浅井忠って誰? てっきり「あさいただし」かと思っていたら「あさいちゅう」なんですって! なんだか聞いたことある名前と思ったらそれは「荒井注」でした(笑) この人、美術界では有名な人なの? 何をした人? 聞いたことがありません。でも、解説に気になるキーワードがいくつかあったのでブロガー内覧会に申し込み参加させていただきました。
こちらに掲載した写真は、ブロガー内覧会にて撮影。美術館より撮影の許可をいただいております。また対比写真は、撮影許可美術館にて撮影したもの。ブログ掲載の許可を得ています(※印の写真)
- ■明治を代表する洋画家らしいのですが・・・
- ■図録がおすすめ
- ■本展示の概略
- ■先立つものを提供した住友春翠
- ■興味を持ったキーワードがつながった!
- ■別のつながりも・・・・
- ■まとめ・感想
- ■関連
- ■脚注
■明治を代表する洋画家らしいのですが・・・
明治期を代表する洋画家だそう・・・・ えっ? そうなの? 聞いたことないんですけど… このあたりは、美術を愛好する人にとっては常識レベルなのでしょうか? でも、学芸員のさんが「ただし」でなく「ちゅう」です。とお断りしていたってことは、まだまだ、世間一般には、知られてはいないって思っていいわけですよね?
(それにしても最近、この手のコピーが多いですよね。若冲の「わかおき」に始まり、雪村の「ゆきむら」、海北友松の「うみきたともまつ」・・・・ あまり知られていないアーティストにスポットをあてる傾向になってきているのでしょうか?)
■図録がおすすめ
内覧会が始まる前に、レクチャーがありました。
・泉屋博古館 学芸課長 実方葉子氏
・泉屋博古館分館 学芸員 森下愛子氏
〇これ一冊で網羅
一生懸命、メモをとっていたのですが、図録を見たら、すべて書いてありました。この図録、なかなかすぐれモノです。
〇デザインに工夫がみられる図録
今回の展示のテーマは「デザイン」 さすがに編集も工夫がされていて読みやすく、コンパクトまとめられていました。カラー豊富で、章の扉ページは、作品が背景に使われ、ページの背景も関連する写真が地紋のように使われてていてしかもカラーです。
帰りの電車の中で全部、読めちゃいました。
▲作品の並べ方もこんな感じ
▼奥付を見たらデザインの担当が京都工芸繊維大学美術工芸資料館で納得
この一冊があれば、内覧会のレクチャーを受けなくても、バッチリ!! 展示の内容の把握がでちゃいます!
が、しかし・・・・ 活字では書けない、微妙なニュアンスは、やはり学芸員さんの言葉でないと伝わらないのです。なるほどぉ~ そういうことだったのね… そしてそれを活字で表すと、こういう表現になるわけだ… クスクス…って楽しめました。
〇黒田清輝と浅井忠
たとえは、近代の洋画家の黒田清輝と浅井忠の関係について、図録によれば・・・・
要約引用(p6~)
明治22年設立した、東京美術学校は極端な欧米化主義のへ反発から、明治美術会を設立し後身の指導した初期洋画界の代表的な画家のひとり。ところが、フランスで印象派の作風を学び帰朝して「外光派」と呼ばれた黒田清輝の新しい画風に対して、浅井は「脂(やに)派」と呼ばれることもあった。その浅井は、明治31年、東京美術学校の教授に就任、いち早く教鞭をとっていた黒田清輝とともに油彩画教育をすすめた。しかし、着任後、ほどなくフランスへ留学・・・・
(レクチャーで聞いた時は、ヤミ派(闇派)って聞こえました。暗い感じだから闇なのね・・・って。)
このような事実が淡々と書かれていますが、その時の浅井忠の心情などとともに解説されると、そうだったのかぁ・・・と文章からは見えないことが伝わってきました。
〇主流派とその周辺の画家
