」「楠」など自然にあやかり名前をつけ、守り神とするトーテミズムの風習が色濃く残っていました。これが熊楠の想像界を現実界・象徴界と再結合させる症例として機能していたと考えられます。
熊楠は生と死が連続的で不可分であるという根源的な構造を感じ取っており、涅槃経(「この陰滅する時かの陰続いて生ず、灯生じて暗滅し、灯滅して闇生ずるがごとし…」)を引用したり、現世で罪人が死んで地獄の衆生が生まれると言った例え話を記しています。
生命観を実証する奇態の生物―粘菌と出会うのです。粘菌は無形の流動体となって動物のように移動・捕食活動を行う形態と、植物のように動かず胞子状の形態をとる形態を繰り返しています。動と不動、生と死を繰り返す粘菌こそ、熊楠にとって生命世界の真理を証明するものであり、彼の現実界を補強する症例になったのでした。
科学の先にある宇宙、神、宗教。平等であり繰り返す。流転・・・・ 優秀(と言われた)な科学者がオ〇ムに傾倒するのも、一つの流れかと思ったことがありました。そういえば、中沢新一氏を知ったのは、宗教学者であの事件の時のことだったなぁ‥‥と(2018.1.11記録)
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*9:■病名の変更
精神医学の「分裂病」という名称が、精神の分裂を表しているようで誤解を招くということから「統合失調症」と病名に変更が行われました。同様な例として「痴ほう」を「認知症」という名称にしたり、「後進国」を「発展途上国」と言い換えたりということが行われてきています。しかし、これってあまり意味がないような気がしていました。表していることは同じなのに呼び名が変わっただけでは、人の意識は何も変わらないのでは?と…
そこで、どうしてこのような名称が変更したのかなどを調べる過程で、それまでの精神疾患の病名のつけ方とか、診断方法の変化などを知るようになり、時代とともに分類がかわったり、落とされたりするということが起きていることを知りました。
そうした中で、美術鑑賞をしていると画家を病的な部分から検証する病跡学というものがあることを知りました。ところが、あの画家は〇〇だった‥‥と言われている病名の分類が、一般的なDSM分類と言われている病名の中に、ないものが多かったのです。病跡学を研究しているのはどういう人たちなのかも含め、そんなころころ変わっている今の現状の中でどうとらえているのかなと思っていました。
DSMという分類の中で見かけない病名が、病跡学の病名として語られている。そんな印象を持っていました。そして熊楠の「てんかん」は今は、精神疾患ではなくなっています。そんな状況の中で、どうとらえられているのかということに、興味を持ちました
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*10:■医学ではない立場からのアプローチ
では、心理学や美術史、科学史など偉人の研究など他分野からアプローチする病跡学や精神医学はどうなんだろう‥‥ と思っていたのですが、そういう、医学だ、臨床心理だ、病跡学という、縦割りで考えていることそのものが、ナンセンスだと熊楠は行っているんだなということが見えてきました。精神医学を学ばなければ、その本質はわからないと言っていることが本質的ではないと‥‥
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*11:■南方マンダラ
〇明日への視座 (23)南方熊楠の曼荼羅論 社会学者 鶴見和子
〇【特集】時代が彼にあこがれる 知の巨人・南方熊楠。
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*12:■講演「症例クマクス」中沢新一 | 明治大学 野生の科学研究所
生命観を実証する奇態の生物―粘菌と出会うのです。粘菌は無形の流動体となって動物のように移動・捕食活動を行う形態と、植物のように動かず胞子状の形態をとる形態を繰り返しています。動と不動、生と死を繰り返す粘菌こそ、熊楠にとって生命世界の真理を証明するものであり、彼の現実界を補強する症例になったのでした。
人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜現代人が見習うべき唯一無二の思考法(中沢 新一) | 現代ビジネス | 講談社(3/6)
個体の死と言われているものも、その奥には無数の生命体が生きている。それまで生きていた生命体の中にいた微細生物は、この個体が死ぬと、分解や発酵を通じて形態を変えて、別の生命活動を始めます。その意味では、生と死は渾然一体となって動いているのが世界の実相です。生死は相即相入の状態にあるのです。
熊楠は粘菌のしめすこの「中間性」に着目しました。生と死は分離できない、生死は相即相入している。熊楠はこういう粘菌を「生きた哲学概念」として立てることによって、生命の実相に迫ろうとしました。
科学では、現象は因果関係で結ばれます。原因があって結果がある。原因となるものが同じ平面の上で変化していって結果に結び付く。こうして結果と原因は因果関係で結ばれます。
熊楠は「生きた哲学概念」としての粘菌が垣間見せてくれるものこそ、近代科学の思考を拡張したところにあらわれる、生命と世界の実相に適合する未来の科学の思考法をみた
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