美術作品を見たあとに、美術界の論考などを見ていると、自分とはとらえ方が違う・・・と感じさせられたことについて、随時記録したり、思い出したことをここに集めていこうと思います。
■思考の違いを感じた点
まず、最初に感じさせられているのは、美術界の定義というのは、どのようにとらえられているのかという疑問がありました。
そして考察や論考について、データに基づいていないのでは? と感じたり・・・
考察や提言をするにあたって、その根拠となる裏付けをとったりしているのだろうか・・・・とか、
または、自然科学の視点に欠けているのではないか・・・・
といった自分のこれまでのものごとのとらえ方と異にすると感じさせられたことを記録。随時、思い出したらここにまとめていこうと思います。
■具体例
■速水御舟:山種美術観
〇速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造― ④《炎舞》(2016/11/04)
〇速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造― ③《名樹散椿》「撒きつぶし」と其一 (2016/11/03)
〇速水御舟の全貌 ―日本画の破壊と創造― ②《翠苔緑芝》…ひび割れの謎 (2016/11/03)
■その他
○菱田春草:[4]《落葉》制作順序論争ウォッチング (2016/03/06)
○③奥村土牛展:美術館内で、「醍醐寺」の桜と「吉野」の桜の饗宴 (2016/04/07)
○若冲展:《蓮池図》 「枯れた蓮」と「蕾」 蕾にはいつ気づく? (2016/05/07)
○京都国立博物館:禅 ー心をかたちにー 《慧可断臂図》 (2016/05/20)
○国吉康雄展:③「クニヨシブラウン」「クニヨシホワイト」 (2016/06/15)
■捉え方の違いから見えてきたこと
当初は物事のとらえ方の違いに戸惑い、根本的な思考やアプローチの違いを感じさせられました。それをどう処理したらいいのかに悩んでいました。(←いや、別に悩んだわけではないのですが・・・(笑))なぜ、想像・推察で語るんだろう? 事実やデータに基づく考察をしないのかしら? 定義があいまいなのに、それらしく語ってしまうのか・・・ 我々は、これを「〇〇」と呼んでいるという条件設定をして語ればいいことだと思うのだけど・・・・
■学問の体系が違う???
それらの違和感について、国吉展を見てやっと理解ができた気がしました。国吉がアメリカに行って悩んだのと同じ状況に陥っていたのではないかと・・・ 文化の違い、土壌の違い・・・ 相手には相手の世界がある。
それは自分が過ごした科学の世界と、美術世界の成り立ちが違うということに気づかされたのでした。実験やデータに基づき考察することが当たり前のこととして受け止めてきた世界と、そうしたデータを得にくい中で成り立ってきた世界。成り立ちが違えば、とらえ方も、思考も違う。ということにやっと気づけた気がしました。
国吉の作品から、読み解かれる一つの方向として、当時の社会情勢、日本とアメリカの関係、政治的意味が挙げられていました。ところが私は、自分自身が行きつ戻りつして、あれこれ考えて理解しようとしていることから、「フィードバック」という言葉が浮かびあがりました。そこから連想される言葉が「恒常性の維持」というキーワードにつながったのです。つまりは「生命として生きること」 国吉の行きつ戻りつの人生から、恒常性を維持しバランスをとっている姿が浮かびました。それが「生きる」ということで、国吉は「いかに生きるか」を描いたのだと・・・
○国吉康雄展:②-1 最晩年作品 《ミスタ―エース》と自己対話型鑑賞(2016/06/09)
アメリカと日本の狭間で、両国の思考や価値観、物事へのアプローチの違いがあるけども、お互い、認め合おうということを教えられた気がしました。もともとの根幹が違う世界・・・・ そう思うと、美術の世界の考え方というのがだんだん、わかってきたように思いました。
蛇足
先日、池上さんの番組で、グラフの表現にごまかしがあったと騒がれています。
〇フジテレビ「池上彰特番」が犯した、残念すぎるレベルの3つのミス(髙橋 洋一) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
私もあの番組、見ていました。指摘されていることは、グラフを見る時に、いつも確認するべきチェクポイントとして認識していることでした。縦軸のピッチ、波線のカットによって、データが誇張されていないか。しかし・・・・気づきませんでした。それは音声、映像で受け取り、じっくりながら視聴のためきちんと確認をしていませんでした。一方で、池上さんの番組でそのようなことが行われてはいないはずという信頼のようなものもありました。池上さん自身も、著書の中で、物事の本質を見極めるための大事な部分として、グラフの見方などを語っていた記憶があります。
伝えたいことをデータでより顕著に見せるための手法(←誇張ともいう) これは、いろいろな場面で使われる常套手段です。それは、伝える側には伝える側の立場がありますから・・・・ それをどう読み解くかは受け手の問題。
そして、池上さんは自身の冠番組として、どこまで企画に携わり、その内容をチェックできる立場にあったのか。ここでの主張は、池上さん主導によるものだったのか。番組主導の内容だったのか。それによっても、どんなグラフを使うかについては、番組が用意したのか、池上さんの指示で作られたのか・・・・ 番組主導で作られた場合、その確認はいつ行われたのか。収録直前で、修正は無理な状態だった? しかし、進行の内容を考えると、論点の解説にグラフは重要なポイントでもあるので、池上さんは、このグラフであることを事前に把握していることが考えられます。意図的にこのような表現を使ったのか・・・・ などとあれこれ考えて、それぞれの立場ってものがあるわけよね。と思うのでした。
自分がどこの位置にいるかによっても、データの扱い方も変わる・・・・ それが、美術界に感じていた何に根拠を求めるかという、考え方の違いと重なるのでした。