ちなみに先日行われた「吉田博展」でも黒田清輝と、取っ組み合いがあったとかなかったとか・・・・という話があり、黒田清輝という存在が、当時の美術界で、他の画家からはどう見られていたのかということが垣間見れました。浅井忠も似たようなことを思っていたらしい(はっきり言及はされませんでしたが) 黒田清輝を周囲の画家の目という側面でとらえてみるとおもしろそうです。
■本展示の概略
この展示の意味をざっくりといい加減な解説で・・・・(想像も含まれてますのであしからず)
〇京都から「中澤岩田」がパリ博へ
明治維新により、近代化が進みました。それによって美術の世界も西洋に学びます。特に京都という場所は、伝統工芸が盛んな場所です。この産業を発展させるには、科学的知識に裏打ちされた技術とデザイン感覚を持つ技術者の育成が急務! ということなりました。
そこで、現京都大理工科の学長であり、内国勧業博覧会の審査員の中澤岩太が
▲浅井忠が描いた中澤岩田像
▼1900年のパリ万博に視察にでかけていきました。
1900年、パリ万博といえば、つい先日も行われたましたがミュシャが大絶賛を浴びていました。アールヌーボー花盛りの時代▼
一方、それまで注目を浴びていた印象派は、ゴッホやゴーギャン、キョビズムが台頭し、方向性が変わってきていることを感じました。黒田清輝の持ち帰った印象派はもう古い!? そして日本の工芸の豪華さはパリ万博では評価が落ちてしまいます。これからはミュシャのようなデザインの時代だ! わが国も、欧米の産業革命にならって、科学者たちと協力して工芸も科学技術も磨かねば! そのための教育機関を作るぞ! 技術だけではだめだ! デザイン力も磨こう!
日本の伝統に縛られていてはいけない。伝統を継承しつつ「日本らしい」工芸製品を作らねば・・・・ そのためには図案の研究や釉薬研究をしなければ! といち早く方向転換をしたのが京都だったのでした。
9種類の釉薬を使い分けた花瓶のセットを住友春翠が購入して支えていました
(さすがの1000年の都、京都です。これまでの伝統の継続は、常に伝統と革新が息づいていたからこそと聞きます。伝統工芸を守るためにしなければいけないことに、いち早く気づき研究所が作られていました。国家プロジェクトに対して、パリに人材を派遣する際も、京都の伝統工芸を、新たな視点で復活させて欲しいと直訴されたそうです。)⇒【*1】
〇東京から「浅井忠」もパリ博へ
一方、東京からは、美術学校の教授だった浅井忠も(当時、黒田の次、二番手扱いだったので、渡りに舟状態?)洋画研究でパリ万博に派遣されていました。浅井は浅井で日本絵画や工芸について、パリ万博を見ながらあれこれ思っていました。
アールヌーボなんていって、華々しく賞賛を浴びているけども、元はといえば、日本のデザインをうまいことアレンジして、いいとこどりして、目新しく見せてるだけじゃないか!(声なき声を代弁?(笑))
↑ これなんて正に、光琳などがモチーフにしてきた日本の意匠、燕子花を使って花瓶い仕立て上げてしまった!
万博で大成功を納めるパリは、全世界からは賞賛の嵐。けしからん! と地団太を踏んでいたかどうかはわかりませんが、これを放置しておいては日本の沽券にかかわる? 我々も立ち上がらねば! (と思ったのではないかという想像・・・・)
〇「浅井忠」京都へ引き抜かれ学校の設立に寄与
そんなふうに多分、思っていたと思われるところに、中澤と出会ってしまったわけです。飛んで火に入る夏の虫状態(笑)。意気投合するのは当然の成り行きです。新しく設立される学校の図案化教授を一つ返事で(?)快諾。
〇パリでの教材の収集
そうと決まれば、教材を可能な限りかきあつめて持ち帰るぞ!… そうして持ち帰ったものの一つがミュシャの装飾本です。
その他にも陶器や、 ティファニー
コペンハーゲンや マットな陶器
水彩、油彩などの絵画を持ち帰りました ▼
持ち帰ってきた絵が小さいです。それは、当時、船で持ち帰らねばならないので、大きなものを持ち帰ることができませんでした。しかし、その小さな絵には凝縮された様々な技法のエッセンスが詰め込まれた作品ばかりを厳選しています。命がけとまでは言いませんが、必死だったのでは……(レクチャーより)
明日の日本を担う若者たちのため、そして日本の国のために、最小にして最大の効果をあげることのできる教本を選び抜き、希望に満ち満ちて持ち返った作品の数々…1章と2章の前半は、そんな持ち帰り品が展示されています。
〇図案教育と技巧の両輪で日本の独自性
中澤岩太と浅井忠のパリ万博での運命的な出会い。その後、手に手を取り合い、工芸を科学的にとらえつつ、デザインも英国の理論や装飾計画など理論に基づく図案教育を行いました。さらに自然の写生からパターンを作成する、日本的なデザイン制作法に昇華させていきました。
■先立つものを提供した住友春翠
そこに、もう一人絡んくるのが住友春翠。現、住友グループの基礎を確立した時代の人物です。技術力、デザイン力があっても、それを支える資金源がなければ成功しません。1900年のパリ万博の3年前に、住友春翠はパリに降りたっていました。欧米の工場や病院を視察し見識を深めていました。
その経験を活かし、その後、日本に洋館を建てました。するとそこに絵を飾りたくなってくるわけです。当時、一世を風靡していた黒田清輝の絵を購入しました。他にも、あとに続く人たちのために留学費用の援助をしたり、彼らが描いた絵の購入をしたりという形で、パトロンとして支えていました。
京都高等工芸学校は創作・教育のため。住友家は、支援・鑑賞のため。これらの両輪がいい具合にかみ合って回転し、当時の京都の工芸を下支えして発展してきたんだなぁ…ということがわかる展示です。
中澤の科学に裏打ちされた技術に、浅井のデザイン力が加わり、近代日本の工芸がデザイン力を持ち、製品としての価値も高め、世界で戦える土俵に押し上げたと功績があっての、今の日本なんだということを理解できる展示でした
〇《葆光彩磁珍果文花瓶》住友春翠が購入
近代陶磁器で初めて重要文化財に指定された大正期の作品。板谷波山作
1917年(大正6年)年、日本美術協会展で最高賞を受賞し、春翠が当時としては破格の価格、1800円で購入しています。
この壺は、美の巨人でも紹介されました。⇒KIRIN~美の巨人たち~(2017.06)
アールヌーボーと中国を融合した作風。
さて、どこがアールヌーボーでどこの部分が中国なのでしょうか?
ボディーに描かれている図案が中国の吉祥を描かれているそう。桃、枇杷、葡萄、鳳凰などが中国の吉祥柄。アールヌーボー部分というのは、霧がかかったようなぼんやりとして幻想的な葆光彩釉の表現のこと。
◆葆光彩磁(ほうこうさいじ)
薄肉彫文様が色彩と効果的に一体化するように板谷波山が創出した釉薬技法。
色ごとに防染剤で覆いつつ液体顔料を定着。艶消しのマット調失透釉を掛けたもの。
包み込み、境を曖昧にし、うっすらと光沢がある。
「葆光」の名称どおり、葆光彩磁では、多彩な色彩で彩られた釉下文様が
淡いベールに包まれたような独特の効果を発揮している。
(最初、見た時、ぼんやりとしたはっきりしない色あいで、これがなぜ重文なのかなぁというのが正直な感想だったのですが、このぼんやりとした色あいこそがこの作品の肝だったのでした)
■興味を持ったキーワードがつながった!
今回の展示で興味を持ったキーワードは、「パリ万博」「ミュシャ」「アールヌーボ」「ジャポニズム」「ティファニー」「第五回内国勧業博覧会」
これらは、これまで見てきた展覧会の中で目にしてきたものでした。浅井忠とどうかかわっているかが、理解できました。
⇒ ■内国勧業博覧会
■別のつながりも・・・・
〇日本美術はデザイン
内覧会に行く前に、 加山又造を見た記事を書いていました。
■生誕90年 加山又造展 ~生命の煌き 日本の美はデザインだった!
日本の美は「デザイン」であるということを、雪村までさかのぼり、そして現代の日本美術、加山又造もまたデザインであるということを認識していました。その過程において、浅井忠や中澤岩太といった人たちが、日本の美術のデザインを向上させるために尽力を注いでいたという過程があったことを展示を通して知ることとなりました。全てがどこかでつながっています。
作品を見ていると、どこかで見たことがある… そんな感覚に襲われます。
↓ パリから こんな感じになりました・・・・
持ち帰った花瓶が ▼《梅図花生》
出典:所蔵品|collection (撮影をし忘れました) 光琳などに見られる伝統的な梅というモチーフが
こんな感じのアール・ヌーヴォー調の花瓶に
〇デジャブな作品
左:「野分蒔絵文庫」 制作:杉林古香 図案:浅井忠
右:「朝顔蒔絵手箱」 制作:杉林古香 図案:浅井忠
この猪の鉛の感じが、光悦っぽいなぁ‥‥
朝顔も其一の朝顔の葉っぱに似てる? よくわからないけどデジャブ感が漂います
【本阿弥光悦の手箱】
鉛の感じや、手箱の丸みが光悦を思いうかべさせます
猪の手箱の解説に、丸みをおびた形状が本阿弥光悦に通じるとあり、手箱の曲線の丸みかと思ったのですが、猪の形のことを言ってるようです。本阿弥光悦の丸みのある形状というと、MOAで見た馬も丸みを帯びていました。
【鹿下絵新古今和歌集】本阿弥光悦
※MOA美術館にて 丸いフォルムの馬
【八橋蒔絵螺鈿硯箱】尾形光琳
光悦ではなく光琳ですが、朝顔の手箱が光琳の《八橋蒔絵螺鈿硯箱》に似てるなって思いました。単に鉛や螺鈿を使った装飾、金と漆の黒というコンビネーションによるのかもしれませんが・・・・
以上のように、あれ? 見たことある! といった日本の伝統的な要素を残しつつ、自ら図案をおこして新たなデザインの息吹を吹き込み、若手に制作を依頼するといった二人三脚が行われていました。
浅井と光琳の関係 パリで光琳百図を入手していた。アール・ヌーヴォーに出会うとほぼ同時に、アール・ヌーヴォーを通じて光琳(さらには光悦、大津絵、浮世絵など)を再発見していた。
〇大津絵もデザイン
また、この夏、「大津絵」に出会っていました。MIHO MUSEUMに訪れる前の宿泊場所が「大津」でした。その界隈では「大津絵」がお土産店に飾られていました。「大津絵」ってなんだったっけ? 以前、どこかで聞いたことあったけど、まあ、いいか…と素通りしてしまいました。
しかし、またこの展示会でまた「大津絵」が登場し、無視しないでちゃんと気にかけてね…って言いにきたみたいです(笑) 観光協会でお土産物として展示されているのを見ていたので、現地でお話を聞いておけばよかったです。
江戸時代の東海道五十三次の大津宿の手軽な土産物だったらしいです。民芸品のようなものでしょうか。美術作品ではなく、今でいうと量産品の絵葉書のようなものでしょうか? 日常の生活をデフォルメしてデザインとしてきた大津絵。その中に、デザインの神髄みたいなものを浅井は見ていたのかもしれません。
近代京都の大津絵 —小川千甕「西洋風俗大津絵」を中心に— | 京都府京都文化博物館
関西エリアに浸透していた大津絵は定型化した画題を持つようになり、特に四条派の画家たちは、しばしば大津絵画題の作品を手がけたことが知られています。明治以降も富岡鉄斎、鈴木松年、久保田米僊、浅井忠、竹内栖鳳、冨田渓仙、神坂雪佳などの近代画家によって、大津絵画題の作品や大津絵スタイルの作品が、しばしば描かれました。
そうした中でも、近代京都を代表する洋画家・浅井忠は「黙語図案集」や「今様大津絵」という絵葉書を作るなど、大津絵をことのほか愛好したことで知られます。
■まとめ・感想
浅井忠を知っている人は、晩年のデザインに尽力した浅井忠をより深く知ることができるのだと思います。浅井忠 1856年~1907年 享年51歳。今回の展示は、パリ万博の1900年から晩年の7年間にスポットをあてていたことに気づきました。あまりに内容の濃い業績だったので、もっと長い期間の展示かと思っていました。改めて時間の経過を追ってみると、実に短い凝縮された時間の功績だったことがわかります。1年、1年がカウントダウンであったのではないでしょうか?
一方、何も知らない者にとっても、知らないなりに、日本の美術に興味を持っていたら、これまで見聞きしてきたことが、どこかでつながってくるのが見えます。「ジャポニズム」や「パリ万博」などは日本の絵画を知る上で、キーワドとなります。その裏で、これからの日本を憂いた人がいて、その人たちが何を考え何を思い、どんな行動をとってきたのか。そんなことを知ることができる展示でした。
今に至る工業製品やそのデザイン性が、日本独自の優位性として語られます。それは、もともと日本人が持っていた感覚的な感性を、デザイン化という理論に体系化しまとめらるという浅井らの偉業があったからこそと思えます。そしてそれを形にできる技術が、古くから日本には受け継がれており、その職人の伝統の技に、科学や理論の力を得て、技術の革新がおこり、新しい作品へとつながっていった歴史を知ることができました。
これまで「美術」と「デザイン」の違いって何なんだろう‥‥ とよくわからなかったのですが、なんとなくその片鱗をつかめたような気がしました。
■関連
〇心待ちにしてた展覧会「浅井忠と京都遺産」 - うさこ観覧記
〇特別展「浅井忠の京都遺産 京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション」@泉屋博古館分館 - cycle time
〇浅井忠の京都遺産ー京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション - この世はレースのようにやわらかい
〇浅井忠の晩年を知ることのできる展覧会 | 糖類の上 | note
〇浅井忠と大津絵 梅原龍三郎
浅井忠は大津絵をデザインの図案に用いた。浅井忠の弟子には梅原龍三郎や安井曽太郎。都合が悪くていけなかった三菱一号館美術館で行われた「拝啓ルノワール先生ー梅原龍三郎に息づく教え」(2017.1-3)の展示で、浅井の弟子、梅原がコレクションしていた大津絵が展示がされていたそう。「大津絵」というものがどこかでひっかかっていたのはこのあたりからだろうか‥‥
〇「拝啓ルノワール先生 ー梅原龍三郎に息づく師の教え」展レポート | 糖類の上 | note
〇拝啓 ルノワール先生 — 梅原龍三郎に息づく師の教え - この世はレースのようにやわらかい
〇「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え― 展行ってきた – 雨がくる 虹が立つ
また、その後、大津絵のシンポジウム(⇒日仏会館フランス事務所 | イベント・カレンダー | 江戸の庶民絵画、大津絵を読み解く街道絵師からミロまで)が行われていた(2017.7 )。そんな記事も目にしていて、記憶の片隅に「大津絵」があったのかもしれない。
〇大津絵のシンポジウム <レポート>|MC's Art Diary
〇日仏会館・国際シンポジウム「大津絵を読み解く」に参加した!|とんとん・にっき2
〇「大津絵」の魅力海外に発信 仏人日本美術史研究者、解説書を母国で出版(1/2ページ) - 産経WEST
〇大津絵と浅井忠について
〇浅井忠 紹介ページができました&木版画も新登場! | Winds!芸艸堂 店長ブログ
〇大津絵風藤娘:Hearts and Numbers:So-netブログ
〇京都工芸繊維大学 中澤岩太関連
京都工芸繊維大で中澤岩太博士を知る|宗方玲・詩人が語る京都と歌舞伎
中澤岩太にスポットをあてた展示があったもよう
■脚注
*1:【追記】2016.09.14)都の遷都の影響
京都工芸の危機感は、都が東京に移ったということも大きな影響の一つと、帰りに読んでいた図録のどこかに書かれていたのを見て、なるほど・・・・と妙に納得していました。その記事を探しているのですが見当たらず・・・・
以前、県民性に関する書籍の中で、京都というのは、都を持っていかれてしまったという惜別の念がいまだに残っている地域。都はそもそも京都だという意識を今でもっているところだという話を聞いていました。そんなことも相まって、当時の焦りのようなものが切実感を持って受け止められました。
そして京都の町は常に革新性のある町で、新しいものを取り込んでいきたところ。五重塔は今でいうスカイツリーのような存在。水路閣は、今はいい感じになじんでいるけども、できた当時は前衛的でキッチュで評判が悪かったと聞きました。
そうした常に新しいものを取り入れ、反発を受けながらも過去を引き継いで今に至る町。古からの土地が持っているDNAのようなもの。そんな京都がかつてない危機感を持っていたことについて「浅井忠とデザイン教育の夜明け」の講演会で解説があったもよう。京都の方からその話を聞くのは貴重な機会だったと悔やまれます。講演会は内覧会から日がたっておらず、もう少し自分の中で消化ができてから再訪と思っていたのですが、チャンスは一期一会なり…
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